レジェンド弁護士志水麻里江登場!
みんなと別れて、並子は千葉の実家に向かった。彼女には計画があったのだ。携帯に、中国で感染症が発症したらしいとの小さなニュースが流れた。
美子は、年始の用意、大掃除とご馳走の準備に明け暮れていた。徹男は大晦日から3日まで自宅に帰る許可をもらって、久しぶりに家族全員で食卓を囲めることになった。並子のことは心配であったが、とりあえず過酷な労働からは解放されると聞いてホッとしていた。美子にとってはコンビニへの出資は親友のご両親を助ける為であって、生活がかかっているわけではなかった。それどころか娘が酷い扱いを受け、憔悴しているのかと思うとそのことの方が腹立たしいのだった。
「お母さん、ただいま。」並子は明るく玄関から入ってきた。
「おかえりなさい。無事に終わったみたいね。」美子は一瞬、娘の疲れ切った姿にドキッとしたのだが、それを隠して、明るく答えた。
「大掃除?大変ね。お父さん、明日、病院から一時帰宅ですってね。良かったね。」
「久しぶりにみんな揃うわね。あんたも手伝ってよ。」美子はいつもどおりに娘に振舞った。
「荷物、置いたら手伝うわ。」そう言うと、並子は元の自分の部屋に荷物を置きに行った。
並子の姿が見えなくなると、美子は小さなため息をついたが、せっせと掃除を続けた。暫くすると、並子も来て、二人は無言で掃除をし続けた。
翌日、徹男が力子と美子に連れられて、戻ってきた。並子は父を精一杯明るい笑顔で迎えた。徹男は娘を暫く見つめて、黙って笑った。事業をしているものとして徹男には並子の胸に帰する思いを察知していた。しかし、彼はもともと寡黙な男だから、何も口にはしなかった。徹男が寝室に落ち着くと、美子、並子、力子、三人は年明けの用意に手分けして、働いた。後から考えると、それは人々が平穏に過ごせる最後の年の瀬であったのだ。
徹男は、美子の手料理に舌鼓をし、終始機嫌よかった。
元旦の新土手2丁目店、さっちんはシフトを終え、帰ろうとすると、石田がやってきた。
「俺、今日から明日まで、ずっと入るんだよ。身体持つかな?」石田はぼやいた。
「頑張って下さいよ。」さっちんはそう軽く言うと、挨拶して帰って行った。新土手2丁目店の年末年始は大変に閑だった。しかし、休みなくシフトに入るというのは、やはり有難くなかった。なぜなら、ニコマートでは超過勤務が禁止されていて、超過勤務をすると、懲戒処分になるのだった。石田は事情を竹山に何度も説明したのだが、竹山所長は一切取り合ってくれなかった。所長は石田に人員を確保するのは君の責任だから、なんとかしろ、と言うだけだった。石田は憂鬱な気分で店番を始めた。
石田の携帯に、中国で発生した感染症についてのニュースが繰り返し流されていた。
力子は元旦以外は勤務が入っていたので、2日の日は徹男と美子と並子だけなった。
「並子、何かお母さんに話があるのだろう?」徹男は静かに言った。並子はドキッとして、父を見た。美子も夫を見て、それから娘を見た。
「どうして、分かったの?」並子は図星を指されて、白状した。
「分かるよ。」だって、父親だぞっと、徹男の声は静かだ。
「どういうこと?」美子は並子に聞いた。
「お母さん、会社の本店をこの家にしたいの。勿論、家賃は払うわよ。」
「えっ、だって、もうお店も無いし、会社を続ける意味はないじゃない?」美子はこれ以上娘が苦しむのを見たくなかったのだ。まだ、並子なら他の仕事に就くこともできるはずだ。
「私、キチンと調査して、ニコマートに文句を言いたいのよ。」
「そんな!あれだけのことをされてまだ懲りないの?ニコマートは大企業なのよ。私達のことなんてどうにでも言い逃れができるのよ。」
「分かってるわ。私だって、大企業に逆らっても勝ち目がないことくらい分かってる。それくらい世間のこと知っているわ。でも、あの人たちは、私達が弱いから酷いことをしてもバレないと思っているのよ。私達に大きな後ろ盾があれば、こんなこと絶対にしないわ。だから、許せないのよ。」並子の胸の中に堪りに堪った怒りがその時口から迸って出た。
徹男は娘を見て、妻を見た。彼は中小企業のオーナー社長だった。だから、大企業がどんな強大な力を持っているのか身に染みて分かっていた。しかし、彼はだからこそ娘の怒りを理解できた。
「やらせてやれ。」徹男は妻に言った。美子は信じられないという表情で夫を見た。
「あなたは、娘がこんな酷い扱いをされたのに、それだけじゃ足りないの?」
「並子は社長として、責任を全うした。その責任で決意したんだ。やらせてやれ。」徹男は娘を見て言った。
「お父さん。ありがとう。」そう言いながら、並子の目に涙が溢れた。それを見て、美子も心を決めた。
「分かったわ。やりなさい。お父さんが許したんですもの。私が何を言っても仕方ないわ。」
並子は今がチャンスとばかり胸に秘めた提案を出した。
「それから、お母さん、会社の事業目的だけど、少し増やしたいのよ。それもいいかしら?」
「好きにしたらいいでしょ。」美子は肩を竦めて、仕方ないわね、とういう表情で言った。
「お母さん、ありがとう。」並子は泣き笑いの顔で母を見た。
「さあ、じゃあ、そうと決まれば、食事の用意よ。久しぶりにみんながいるんですもの。」
美子は明るく言った。
ニコマートの大熊専務と沢野井社長は、飯野商事の井戸社長の自宅に挨拶に来ていた。井戸の自宅は都内の一等地のタワーマンションだった。二人はロビー階で井戸の部屋番号を入力した。
「明けましておめでとうございます。ニコマートの沢野井でございます。」
「やあ、沢野井くん、今年もよろしく。」井戸と沢野井は沢野井が飯野商事にいたときからの旧知の間柄だった。二人は、オートロックの開錠の後、エレベーターで最上階の井戸の部屋に向かった。
井戸のマンションの自宅は最上階で、井戸家用の門の両側には門松が立てられていた。沢野井がドアのベルを鳴らすと、井戸が出迎えてくれた。井戸は沢野井に昔から好意を抱いていた。後ろを歩く大熊は幾分、緊張して沢野井の後ろをついて行った。
「この度はうちの問題で大変ご面倒をお掛けしております。」沢野井は井戸に会うなり、頭を下げた。
「まあ、まあ、今日はそんな固い話はしないで、新年を祝おうじゃないか。大熊くんもそんなに緊張しないで。」井戸は笑顔で言った。
「そう言うわけにはいきません。」沢野井も大熊も緊張を解くなどできなかった。
「とにかく、居間に入り給え。料理でもつまんで、酒でも飲もう。」井戸は二人を居間へと招き入れた。これは良い兆候だと大熊は思った。もし、井戸が自分たちの意図を拒絶する気なら居間にまでは招き入れないだろう。
沢野井は、居間に入るなり、床に正座した。大熊も沢野井に倣って、その後ろに正座した。
「井戸さん。」沢野井の表情は必死だった。彼は両手を床につけて、頭を下げた。これには大熊も井戸も面食らってしまった。大熊は上司に少し遅れて、慌てて両手を床につけて、頭を下げた。
「沢野井くん、何もそこまでしなくても。」井戸は言いながらも、沢野井をしげしげと観察していた。彼は沢野井の覚悟がいかばかりかと測っていたのだ。そして、彼はこの男に賭けてみようと思った。沢野井とはそういう男だった。
「部下から、君がオーナーたちとLINEで繋がったり、大幅なリストラを強行しているという報告も受けている。君の覚悟はよくわかっているつもりだ。」井戸の言葉は厳しい商戦を戦ってきた商売人の言葉だった。
「それじゃあ。」沢野井は期待するように言葉を挟んだ。
「君のことはよくわかっている。しかし、うちは、株主に対して利益を上げるという約束をしている。それが実現できるにはどうしたらいいいか、君たちとよく話し合おう。」井戸は沢野井の肩に両手を置いて言った。これは沢野井と大熊にとっては、何よりの朗報だった。
「ありがとうございます。」沢野井は井戸に頭を下げて礼を言った。
「男がそんな頭を下げるものじゃないよ。」井戸は言うと、沢野井を立たせて、居間のソファに座らせた。大熊はどうしたものかと、沢野井と井戸を伺い見た、井戸は大熊の方を見て頷いた。大熊はソファの隅の方に小さくなって座った。
「さあ、食ってくれよ。この肉、旨いんだよ。」井戸はそう言うと、二人に酒を注ぎ、料理を勧めた。
並子は、4日に、板橋の社宅に戻った。彼女は新たな決意の下に、行動を開始した。まずは、本店を千葉の実家に移し、新たな事業目的を追加して、事業を継続することから始めた。彼女はインターネットで法務局の書式をプリントアウトし、法務局の板橋出張所に電話で問い合わせながら、書類を作成し、相談窓口に持って行って、チェックしてもらい、提出した。事業目的に追加したのは、文筆業及び著作物の管理とFP業の研究、経営、管理だった。なぜ、これらを追加したのかと言うと、並子は一連の事件の小説を執筆しようと考えたのと、FP業は花山金太郎とホットハートコーポレーションの受けた被害を他の人が受けないようにアドバイスしたいと考えたのだ。勿論、直ぐに顧客をゲットできる代物ではない。しかし、取り合えず、この為に動くことで事業を継続しようと決心したのだ。
