影のステップが止らない
モンジロウの弟子として最初の一歩を踏み出したネルに、師匠は奇妙な課題を突きつけました。
それは、風車小屋の裏手に広がる、常に霧が停滞しているような薄暗い一画の調査でした。
そこはハッカの香りが妙に鼻に突き、冷たい空気が地面を這うように流れている場所です。
「ネル、お前は自分の影をまじまじと見たことがあるか」
モンジロウは小屋の入り口に寄りかかり、欠けた耳をぴくつかせながら尋ねました。
ネルが首を傾げると、モンジロウは懐から真鍮の鈴を一つ取り出し、ネルの首元に器用に結びつけました。
「猫ってのはな、本音を我慢しすぎると、その吐き出せなかった感情が影に溜まっていくんだ。あそこにいる奴は、あまりにも行儀よく振る舞いすぎた。結果、影が主人の言うことを聞かなくなっちまったのさ」
霧の奥へ進むと、一匹の黒猫が奇妙な体勢で固まっていました。
その猫の名はクロ。
彼は必死に地面を踏みしめて動くまいとしていましたが、その足元にある影は、まるで意思を持っているかのように激しく、狂おしいダンスを踊り続けていました。
影が勝手に跳ね、回り、伸び縮みするたびに、クロの細い体は振り回され、今にも関節が外れてしまいそうでした。
「助けて……もう三日も、影が踊り続けて止まらないんだ。僕はただ、静かに昼寝をしたいだけなのに」
クロの悲痛な訴えを聞きながら、ネルはどうすればいいのか分からず立ち尽くしました。
しかし、モンジロウに結びつけられた鈴が、ネルの鼓動に合わせて「シャラン」と澄んだ音を立てた瞬間、ネルの視界が少しだけ変わりました。
影の中に、黒い棘のような「澱み」がいくつも突き刺さっているのが見えたのです。
「ネル、調律の基本は共鳴だ。あいつの影のステップに、お前の影を重ねてみろ。そして、あいつが飲み込んだ言葉を、お前の鈴の音で引きずり出すんだ」
モンジロウの遠くからの助言を受け、ネルは意を決してクロの影の渦へと飛び込みました。
途端に、冷たい感覚がネルの足先から伝わってきます。
それはクロがずっと隠してきた、自分をよく見せたいという見栄や、誰にも甘えられない孤独の冷たさでした。
ネルの影がクロの影と重なり合うと、二匹の影は巨大な一つの闇となって膨れ上がりました。
ネルは怖さを堪え、無我夢中でステップを踏みました。
あっちの世界で習ったわけでもないのに、体が自然とリズムを刻みます。
地面から芽吹いた音の種が、ネルのステップに呼応して、低く唸るようなベース音を奏で始めました。
「クロさん、叫んで! 我慢しないで、本当の気持ちを音に乗せて!」
ネルが叫ぶと同時に、首元の鈴がこれまでにないほど激しく鳴り響きました。
その純粋な音波が、影の棘を一つずつ粉砕していきます。
クロの口から、押し殺していたような長い溜息が漏れました。
「僕は……僕は本当は、格好なんてつけたくなかった! もっと泥だらけになって、魚の骨を追いかけていたかったんだ!」
クロが本心を叫んだ瞬間、狂ったように踊っていた影は、嘘のようにぴたりと動きを止めました。
影は本来の持ち主の足元へと静かに収まり、ただの無機質な輪郭へと戻っていきました。
霧が晴れ、桃色の月光がようやく地面に届きました。
クロはその場にへたり込み、深い眠りに落ちました。
それは三日ぶりの、本当の安らぎでした。
ネルもまた、全身の力が抜けて座り込みましたが、その胸には言葉にできない達成感が宿っていました。
「悪くない。初めてにしてはな」
いつの間にかそばに来ていたモンジロウが、ネルの頭をぶっきらぼうに撫でました。
モンジロウの手のひらは大きく、驚くほど温かでした。
「影ってのは、嘘をつけない鏡なんだ。調律師は、その鏡を磨くのが仕事だ。さて、ネル。仕事が終われば腹が減る。小屋に戻って、少しばかり残しておいた干し魚を分け合うとしようじゃないか」
モンジロウが悠然と歩き出すと、その後ろをネルは一生懸命追いかけました。
ネルの首元で鳴る鈴の音は、先ほどよりも少しだけ優しく、夜の空気になじんでいるようでした。
ハッカ蒸しの原には、また穏やかな静寂が戻り、魚の骨の雲がゆっくりと形を変えながら、次の夜へと流れていくのでした。




