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またたび酒の幻灯機

 冬の終わりがようやく近づき、ハッカ蒸しの原には、どこか落ち着かない、湿り気を帯びた生暖かい風が吹き始めました。

 地表から上がる蒸気の柱も、凍てつくような鋭い白から、春の訪れを予感させるような、次第に深い藍色へとその色を変えています。

 そんな、季節のつなぎ目の不安定な夜のことでした。

 モンジロウは珍しく自分からネルを誘い、森の最果て、古びた楡の木の根元にひっそりと佇む一軒の酒場へと足を運びました。

 その酒場の名は「琥珀のまたたび亭」といいます。

 道しるべとなる看板はなく、ただ入り口の軒先に吊るされた真鍮のランプが、ハッカの濃い霧の中でぼんやりと揺れているだけです。

 重い樫の木の扉を押し開けると、そこは猫たちのむせ返るような熱気と、鼻を突くようなまたたび酒の甘く、どこか退廃的な香りで満たされていました。

 天井には乾燥したまたたびの蔓が所狭しと吊り下げられ、ランプの光を浴びて奇妙な影を落としています。

「いいかネル、ここはただの安酒場じゃねえぞ」

 モンジロウは低い声で釘を刺すように言いました。

「酔いが回る頃、壁に映し出されるものをよく見ておけ。それが今夜、そしてお前が調律師として一生向き合い続けることになる本当の相手だ」

 モンジロウはカウンターの隅に慣れた手つきで腰を下ろし、琥珀色の液体が入った小さなグラスを注文しました。

 ネルの前には、炭酸の泡が弾ける特製のハッカ水が差し出されます。

 店の中央には、これまで見たこともないほど巨大で複雑な、無数の真鍮の歯車が噛み合った「幻灯機」が鎮座していました。

 酒場の主人が、真っ黒に熟したまたたびの実をその機械の投入口に投げ入れると、カチリ、カチリと乾いた規則的な音が響き始めました。

 店内に流れる古いジャズの調べが、その音に合わせるようにして次第に熱を帯びていきます。

 やがて、強い酒を飲み干した猫たちの瞳がとろんと濁り始め、尾の先が酔いに任せてリズムを刻み始めた頃、静かな異変が起きました。

 店内の白漆喰の壁に、猫たちの実体としての影ではない「何か」が、おぼろげな光を伴って映し出され始めたのです。

 それは、今ここにはいない親しい猫の面影であったり、かつてこの森に存在した、今はもう取り壊された古い広場の風景であったりしました。

 あるいは、若かりし日の猫たちが胸に抱いていた、けれど今はもう心の棚の奥深くに追いやってしまった、色彩豊かな夢の断片でした。

 またたび酒の強い効能に酔った猫たちの脳裏から、抑えきれなくなった過去の記憶が、幻灯機のレンズを通じて鮮やかな映像として壁に溢れ出していたのです。

「これが、またたび酒の幻灯機の正体だ。猫ってのは酔いが回ると、自分の心の一番柔らかい場所にある過去を、どうしてもさらけ出しちまう。だがなネル、問題はここからだ。あまりに深く、美しすぎる過去に酔いすぎると、自分の本物の影が壁に張り付いちまって、現実の世界に戻ってこられなくなる奴がいる。そうなれば、そいつの魂は二度と『今』という時間を歩けなくなるんだ」

 モンジロウが指差す先では、一匹の年老いた猫が、壁に映る「かつての恋人」の影を必死に追いかけ、震える手で何度も虚空を掴もうとしていました。

 老猫の肉体は確かにそこにありながら、その気配は次第に透き通り、壁の向こう側の幻影と同化し始めていました。

「ネル、出番だ。調律棒を幻灯機のレンズの端に、細心の注意を払って当てろ。過去の光が強すぎて猫を飲み込もうとしているなら、それを『今』という鋭い音で散らしてやるんだ。思い出の中に溺れ死にそうな奴らの目を、力ずくで覚ましてやれ」

 ネルは緊張で喉をごくりと鳴らしながら、真鍮の調律棒を手に取りました。

 壁に映る幻影は、あまりにも甘く、そしてあまりにも切なく、ネル自身の心さえも深い淵へと引き込もうとする、抗いがたい魔力を持っていました。

 もし、このまま何の責任もない過去の中に留まっていられたら。

 ネルの脳裏にも、かつて雪の中で孤独に彷徨っていた自分を、不器用に、けれど確かに温かく拾い上げてくれたモンジロウの手の感触が、幻のように浮かんでは消えます。

 しかし、ネルは自分の弱い心を振り払うように強く首を振りました。

 自分の首元にある鈴が奏でる現実の音を聴き、今、隣で不味そうな安酒を転がしながら、じっと自分を見守っているモンジロウの確かな実在を道標にします。

 ネルは調律棒を幻灯機のレンズに添え、光の屈折率を、静かな水面に波紋を立てるように微細に変化させました。

「チリン……」

 鈴の音が、酒場の粘りつくような酔った熱気を、鮮やかに切り裂きました。

 ネルが放つ音色は、過去というものを決して否定するのではなく、それを今を生きるための静かな力として、あるべき場所へ送り届けるような、優しくも峻烈な響きを湛えていました。

 壁に映っていたまばゆい幻影が、ゆっくりと陽炎のように揺らぎ、セピア色の霧となって空気中へ霧散していきました。

 深く酔っていた猫たちは、一様に大きなあくびをすると、まるで何年も続く長い夢からたった今目覚めたような顔で、自分の手元にある厚手のグラスや、隣に座る友人の少し汚れた顔を見つめ直しました。

 過去の世界に吸い込まれかけていた老猫も、ふらつきながらも自分の椅子に深く腰を下ろし、ようやく安らかな現実の息を吐いています。

「……ふん。まあ、合格点に近い手際だな」

 モンジロウはそう言ってグラスを空にすると、代金をカウンターに置き、ネルの肩をポンと軽く叩いて店を出ました。

「過去ってのはな、たまに遠くから覗くからこそ美しいんであって、住み着くための場所じゃねえのさ。それを重荷にするんじゃなく、自分の奏でる音の一部にしちまえばいいんだ」

 外に出ると、ハッカ蒸しの原には春を待つ青い夜霧が立ち込めていましたが、ネルの心は、冬の朝の冷たい空気のように澄み渡っていました。

 自分の過去も、いつかはこの幻灯機に映し出される日が来るのかもしれない。

 けれど、その隣にはいつも、この師匠が奏でるような、少し不器用で、けれど絶対に揺らぐことのない確かな音が響いていてほしい。

 ネルは、モンジロウの大きく力強い歩幅に遅れないように合わせて、一歩ずつ、逃げ出すことのできない愛おしい現在を地面に刻みながら、自分たちの住む風車小屋へと帰っていきました。

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