それらの書類を法務局の板橋出張所に提出すると、バイト達の最後のバイト代を払う用意をしなくてはならなかった。並子は書類を確認していて驚いた。末井たち新土手2丁目店のバイトたちの給料がすべて、前月の最後の店舗運営日に現金で差し引かれていたのだ。当然翌月10日払いの末井やバイトたちの給料もだ。末井はトレーナーたちから日払い給料の支払いを禁止されていた。彼はそれを並子に文句を言っていた。並子は末井にLINEでこの件を問い合わせた。末井は、並子とのその時のやり取りのLINEの一部をコピーして送ってきた。それで、並子が了解したというのだ。しかし、それは嘘だった。その文面の最後まで読むと並子はそんなことを許可していないのだ。しかも、彼は自分の給料を例のごとくタイムカードも切らずに残業代をつけた計算で計算し、取っていたのだ。並子は、それまで、新土手1丁目店の店舗運営だけでも手一杯だった。彼女はまだ、給料日も来ていないのに、そんなことをすればニコマートから管理上の問題を指摘されるので、一度戻して欲しいと連絡したのだが、末井はそのニコマートから許可をもらった、と言ってきたのだ。
並子が誰から許可をもらったのか、教えろと聞くと、中々答えなかった。
並子は石田にその件を確認することにした。彼女は石田にテキストメールを送った。暫くすると、石田から電話がかかってきた。
「お疲れ様です。どういうことですか?」
「お疲れ様です。末井さんが店舗運営の最終日にニコマートから許可をもらって、自分の給料を現金でもらったと言っていますが、誰が許可したのですか?」並子は怒りを抑えて聞いた。石田は、並子の怒りなんて屁の河童だった。逆に強い口調で言い返した。
「俺ですよ。何が悪いんですか?ニコマートではそれが普通ですよ。それより、俺、年末年始休みなくシフトに入ることになって懲戒がついたんですよ。」
「えっ?それはすみません。ところで、まだ、うちの会計資料もらってないんですが、早くください。」並子は石田の怒りに押されて、お人好しにもついそう言ってしまった。考えてみれば、自分が蒔いた種なのだ。しかし、石田は大変に利己的な人間だった。自分の身を守る為には平気で他人を犠牲にできるのだ。石田は、並子がまだ自分のしたことに気付かないのを腹の中で笑った。
「そうでしたね。電話、いつでもかけてきてください。」彼は会計資料の件は完全に無視し、並子に同情するように電話を切った。並子は、勿論、二度と電話などするつもりはなかった。彼女はニコマートは石田を切るつもりなのだと思った。しかし、「なぜなのか?」
9日、並子は電車で池袋に向かった。新土手2丁目店に放置されている社用車を引き取る為にURの駐車場を借りる手続を池袋のURの営業センターでしなくてはならかったのだ。並子はペーパードライバーだった。車を移動するのは自分ではできなかった。並子は周囲の人間で運転できそうな人間に車の移動をたのんだのだが、引き受けてくれたのは川合労務管理事務所の川合理事長だけだった。その理事長の予定が12日の日曜日しか空いていなかったので、手続はその日の内に済ませる必要があったのだ。
並子が社宅に戻ったのは夕方遅くになっていた。テレビでは、去年末からの中国で発生した謎の感染症のことが話題になっていた。その症状は、肺炎によく似ていること、大方の人は症状が軽いが高齢者や基礎疾患がある人間が罹ると重症化することなどだった。しかし、それは彼女には他国の話でしかなかった。
10日、並子は川合理事長とも相談の上、末井の事はそのままにしておくことにした。そして、バイトたちに最後のバイト代を振込支払った。並子は末井と石田がグルだと確信していたが、このことはそれを裏付けるものだった。これは、今後の調査の中で、資料を読み解くキーになるだろうと思った。今はそれで良いことにしようと決めた。ニコマートが石田を切ることの意味もそのうち分かるだろう。
12日、午前10時に川合理事長と新土手2丁目店で会い、社用車をURT団地の駐車場に移動させた。並子はお礼を言って、手元にあったワインを1本渡した。愛犬家の理事長は犬を家に置き去りにできず、自分の車で連れてきたので、帰りを急いでいた。川合理事長を見送ると、並子は社宅に戻った。
そろそろ源泉税の申告をしなくてはならなかった。しかし、ニコマートからは不足している会計資料がまだ届いていなかった。その資料がなければ、日払い給料としていくらの金額が引かれているのか確認できないのだ。石田はいくら督促しても、渡してくれなかった。並子は美子と相談して、竹山所長へ「源泉税の申告期限が来ているのに、会計資料がないために申告ができずに困っています。至急資料を送って下さい。」というテキストメールを送った。竹山は直ぐに、「どんな内容が必要ですか?送ります。」と返信メールを送ってくれた。並子は「全て欲しいです。」とメールを返した。
そして、本当に翌々日には去年4月から12月までの会計資料を送ってくれた。並子はそれで初めて日払い給料で収益の殆どが抜けれていたことを知った。しかし、彼女はまだ怒るわけにはいかないと感じていた。彼女の直感はまだまだ問題が出てくるだろうと言っていたのだ。
竹山からの会計資料が送られてきて翌日、何故か突然、石田から「お預かりしていた防犯カメラをお送りします。」というテキストメールが送られてきた。翌日には、千葉の本店住所に防犯カメラが入った段ボール箱が着払いで送られてきた。美子が開封してみると、中身は全く何の保護するような梱包もされていず、乱暴に精密機械が放り込まれていた。
「ディスプレイっていうのかしら?防犯カメラの映像を映すテレビ見たいなやつだけど、壊れていたわ。」美子は並子に電話で報告した。
防犯カメラはニコマートの所有物ではなく、ホットハートコーポレーションの所有物で100万円もしたものだった。石田は並子が拒否しているのにも関わらず、勝手に持ち去り、返却に関しても、全く不誠実なやり方で返してきたのだった。並子は母から話を聞いて、更にニコマートに対しての怒りと不信を募らせていった。
「20日、中国・武漢市で新型コロナウイルスに関連した肺炎の発症が相次いでいる中、厚生労働省は16日、神奈川県在住の30代男性から同ウイルスが検出されたことを公表した。男性は今月3日に武漢市で発熱し、6日に帰国後、同日に神奈川県内の医療機関を受診。10日に入院し、15日に症状が軽快して退院後、現在は自宅療養中で熱はないものの、咳をしているという。6~10日の男性の行動については、調査が進められている。」(薬事日報 電子版メールニュースより)
23日、並子は、打合せの為に押田弁護士と木田弁護士の事務所を訪れた。並子は約束の4時に行くと、事務員の女性がいつもの会議室に並子を案内した。いつものドヤドヤという足音と共に押田と木田が部屋に入ってきた。開口一番押田は言った。
「これから最終財務報告書をニコマートが作ってきます。それに押印する前に、その内容を税理士の先生にチェックしてもらって下さい。僕らは専門じゃないから、その内容について何も言えないのです。」
「えっ、そんなことできるんですか?」並子はかすかな希望を感じた。彼女は警察から「ニコマートに文句を言え」、と言われてからどうやって文句を言えばいいのか悩んでいたのだ。
押田は親身の顔になって、身を乗り出して言った。
「今は、言わば『もう運営はしません』、と言ったところだ。まだ、契約は解除されていないんだよ。」
「・・・・」並子の頭はまだ事実を理解しきれていなかった。
「ニコマートは判子を押すまでは、気にするが、判子を押したら全く気にしなくなる。」押田はより嚙み砕いて並子に説明した。
「分かりました。」並子の顔は希望で輝いた。「判子を押すまでに徹底的に調べよう!ちゃんと文句を言えたら、その結果がどうだって諦めがつくわ。」と心に決めた。
帰りの電車の中、並子はちょっぴりの希望を抱きながら、携帯のニュースを見ていた。ニュースは「春慶節で中国から多数の観光客が来日している」と報じていた。
28日午前10時30分、並子は神保町の会計事務所にいた。川合労務管理事務所の川合理事長から紹介した佐藤税理士と顧問契約をするためだった。佐藤は体格の良い、40代後半の税理士だった。並子は、ニコマートとの経緯について佐藤に話し、押田に指示されたニコマートの作る最終財務報告書の調査を依頼した。
「でも、その前にして頂かなくてはならないことがあります。」一通り説明すると、並子は更に言葉を続けた。
「何ですか?」佐藤税理士は、尋ねた。
「実は、うちの前の顧問税理士の先生がした税務申告を修正しなくてはなりません。それと、他の税理士の仕事にケチをつけるようなことをしなくてはいけませんが、それでも引き受けて頂けますか?」そして、並子は吉田税理士との経緯と、板橋税務署との約束を話した。
「前期、前々期の税務申告の修正申告を完了した後、うちの今年の3月の確定申告が終わった後でなければ、確定した数字が出ません。それがなければ、最終財務報告書の数字との照合もできないと思います。」そう言って、ニコマートが送ってきた未開封の会計資料を佐藤税理士に渡した。佐藤は受け取って、その場で開封した。並子は経理事務を担ってきていたが、この税務申告については、自分はノータッチでいようと決めていた。
「4万円で引き受けましょう。」佐藤税理士は即決した。
「それと、源泉税の納税はしたのですが、税務署への内容の申告がまだなんです。お渡しした中に日払い給料があると思うのですが、その総額を支払給料の額に足さなくてはならないのですが、今まで会計資料がないので、作成できませんでした。それもお願いします。」
「1万円でやりましょう。」佐藤税理士は言った。
並子は板橋税務署との約束を果たせて、ホッと肩の荷を下ろした。
「よろしくお願いします。」そう頭を下げると、佐藤税理士の事務所を後にした。
ニコマートの池袋の本社では、社長室で沢野井社長と大熊専務が打合せをしていた。
「これは、感染が拡大する危険性がある。うちとしても対策を立てなければならない。」沢野井は新型コロナウイルスのニュースのことを心配していた。商社マンの経験からも海外からの感染症の危険性を熟知していた。
「しかし、まだ、国内では数例しか発症していませんよ。」大熊はその点、いくらか呑気だった。
「いいや。中国からの大量の観光客が来日しているだろう?この人たちがウイルスのキャリアーの可能性がある。早めに対策を打った方がいい。」沢野井は大熊の楽観論を諫めた。
「では、古井次長と図って、対策の原案を作ります。」大熊は社長命令にそう答えたが、内心では、沢野井の心配しすぎだと思っていた。
「ところで、例の板橋のフランチャイジーの件だが、どうなったのかね?」沢野井は大熊にそれ以上感染症の恐ろしさを説いても無駄と考え、話題を変えた。
「順調に推移しています。不正の源は排除されます。折を見て、店舗運営権を戻すのでいいのではないだしょうか?」
「確かに、酒類の販売許可もたばこの販売許可もうちでは取得してないんだよな?」
「はい、ご指示通りにいたしました。」
「分かった。それでいい。」沢野井は言った。これで、新土手1丁目店と新土手2丁目店の問題は円満に解決する筈だ。数多いるフランチャイジーの1案件ではあるが、下手をすれば刑事事件などの大事になり得る。円満に解決する方が企業として得策であると彼は考えていたのだった。大熊も沢野井の意向を理解して、部下に指示をしていた。
その頃、石田はニコマートの人事部に何度目かの呼び出しを受けていた。石田は、胃が痛くなるような屈辱感を感じていた。彼は自分が此花並子に店舗運営権を放棄させる為にかけた罠、年末年始の労働力の確保という罠に自分がはまったのだ。本社が合意解除という結論を出したお陰で、竹山らに追い詰められてついには自分が禁止されている超過勤務をし、懲戒処分を受けたのだ。しかし、彼はそれに対して、自分に非があるなどとは全く考えていなかった。彼が考えたのは自分をこういう羽目に追いやった此花並子に対する怒りだった。そして、上層部への恨みだ。
「しかし、最後に笑うのは俺だ。」石田はあるフランチャイジーと交わした秘密の覚書を考えた。彼は、何が何でもホットハートコーポレーションに店舗運営権を戻させるのを阻止することを決意していた。
人事部の社員は石田を個室に案内した。個室には折り畳みの椅子が折り畳み式の机を挟んで向かい合って置かれていた。彼が座ると向かい側に、人事部の社員が座った。
「石田さん、あなたは今後、わが社にどういう寄与ができますか?」人事社員は尋ねた。
石田は、退職勧奨を受けているのだ。彼はしどろもどろ、いつものように答え始めた。
「中華人民共和国に端を発した新型コロナウィルス感染症は、短期間のうち急速な広がりを見せ、感染者数は、中国国内及び世界各地域を合わせ1万人を超える事態となりました。 1月31日には、世界保健機関(WHO)は、今般の感染症の発生状況について『国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態』に該当すると発表し、我が国においても感染症法の指定感染症に指定され、同年2月1日付けで施行されました。 都内においても、既に数名の感染が確認されていますが、今後も患者の発生や更なる拡大が危惧されます。」(「新型コロナウイルス感染症への対応に関する緊急要望」2020年2月2日東京都都知事小池百合子氏より)
世の中が徐々に感染症の恐怖の色に染まろうとしていた。
「報道関係者各位 『横浜港に寄港したクルーズ船内で確認された新型コノナウイルス感染症について』 2月3日に横浜港に到着したクルーズ船『ダイアモンド・プリンセス号』については、海上において検疫を実施中ですが、新たに新型コロナウイルスに関する検査結果が判明した171名のうち41名について、新型コロナウイルスの陽性が確認されたため、本日、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県、静岡県の協力を得て感染症病棟を有する医療機関に搬送することとしています。陽性が確認されたのは、合わせて273名中61名となりました。」(2020年2月07日(金)【照会先】厚生労働省 医薬・生活衛生局検疫業務管理室 検疫業務管理室長 大重 修一 室長 石田 恵一 健康局 結核感染症課 係長 山田 大悟より)
2月に入って、並子は自分の体調の異変を感じ始めた。しなくてはならないと気持ちは焦るのに、無気力感に苛まれる。夜眠ろうと、部屋を暗くすると、恐怖と無力感と自責の念が襲い掛かってきた。眠れるのはいつも朝方になってからだった。
「心療内科に行った方がいいかな?」並子は元々精神的に強い人間ではない。平凡な人間だ。他人から「莫大な違約金を取る。」と脅されたり、嘲笑らわれたり、騙されたりしても平気な神経の持ち主ではなかった。長時間の不眠不休の労働も、責任者の責任を全うすることも大変な負荷を受けていることだった。それが証拠に以前にも、人間関係のトラブルで心療内科に通院した経験もある。
「でも、私が諦めたら誰もニコマートに文句を言う人が居なくなる。警察にも言われた、これは自分の責任者としての責務だ。」並子は自分を叱咤激励して、調査を続けた。
そして、ニコマートの竹山から最終財務報告書が完成したとのテキストメールと合意の為の押印の打合せの日程の問い合わせが来る。
「とうとう来た!」並子は竹山に返信メールを送る。
「弁護士から最終財務報告書は、税理士の先生に精査してもらうまでは押印しないようにと指示されています。なので、それが完了するまでは、押印できません。」
繰り返すが此花並子はスーパーヒーローではない、普通の人間だ。大企業であるニコマートの意に逆らうのは決死の覚悟が必要だった。何しろ彼女は石田と竹山から散々脅され、虐められ、裏切られてきたのだ。ヤクザに逆らう普通の人のような心境だった。竹山は、それを簡単には納得してくれなかった。彼は、並子に新土手2丁目店の防犯カメラのリース契約の契約者変更をしなくてはならないと並子を説得し、「18日火曜日15時に会う」約束をさせる。並子は竹山と会うのも怖かった。何しろ彼女は石田と竹山は同じ穴の貉と考えていたのだ。どんな恫喝をされるか、どんな嘘で騙されるのか、不安でいっぱいだった。しかし、それでも契約者変更しないとニコマートがニコマートの使用している防犯カメラのリース代を支払わないと言われ、仕方なく、会う事にした。押田弁護士と木田弁護士にメールで状況を連絡したところ、最終財務報告書を事前にメールで送ってもらうようにと指示がきた。並子はそれを竹山に伝え、竹山はメールに添付して送ってきた。並子はそれを押田弁護士、木田弁護士に転送し、17日に18時に押田弁護士と木田弁護士と打合せをする約束をとりつけた。しかし、佐藤税理士には、まず、法人税の申告を優先してもらうことにして、送らなかった。確定した決算の上でなければ、最終財務報告書との比較ができないからだ。
板橋営業所では竹山所長が、此花並子から論外の返事を受取、狼狽していた。彼は、大人しく従順に対応してきた此花並子を見ていたので、自分たちの意に逆らうことなど想定していなかった。何しろ彼女は代表者に就任してからどんな無理難題をニコマートが強要しても、一切逆らうことなどしなかった。それは調査をしてみて、どれほどの無理難題だったかわかってきていた。それが、この段階でそんなことを言うなんて、あり得ない反応だった。どう対処していいのか?上はホットハートコーポレーションに店舗運営権を戻すつもりでいる。年末年始、酒類やたばこの販売ができず、近隣の顧客から山ほどのクレームを受け、現場の忍耐ももう限界に達していた。早く、直営を解消したい、それは部下からの強い要望だった。彼は、とにかく此花並子を騙しても、最終財務報告書に印を押させなくてはならないと決意していた。その翌日には、新土手1丁目店と新土手2丁目店の新たなフランチャイジーとの契約締結が決まっていたからだ。
17日18時、並子は有楽町の押田弁護士と木田弁護士の事務所に打合せに来ていた。彼女の背にはちょっとおしゃれなリュックが背負われていた。母の美子が社長らしい身なりをしろというので、奮発して購入したものだった。並子はいつもの会議室に通された。二人の弁護士はやはりいつもの大きな足音をさせて、会議室に現れた。
「最終財務報告書の内容は確認しました。」押田弁護士はまず言った。
「先生、私はいったいどうしたらいいのでしょうか?明日、ニコマートの竹山所長と会うんですけど。」並子は恐怖でいっぱいの表情をしていた。彼女の心はあの恐怖の日々を忘れていなかった。
「とにかく、内容を精査するまでは押印できないと答えなさい。」
「本当に大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫です。」押田はキッパリと答えた。木田も隣で頷いている。
「それで、税理士の先生には精査を依頼したんですか?」木田弁護士が口を挟んだ。
「いいえ、お願いはしていますが、まず税務署との約束過去の修正申告書とうちの法人税の確定申告書の作成を優先していただいています。その結果が出る前に最終財務報告書をお渡しすると、数字に影響を与える可能性があります。正しい精査をお願いしたいので、その作業が終わってからお渡しする予定です。」
「分かりました。それで大丈夫です。」
「なにかあれば連絡をください。」木田と押田は言った。
並子は真剣に肯いた。
翌日、15時、並子は一人で竹山の指定した喫茶店に向かった。喫茶店は小さな川沿いにある可愛らしい喫茶店だった。およそ竹山のイメージとは違っていた。店に入ると、竹山は、手を挙げて席を立った。並子と竹山以外には一人しか客も居なかった。
「こんにちは。」並子は挨拶をした。
「お手数をおかけします。」竹山はソフトな対応だった。もし、最初からこういう対応だったら、並子もそれほど警戒しなかったろうが、竹山の初対面の印象はそう簡単に覆るものだはなかった。竹山は書類の束を書類鞄から取り出した。見ると最終財務報告書もあった。並子は不快そうに竹山を見たが、竹山は視線を外し、そのまま防犯カメラのリース契約の契約者変更の書類を開き、押印箇所を示した。
「あの、うちの本社の住所が変更になっているのですが、大丈夫ですか?」
「は?」竹山は並子を見上げた。
「1月に千葉の実家の住所に本店移転したんです。」
竹山は、しまったというような表情をしたが、携帯を取り出すと、リース会社に電話をかけた。
「お世話になります。ニコマートの竹山ですが、前契約者の住所が変更されているそうなんですが、どうしたらいいでしょうか?前のままで大丈夫ですか?はい、わかりました。」
並子は竹山の返事を待った。
「前の住所でいいそうです。判子もその時のもので大丈夫です。これは、去年の段階で変更されているのですから。」
並子は言われた通りに、必要箇所に印を押した。
「あれ、ここに最終財務報告書もある。どうしてかな?」竹山は自分が態々持ってきて、出したのにとぼけて言った。
「今、押印しないと、新土手1丁目店のリニューアルオープンに間に合いませんよ。」
並子は竹山の言葉に竹山をちらっと見た。しかし、散々騙され、脅されてきた彼女はもうニコマートのどのような言葉も信じられなくなっていた。あの12月26日にされた仕打ちが彼女の気持ちにダメ押しをしたのだった。
「清算金のお金も最終財務報告書に押印を頂けないとお支払いできません。」更に竹山は言った。
清算金の中には消費税や法人税の支払いや未払い給料の支払いの為の預け金も含まれていた。それを、立替払いしなくてはならないということになる。
「私は素人ですし、こういう事は初めてですから、弁護士の先生のアドバイスに従いたいと思います。」並子は必死に勇気をだして言い切って席を立った。
並子の様子に無理と判断した竹山は書類をしまい、席を立った。
「では、調査に協力できることがありましたら、連絡をください。」
「ありがとうございます。」笑顔を作ると竹山に軽く頭を下げ、踵を返した。竹山も困ったような表情を浮かべ、肩を落として帰って行った。明日の新たなフランチャイジーとの契約締結は延期できない。並子が調査の結果、何も見つけられずに諦めるのを待つしかなかった。そうすれば、誰にも二重契約について気付くものなどいないからだ。
その翌日、並子はN保険の担当者とT駅のエキナカのパン屋で打合せをしていた。花山金太郎の為に会社が掛けていた保険金の受取について相談するためだった。ニコマートに文句を言うには調査をしなくてはならない。そして、調査する為には時間とお金が必要だ、その為、保険金の受取ができるかどうかは重要な問題だった。N保険の担当者宇部はちょっとポッチャリとしていて、年齢は並子と大差ないようだった。
「事情は分かりましたが、保険金を受け取るには花山金太郎さんの当社指定の死亡証明書が必要になります。」
「えっ?診断書?」並子は診断書が必要と言われて、保険金を諦めなくてはならないと思った。並子は医師から散々他人には診断書は出せないと言われてきたのだ。そして、その為に大変な辛酸をなめたのだ。
「とにかく、この書式をT中央総合病院に出して見て下さい。どうしても、だめなら私が掛け合います。」宇部は並子を励ますように言ってくれた。並子はあの高齢者長寿医療センターの新田医師の対応を思いだして、恐怖で体が震えてきた。
「でも、もし・・・」並子は尚も恐怖で慄く目で宇部を見た。宇部はなぜこんなにも並子が怯えるのか怪訝に思った。「何か後ろめたいことでもあるのではないかしら?」と。しかし、保険の内容は何十年も前に契約されたもので、契約書も法人で、受取人も法人の契約だった。どこにも、おかしいところがないのだ。
「大丈夫です。」宇部はもう一度、並子を促した。並子は宇部と別れると勇気を振り絞って、URT団地に隣接するT中央総合病院の受付に向かった。受付は若い女性だった。並子は正直に、自分は他人で、花山金太郎が勤めていた会社の代表だと話し、保険金受取の為に死亡証明書が必要であると説明した。受付の女性はすんなり書類を受け取ると、引換証を渡してくれた。並子は拍子抜けしてしまった。もし、花山金太郎の認知症の診断書を新田医師が書いてくれたら、並子はあんな無理難題をニコマートから受けることは無かったのだ。
しかし、並子の不安をよそに、3月に入ってすぐ、T中央総合病院から花山金太郎の死亡証明書ができたと連絡が入った。並子は、思わずうれしくて涙が出そうになった。これで、調査をする為の資金ができる。ニコマートに文句を言えることがまた一歩現実になってきたのだ。
「では、調査に協力できることがありましたら、連絡をください。」竹山は並子にそう言った。並子はこの機会にできなかった質問をしなくてはならないと思った。並子は竹山にテキストメールを送った。「去年6月、花山オーナーの自宅で石田さんと話し合いをした際に、石田さんが弊社の立替払いした新土手2丁目店の開店当初3か月分の従業員給料について、石田さんが振込払いしたと答えられました。その時に振込口座を教えて下さるお約束でしたが、未だに教えてもらっていません。どこに振込んだのか教えて下さい。」
武田の返信はすぐにはなかった。翌日に午後になって返ってきた。
「お問い合わせの件ですが、どこをどう調べても、振込んだ形跡がありません。花山さんが従業員にばら撒いたじゃないですか?」
「そんな!石田さんは確かに私達にそう言いました。」
「もう、石田も辞めましたし、調べようがありません。」竹山の返信はそれ以上の問い合わせを拒否しているように並子には思えた。
「そちらはそれで良いかもしれませんが、これからの私達には重要なことです。納得できません。」
竹山は、並子の問い合わせを調査して、初めて石田の不正について理解した。そして、並子にこれ以上の調査をさせることは、自分たちの身を危うくすることにつながると知った。彼はホットハートコーポレーションに一切の文句を言う手段を与えてはならないと決めた。
竹山は並子が相談している弁護士について、並子から事前に断りを受けていた。 彼は、その事務所の電話番号を調べると、電話をした。受話器から女性の声が聞こえた。
「もしもし、お世話になっております。私はニコマートの竹山と申します。押田弁護士に繋いでいただけないでしょうか?」
「はい。お世話になっております。少々お待ちください。」女性は言うと、直ぐに押田の声になった。
「はい、押田です。どのようなご用件ですか?」
「打合せをしたいことがあります。お時間を頂けないでしょうか?」竹山は無駄な時間などかけなかった。押田は手早く自分のスケジュールを確認すると答えた。
「わかりました。明後日の午後ではいかがですか?」
「では、4時に伺います。」
「了解です。」押田はそう答えると電話を切った。そして、すぐ、ニコマートの大熊に電話をした。大熊は、沢野井と打合せ中で電話は中々つながらなかった。彼は、事務局につながったら、知らせてほしいと言い、ホットハートコーポレーションの資料を見ていた。2時間もして、やっと大熊と電話がつながった。
「どうしたのですか?」大熊は少々機嫌が悪かった。飯野商事との交渉が難航しているのだ。
「実は、あのホットハートコーポレーションの件ですが、・・・・・。」そう言うと、ニコマートの板橋営業所の竹山所長が打合せに来るという話を伝えた。
「なるほど。何か不味いことが起こっているようですな。」大熊はため息をついた。何とか丸く収まると思っていたのに、何をやったのだろう?という落胆の言葉が聞こえてくるようだった。それは、押田も同じだった。彼は、此花並子からのメールの内容の一部を話した。
「大変に酷い扱いを受けたようです。彼女はこのまま黙って引き下がらないでしょう。」
「それは困る。それだけのことをうちの者がやったということを今、公になれば、飯野商事との話がどうなるかわかったものじゃない。」大熊は即断した。
「しかし・・・大熊専務は彼女に店舗運営権を戻すと私に約束されていました。しかし、現場はその意向とは全く正反対の行動を取ったのです。私としても、彼女に対して嘘を言ったことになります。」押田は静かに話した。彼としては、顧問先の意向が最重要だったが、個人的にはこれは酷すぎると思っていた。
「先生。こんな話は言いたくないが、うちとうちの系列会社はそちらに多額の顧問報酬をお支払いしていますよね。そちらの事務所は、うちとは敵対する依頼は受けれない筈です。」大熊の声は厳しく冷たかった。
「分かってます。だから、これまでホットハートコーポレーションからは相談料以外、顧問のお話も全てお断りしています。」
「では、どうすべきか、分かっていますよね?」大熊は言った。
「・・・・それは。」押田は分かっていた。しかし、言えなかった。
「然るべく。」大熊はそれだけを言った。
「分かりました。」押田は応えると電話を切った。隣の席の木田弁護士はいない。事務所は、感染症対策で出社する人数を制限していた。押田は、ホットハートコーポレーションの資料を見、机に飾ってある妻子の写真を見た。どう選ぶべきか答えは決まっていた。
3月2日、不安や恐怖で思うように無気力になり、思うように体が動かない状況になってきたので、並子は以前に通っていた心療内科を受診した。心療内科は大変に混雑していた。彼女は、かかりつけ医にニコマートとの経緯を話、処方箋を書いてもらう。とにかく、ニコマートに文句を言うまで頑張ろう、なんとしても少しでも調査を進めなくてはならない。並子は自分を励まし続ける。
3月3日4時、竹山は、有楽町の押田弁護士の事務所に来ていた。感染症の影響で人通りはまばらで、店もシャッターを下ろしているところさえもある。彼は、有楽町駅前の事務所の入っているビルに入るとエレベーターで押田の事務所のあるフロアーを目指した。受付の電話を取り、面会の予約を告げると、会議室に通された。押田は足音を立てて入ってきた。
「初めまして、ニコマートの竹山と申します。」竹山は名刺を差し出し、押田と交換した。
「それで、ご用件はなんでしょうか?」一頻り挨拶が済むと、押田は切り出した。
「実は。」竹山は押田に此花並子に最終財務報告書に合意のハンコを押すように説得してほしいと話した。
「此花社長は、押田先生に言われて押印を渋っていると私どもに説明しています。その先生から押印するようにと言っていただければ、この話は終わるのです。」
「しかし、どうしてそんなに急ぐんですか?順を踏んでやれば、黙っていても押印するでしょう。」押田は竹山の焦りを怪訝に思って尋ねた。
「私が確認しましたところ、押田先生はうちの顧問弁護士でいらっしゃいますよね。」竹山は事前にその点を法務部に確認していた。
「そうです。」押田は慎重に答えた。
「ですが、このことは、どうか上層部にはご内密にお願いしたいのです。そう、お約束していただかなくては、お答えできません。」
押田は考えた。大熊に報告しなくてはならないことであれば、彼としては誰に忠実でなくてはならないか、明らかだった。
「それは、お約束できかねます。」
「では、お話できません。ただ、急がなくてはならないし、それはニコマートの為だとしか言えません。」竹山の声には必死さが滲み出ていた。これは、独自に調べた方が良いと押田は判断した。
「わかりました。ニコマートの為と言われたら、否やはありません。」
「ありがとうございます。」竹山は頭を下げた。
3月7日、並子はT中央総合病院に死亡証明書を受取に行った。死亡証明書は花山金太郎の死亡の原因と経緯、死亡日時が記載され、担当医師の認め印が押されていた。その経緯の中には、花山金太郎が認知症であったと明記されていた。それを見た瞬間、並子の心は言いようのない安堵感に満たされた。今まで、並子に対して花金太郎が認知症であると証明できる書面は一切与えられなかった。美子が新田医師から聞き、並子が高齢者長寿医療センターで診断書の発行を依頼した際、受付の女性から言われた新田医師の「認知症だから、本人の委任状では診断書は出せない。」という言葉も全ては伝聞で、第三書への証明にはならないものだった。いくら並子が花山金太郎が認知症だから、法的権限を持たせられないと訴えても、誰も信じてくれなかった。ニコマートは、それをいいことに、花山金太郎に権限を戻せと強要してきた。それが、その死亡証明書には当たり前のように書かれていたのだ。
「たったこの一言のために。」並子はあの恐怖の数か月の体験を思った。
「『緊急事態宣言 1回目の状況』緊急事態宣言は2020年3月13日に成立した新型コロナウイルス対策の特別措置法に基づく措置です。全国的かつ急速なまん延により、国民生活や経済に甚大な影響を及ぼすおそれがある場合などに、総理大臣が宣言を行い、緊急的な措置を取る期間や区域を指定します。
対象地域の都道府県知事は、住民に対し、生活の維持に必要な場合を除いて、外出の自粛をはじめ、感染の防止に必要な協力を要請することができます。
また学校の休校や、百貨店や映画館など多くの人が集まる施設の使用制限などの要請や指示を行えるほか、特に必要がある場合は臨時の医療施設を整備するために、土地や建物を所有者の同意を得ずに使用できます。
さらに緊急の場合、運送事業者に対し、医療品や医療機器の配送の要請や指示ができるほか、必要な場合は、医薬品などの収用を行えます。」(NHK特設サイト 新型コロナウイルスより)
3月17日、並子はN保険の宇部とエキナカのパン屋で待ち合わせていた。並子は少し早めに来て、パンとコーヒーでランチをしていた。宇部はマスクをし、大きな書類鞄を抱えてやってきた。
「こんな時期だから、会うのも大変ですよね。」そう言うと、並子もコーヒーを飲むのを止め、マスクをした。
「いいえ、私達はそれが仕事ですから。それに、私は電車ではなく車で移動しますから、平気です。」宇部はそう言うと、コーヒーを買いに行き、戻ってきた。
「診断書、取れたんですか?良かったですね。取れなかったら、上と掛け合おうと思っていたんですよ。」
「ええ、私もホッとしました。」そう言うと、T中央総合病院の死亡証明書と法人の印鑑証明など言われていた書類を持ってきたリュックから出して、宇部に渡した。宇部は内容を確認すると、保険金請求書を出して、並子に書く場所や押印の箇所を指示した。
「今、うちの営業所は営業所を使う時間と人数を制限しているんです。でも、この書類は営業所でしか出せないし、出してから使える日数も制限されているんです。だから、打合せが今日になってしまいました。」
「コロナの影響は甚大ですよね。みんな電車に乗るのも、家から外出するのもあまりしないですものね。法人の印鑑証明を取りに先週久方ぶりに電車に乗って、新板橋まで行ってきたんですよ。でも、電車も法務局もガラガラなんです。」並子は言いながら、宇部の指示通りに書き、押印した。
「保険金がいくら下りるかは、私達にも分かりません。後は本社の担当部署の判断なんです。」宇部は並子が苦労してここに漕ぎつけたのに、少額しか下りなかったら申し訳ないと断りを言った。
「いいんですよ。いくらかでも出れば助かります。元々、それを期待して掛けていた保険金じゃなかったんです。できれば、花山オーナーの治療の為に使いたかったんです。」並子は去年の11月に宇部にその手続について相談していたのだった。宇部も肯いた。
「うちの死亡証明書は死亡診断書と同じ扱いをされているんですよ。この写しでもお役に立ちます。」
「ええ、ありがとうございます。」並子は既に花山金太郎の認知症という病状が書かれているのを見て、写しを取っていた。
「では、お預かりします。」宇部はそう言うと立ち上がり、並子も一緒にパン屋から出た。
並子はパン屋の扉を出て、宇部に礼を言い、その後ろ姿を見送った。宇部も立ち止まって、礼をして、駐車場へと向かって行った。
4月1日、板橋営業所の社員は新土手1丁目店と新土手2丁目店のリニューアルオープンの手伝いに駆り出されていた。リニューアルオープンと同時にオーナーチェンジとなった。今度のオーナーはどちらもニコマートと既にフランチャイズ契約をしているオーナーだったが、別個だった。勿論、ホットハートコーポレーションではなかった。
4月2日、14時、並子は保険金請求の件で、書類の不備があるというので、再度N保険の宇部とエキナカのパン屋で打合せをしていた。世の中は新型コロナウイルスの恐怖で一変していた。二人はマスクをしている。
「使い捨てマスクの品切れで、うちの営業部長が態々自腹で中国から購入してきたんですよ。10万円くらい払ったそうです。」宇部はマスクを外し、コーヒーを一口飲んだ。
「10万円?私は、以前に購入したものがまだあったので、それを使っています。使い捨てマスクの値段が恐ろしく上がっていますよね。消毒薬もトイレットペーパーも。それでも手に入れば恩の字みたいです。」並子は、宇部の持ってきた書類に言われた場所を訂正した。
「先月から言われている緊急事態宣言も発令されるようです。」
「三密ですよね。イベントはどんどん延期されていくし、食べ物屋さんはお客が来ないので、閉店の危機だそうですね。」
「私達も、お客様のところに伺うのに気を遣っています。こういう時ですから、嫌がる方もたくさんいますから、郵送やネットでの手続をご案内しているんですよ。」
「大変ですね。これで、もう書類は大丈夫でしょうか?こんな時だから、お互いにそうあって欲しいですね。」
「本当に申し訳ありません。」宇部は謝って、書類を再度確認した。
春ではあるけど、肌寒かった。でも、換気の為に、パン屋さんのドアや窓は開いていた。
池袋のニコマートの本社では、沢野井社長が全社員に向けてのスピーチをしていた。
「我々は開業以来の重大な危機に遭遇している。」沢野井は言葉を切った。社員たちは現在のパンデミックを思った。
「新型コロナウイルス感染症の影響はオフィス立地店舗へ壊滅的な影響を与えている。この感染症が終息するのはいつになるか、誰も予想できない状況だ。それに加えて、3Kと言われるコンビニ経営を嫌って、他の業種への転換を考えておられるフランチャイジーの方々が増えている。しかし、我々は何としても生き残らなくてはならない。それには、フランチャイジーの方々にわが社の未来に期待していただく、我々を信頼していただけるそういう経営をしていかなくてはならない。」沢野井の声には強い決意が込められていた。幹部社員たちの表情は一様に厳しいままだった。
「飯野商事さんが我々を支援してくださるというお話もいただいている。しかし、これに甘んじてはいけない。なお一層の諸君らの努力を願う。」そこで沢野井のスピーチは終わった。
「『新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言』
新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号)第32条第1項の規定に基づき、下記の通り、新型コロナウイルス感染症(同法附則第1条の2第1項に規定する新型コロナウイルス感染症をいう。以下同じ)に関する緊急事態が発生した旨を宣言した。
記
1.緊急事態を実施すべき期間
令和2年4月7日から5月6日までとする。ただし、緊急事態措置を実施する必要がなくなったと認められるときは、新型インフルエンザ等対策特別措置法第32条第5項の規定に基づき、速やかに緊急事態を解除することとする。
2.緊急事態措置を実施すべき区域
埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、大阪府、兵庫県及び福岡県の区域とする。
3.緊急事態の概要
新型コロナウイルス感染症については、
肺炎の発生頻度が季節性インフルエンザにかかった場合比して相当程度高いと認められること、かつ、
感染経路が特定できない症例が多数に上り、かつ、急速な増加が確認されており、医療提供体制もひっ迫してきていることから、
国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがあり、かつ、全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼすおそれがある事態が発生したとみとめられる。」(「令和3年4月7日発出「新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言」新型コロナウイルス 感染対策 内閣官房のサイトより)
並子は社宅を引き払わなかった。一つには、コロナ禍が始まり、引越することが大変だったこと、そしてもう一つは、調査が完了しニコマートに文句を言うまでは自分の店舗に対する責任が全うできないと感じたからだ。それでも、何もしないというわけにもいかなかった。彼女は入って来る保険金の一部で投資信託を購入することを考えた。株が値下がりしている今こそ投資すべきタイミングのような気がしたのだ。しかし、どこの証券会社に投資したものか、悩んだ。ネット証券の取引登録もしてみたし、様々な証券会社のことを調べてみた。
後から考えると、それがどうして思いついたのか、分からないのだが、彼女はM銀行系列のM証券で投資信託を購入してみようと思い立ったのだ。普通に考えたら、あれだけの扱いを受けたM銀行系列のM証券で投資信託を購入するなんて、あり得なかった。なぜなら、証券会社は数多あるからだ。しかし、彼女の直感はM証券で購入しようと思った。
並子は、まずM証券の東京の支店に電話をしてみた。なぜなら、彼女自身は東京の社宅に在住していて、このコロナ禍の中、遠くまで行くのは気が進まなかったからだ。しかし、法人口座でしかも千葉に本店があると聞くと、本店の近隣の支店に申し込むようにと言われて、松戸支店を紹介された。並子は松戸支店の担当者から電話をもらい、投資信託を購入したいと申し出ると、緊急事態宣言の最中なのに、東京まで会いに来るというのだ。
4月14日、並子は午前中に言われていた法人の印鑑証明他を法務局で用意して、M証券の社員2人とT駅で待ち合わせをした。見回すと入れる喫茶店はどこも開いていない。やっとのことで、ただ一店舗開いてるマクドナルドを見つけると、コーヒーを買って、2階の空いている席に座った。席には1席毎にバツ印がついていた。
「M証券の田中と横田です。」年嵩の男性が自己紹介をした。並子の担当者は女性の田中ということだった。田中はまだ、新人のようだった、吉田が主として2つの商品の説明をした。
「半分づつ、購入でもいいですか?」並子は即決した。
「勿論です。」吉田は答えた。
「では、申込の手続をしましょう。」吉田がサポートして田中が書類をだし、並子に署名、押印をさせた。吉田からしたら、あまりにも簡単に申込がとれたので、拍子抜けをしたようだった。しかし、如才ない彼はそんなことおくびにも出さない。
「でも、うちのような小さな会社でも購入できるんですか?」ふと、散々な扱いをされたM銀行でのことを思い出して、聞いていた。
「勿論ですよ。」吉田は怪訝に思って言った。それはそうだ、お金を出すのではない、お金を出して購入してくれるのだ、それに小さな会社も大きな会社もない。
「そうですか。」並子はそれ以上何も言わなかったが、不安だった、M銀行の対応が心を深く抉っていた。
並子の恐怖の原因は、ニコマートやM銀行の大下がホットハートコーポレーションの法的書類を無視し、認知症の花山金太郎に経営をさせろと強要したことだ。しかも、それを彼らは堂々とやってのけるだけではなく、並子に精神的、肉体的、経済的苦痛を与えたのだ。彼女は世の中を信じられなくなっていた。
「『新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の区域変更』
新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号)第32条第1項の規定に基づき、令和2年4月7日、新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言をしたところであるが、下記のとおり、緊急事態措置を実施すべき区域を全都道府県とすることにより区域を変更することとしたため、同条第3項の規定に基づき、報告する。
記
4.緊急事態を実施すべき期間
令和2年4月7日(埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、大阪府、兵庫県及び福岡県以外の道府県については、同月16日)から5月6日までとする。ただし、緊急事態措置を実施する必要がなくなったと認められるときは、新型インフルエンザ等対策特別措置法第32条第5項の規定に基づき、速やかに緊急事態を解除することとする。
5.緊急事態措置を実施すべき区域
全都道府県の区域とする。
6.緊急事態の概要
新型コロナウイルス感染症については、
肺炎の発生頻度が季節性インフルエンザにかかった場合比して相当程度高いと認められること、かつ、
感染経路が特定できない症例が多数に上り、かつ、急速な増加が確認されており、医療提供体制もひっ迫してきていることから、
国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがあり、かつ、全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼすおそれがある事態が発生したとみとめられる。」(「令和3年4月16日発出「新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の区域変更」新型コロナウイルス 感染対策 内閣官房のサイトより)
M証券での取引口座開設の取引は中々進まなかった。理由はコロナ禍ということもあるだろうし、並子があまりにも不安そうだったということもあるかもしれない。並子は、どうしてもM銀行の対応を思い出すと不安になるのだ。しかし、何も知らないM証券の田中や吉田には、ヒステリックな客としか思えなかった。彼らは、並子の対応に嫌気がさしながらも、我慢して、手続を進めた。
「『新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言』
新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号)第32条第1項の規定に基づき、下記のとおり、新型コロナウイルス感染症(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10年法律第114号)第6条第7項第3号に規定する新型コロナウイルス感染症をいう。以下同じ。)に関する緊急事態が発生した旨を宣言した。
記
1.緊急事態措置を実施すべき期間
令和3年4月25日から5月11日までとする。ただし、緊急事態措置を実施する必要がなくなったと認められるときは、新型インフルエンザ等対策特別措置法第32条第5項の規定に基づき、速やかに緊急事態を解除することとする
2.緊急事態措置を実施する区域
東京都、京都府、大阪府及び兵庫県の区域とする。
3.緊急事態の概要
新型コロナウイルス感染症については、
肺炎の発生頻度が季節性インフルエンザにかかった場合に比して相当程度高いと認められること、かつ、
都道府県を超えて感染が拡大し、又はまん延しており、それに伴い医療提供体制・公衆衛生体制に支障がしょうじていることから、
国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがあり、かつ、全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼすおそれがある事態が発生したと認められる。」(「令和3年4月23日発出「新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言」新型コロナウイルス 感染対策 内閣官房のサイトより)
そして、5月になって、やっと取引口座が開設の手続が整い、投資信託購入の代金の振込をした。
並子は口座開設と代金振り込みが終わると、少し恐怖心が薄まるような気がした。彼女は、世の中の全てが敵のような気がしていたのだが、ちゃんとマトモナ対応をしてくれるところもあるのだ。並子は田中にM銀行での大下の対応を伝え、自分がヒステリックになっていたことを謝った。田中は並子に電話で不思議なことを言った。
「法人取引は、他行からだと振込手数料がかかるんです。」
「そうですか?じゃあ、M銀行に口座があると便利ですね。」
「そうですよ。是非作って下さい。」
「でも、うちのような小さい会社は口座が作れないんじゃないですか?」
「そんなことないですよ。どこにでも作れますよ。」
「え、でも。」並子はそう言うと、口ごもった。とりあえず、もう一度、M銀行東京営業部大下に問い合わせてみようと決心した。
「『新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の期間延長及び区域変更』
新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号)第32条第1項の規定に基づき、令和3年4月23日、新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言をしたところであるが、下記のとおり、緊急事態措置を実施すべき期間を延長するとともに区域を変更することとし、令和3年5月12日から適用することとしたため、同条第3項の規定に基づき、報告する。
記
1.緊急事態措置を実施すべき期間
令和3年4月25日(愛知県及び福岡県については、同年5月12日)から5月31日までとする。ただし、緊急事態措置を実施する必要がなくなったと認められるときは、新型インフルエンザ等対策特別措置法第32条第5項の規定に基づき、速やかに緊急事態を解除することとする
2.緊急事態措置を実施する区域
東京都、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県及び福岡県の区域とする。
3.緊急事態の概要
新型コロナウイルス感染症については、
肺炎の発生頻度が季節性インフルエンザにかかった場合に比して相当程度高いと認められること、かつ、
都道府県を超えて感染が拡大し、又はまん延しており、それに伴い医療提供体制・公衆衛生体制に支障がしょうじていることから、
国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがあり、かつ、全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼすおそれがある事態が発生したと認められる。」(「令和3年5月7日発出「新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の期間延長及び区域変更」新型コロナウイルス 感染対策 内閣官房のサイトより)
5月7日、並子は、かかりつけの心療内科を受診した。彼女の半年間の恐怖はまだ心を深くえぐっていた。彼女は、何をするのも億劫になり、思い通りに書類調査が進まなくて、苦しんでいた。暗闇で眠ろうとすると言いようのない恐怖が襲ってきて、眠れず、いつも、明け方になり、陽の光がでるとやっと安心して眠れるのだった。彼女は自分の体験をかかりつけ医に身震いをしながら話した。声は大きくなり、診察室の外にも漏れるようだった。
5月11日、佐藤税理士から、並子は法人税の申告書が完成したとのメールが来た。並子は、佐藤税理士に最終財務報告書をメールで送付し、精査を依頼した。
5月13日、並子はM銀行東京営業部に電話をした。電話に出たのは女性の担当者だった。並子はM証券からM銀行の口座を作れると言われたことを伝えた。女性は困ったようだったが、並子から聞いた口座番号を調べて答えた。
「お客様の口座は既に最終取引日から3か月経過しており、口座の解約が可能です。」
「じゃあ、解約します。手続はどうしたらいいんですか?うちは、前回も申し上げましたが、代表者が変更されています。そして、最近、本店も移転しています。その変更手続はしなくてもいいんですか?そちらの口座を解約できれば、他の支店に口座が作れますか?」
そこで、彼女は大下に電話を替わった。大下は相変わらず横柄だった。
「お前とのところは、当行に口座など作る必要がない。M証券との取引と言っても、一回だけでしょう。そんなのに利便性など必要ないよ。」
「M証券の人がそんなことは無いって言ってましたよ。どこにでも普通預金口座は作れるって。」並子は最後の勇気を振り絞って、言ってみた。
「違う。どこにも作れないよ。」大下の言葉はにべもなかった。
「あなたもグルなんですか?うちの会社は前任者が認知症でそれを悪用した人間のお陰で莫大な被害を被りました。」並子は大下が嘘をついているのだと感じて怒っていた。
「警察にでもどこでも訴えてくれてかまわないよ。」一瞬、電話口で大下の顔色が変わったような感覚がした。
「私は、あなたを絶対に許しません。」並子は最大ボリュームで言い放った。
並子は電話を切ると、思いつく限りの場所にクレームを言って、そして、そのことをM証券の田中に伝えると、寝込んでしまった。「やはり、うちはダメなんだわ。」彼女は強いショックを受けた。
電話を切って、大下は背後を見た。新しくやってきた上司が彼を厳しくみていた。
「大下くん、どういう事なの?」彼女は大下に説明を求めた。彼女の側には並子の電話を一番最初に受けた女性が立っていた。大下は不味いことになったと思った。
彼は、M銀行の社内規定を犯していたからだ。M銀行には口座名義人本人が口座の内容の変更手続をすることを拒否してよいという規定はなかった。それが、別の大得意客からの依頼で作った口座であってもだ。現在はマネーロンダリング防止の観点からも、官庁から厳しく口座名義人の確認をするようにと通達されている。逆に口座名義人が口座の内容の変更を申し出れば受け付けなければならないのだ。それを拒否したなんて、あってはならないことをしたことになる。しかし、大下は、ニコマートの石田から言われて、それを拒否した。それも、彼は並子からホットハートコーポレーションの全部事項証明書を受取、内容を確認し、写しを取ったのだ。そして、法律上、前代表書は口座開設後すぐに任期切れで退任しているということも確認していた。そして、これが、ニコマートにとっては、都合が悪い事実なのを理解した。だから、ニコマートの為に此花並子の手続を拒否したのだ。これは、法人営業部課長としての上顧客に対する忖度だった。しかし、前任者が認知症で、その役員変更を妨害したとなると、これは犯罪に加担したということになりかねなかった。そして、M銀行行員である大下がそう処理したということはM銀行がそれに加担したということに見える。これは、M銀行にとっても大下にとっても有難くない状況だという事だった。彼は、必死で上司への言い訳を考え始めた。
その日の夜中、ショックで寝込んでいた並子は照明から水が落ちているような気がした。照明の下のテーブルが濡れているのだ。驚いて見上げると、天井の漏水防止シートが大きな瘤を作って下にたわんでいるのだ。そして、壁を便って水がしたたり落ちて来ていた。並子は急いで、URの管理事務所に連絡をした。
「『新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の期間延長及び区域変更』
新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号)第32条第1項の規定に基づき、令和3年4月23日、新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言をしたところであるが、下記のとおり、緊急事態措置を実施すべき区域を変更することとしたため、同条第3項の規定に基づき、報告する。
記
1.緊急事態措置を実施すべき期間
令和3年4月25日(愛知県及び福岡県については、同年5月12日、北海道、岡山県及び広島県については、同月16日)から5月31日までとする。ただし、緊急事態措置を実施する必要がなくなったと認められるときは、新型インフルエンザ等対策特別措置法第32条第5項の規定に基づき、速やかに緊急事態を解除することとする
2.緊急事態措置を実施する区域
北海道、東京都、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、岡山県、広島県及び福岡県の区域とする。
3.緊急事態の概要
新型コロナウイルス感染症については、
肺炎の発生頻度が季節性インフルエンザにかかった場合に比して相当程度高いと認められること、かつ、
都道府県を超えて感染が拡大し、又はまん延しており、それに伴い医療提供体制・公衆衛生体制に支障がしょうじていることから、
国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがあり、かつ、全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼすおそれがある事態が発生したと認められる。」(「令和3年5月14日発出「新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の区域変更」新型コロナウイルス 感染対策 内閣官房のサイトより)
14日、URの管理事務所から男性二人が来て、水漏れで大きくたわんでいる天井の水漏れ防止シートから水抜きをすることになった。男性たちは二つある部屋のそれぞれの照明を外し、大きなプラスチックの容器に水をぶちまけた。押し入れの奥の壁が水で濡れていた。幸い殆どの衣類をプラスチックの引出か、圧縮袋で仕舞っていたので、被害は出なかった。でも、被害を管理者に確認してもらうようにと言われる。その後、並子の上の階の住人が来て、その上の階の高齢の女性が便器の上水の容器を壊したのが原因の水漏れ事故だと説明された。「上水で良かったですよ。」URの修理の男性は言った。並子も汚水でなくてホッとした。翌日、URの管理者の人が被害を確認してくれると連絡がある。被害を確認してもらえるまでは、片付けれない、ひどい有様の部屋の中で並子は次から次へと不運が続き、かなり凹んでしまった。
「『新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の期間延長及び区域変更』
新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号)第32条第1項の規定に基づき、令和3年4月23日、新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言をしたところであるが、下記のとおり、緊急事態措置を実施すべき期間を延長するとともに区域を変更することとし、令和3年5月23日から適用することとしたため、同条第3項の規定に基づき、報告する。
記
1.緊急事態措置を実施すべき期間
令和3年4月25日(愛知県及び福岡県については、同年5月12日、北海道、岡山県及び広島県については、同月16日、沖縄県については、同月23日)から6月20日(北海道、東京都、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、岡山県、広島県及び福岡県については、5月31日)までとする。ただし、緊急事態措置を実施する必要がなくなったと認められるときは、新型インフルエンザ等対策特別措置法第32条第5項の規定に基づき、速やかに緊急事態を解除することとする
2.緊急事態措置を実施する区域
北海道、東京都、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、岡山県、広島県、福岡県及び沖縄県の区域とする。
3.緊急事態の概要
新型コロナウイルス感染症については、
肺炎の発生頻度が季節性インフルエンザにかかった場合に比して相当程度高いと認められること、かつ、
都道府県を超えて感染が拡大し、又はまん延しており、それに伴い医療提供体制・公衆衛生体制に支障がしょうじていることから、
国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがあり、かつ、全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼすおそれがある事態が発生したと認められる。」(「令和3年5月21日発出「新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の期間延長及び区域変更」新型コロナウイルス 感染対策 内閣官房のサイトより)
5月25日、並子は佐藤税理士との打合せの為に、神保町の事務所をやってきた。佐藤税理士の事務所は神保町の駅を出て、5分くらいの路地裏のマンションの1室だった。彼女が約束の10時にベルを押すと、佐藤税理士のところの女性アシスタントが扉を開けて出迎えてくれた。並子は、部屋に入ってすぐにある面談用の椅子に座った。佐藤税理士は自分の机で顧客と電話で話していたが、並子が座ると、手を振って合図をして、電話を切り、立ち上がった。
「ご苦労様です。」佐藤税理士は並子のひ弱な様子をじっと観察していた。彼からしたら、ニコマートの対応は此花並子という社長が頼りないからやったこととしか思えなかった。つまり、強者こそが正義なのだ。
「脅し返すくらいのことができないとダメだ。」佐藤税理士は並子に対して歯がゆさを感じていた。並子は何も言い訳しなかった。彼女こそ自分に対して歯がゆさを感じていた。多くの人間は彼女にダメ出しをし続けていた。それが、彼女を心身共に蝕むストレスとなり、彼女は日々、無力感、無気力と戦い続けていたのだった。しかし、彼女は責任者だった。彼女は「文句を言わなくてはならない」と自分に言い聞かせていた。だから、ノロノロとでも、書類を調査し、専門家に調査を依頼し続けているのだった。
「それで、どうなりましたか?」並子は佐藤税理士からの答えを貰わなくてはならなかった。
「お預かりした会計資料と最終財務報告書には大きな乖離があります。どちらを正しいと考えられますか?」佐藤税理士は言った。
「それは勿論、最初にお渡しした会計資料を基に出した数字です。」並子は即断した。というのも、いつも、ホットハートコーポレーションの出す税務申告の数字はニコマートの毎月出してくる会計資料を基に計算していた。つまりは、それが正当な数字でなければ、全ての今までの税務申告を否定しなくてはならなくなる。
「では、こちらが正当な数字とされるのであれば最終財務報告書の数字には疑義を呈さざるを得ません。」佐藤税理士は答えた。
「ありがとうございます。」並子は礼を言って、法人税務申告書に押印、提出を依頼した。
「『新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の期間延長』
新型インフルエンザ等対策特別措置法(平成24年法律第31号)第32条第1項の規定に基づき、令和3年4月23日、新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言をしたところであるが、下記のとおり、一部区域について緊急事態措置を実施すべき期間を6月20日まで延長し、令和3年6月1日から適用することとしたため、同条第3項の規定に基づき、報告する。
記
1.緊急事態措置を実施すべき期間
令和3年4月25日(愛知県及び福岡県については、同年5月12日、北海道、岡山県及び広島県については、同月16日、沖縄県については、同月23日)から6月20日までとする。ただし、緊急事態措置を実施する必要がなくなったと認められるときは、新型インフルエンザ等対策特別措置法第32条第5項の規定に基づき、速やかに緊急事態を解除することとする
2.緊急事態措置を実施する区域
北海道、東京都、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、岡山県、広島県、福岡県及び沖縄県の区域とする。
3.緊急事態の概要
新型コロナウイルス感染症については、
肺炎の発生頻度が季節性インフルエンザにかかった場合に比して相当程度高いと認められること、かつ、
都道府県を超えて感染が拡大し、又はまん延しており、それに伴い医療提供体制・公衆衛生体制に支障がしょうじていることから、
国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがあり、かつ、全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼすおそれがある事態が発生したと認められる。」(「令和3年5月28日発出「新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の期間延長及び区域変更」新型コロナウイルス 感染対策 内閣官房のサイトより)
5月29日13時、並子は有楽町の押田弁護士と木田弁護士の事務所にいた。先日の佐藤税理士の最終報告書への意見を受けて、押田弁護士にニコマートへの交渉を依頼しようと考えたのだった。勿論、有楽町は以前、緊急事態宣言の影響でゴーストタウンのようだった。電車を利用する人もまばらだ。でも、並子はそんなこと構っている場合ではなかった。ニコマートに対して、調査の結果を伝えて、その後の対応をしなくてはならない責任があるからだ。押田はまたドヤドヤと足音をさせて入ってきた。しかし、木田の姿は又もなかった。
「木田先生はどうされたんですか?」何とはなしに事務所も荒んでいるような気がした。
「木田先生は、企業に出向されています。」押田は応えたが、表情は疲れたような表情だった。
「コロナで大変ですね。」並子はあまりにも様変わりした街の様子に言ってしまった。
「裁判所も、裁判どころではないので、我々も閑ですよ。」
並子は、佐藤税理士の作った決算書を出した。押田はペラペラと内容を見ていた。
「税理士さんが、ニコマートの最終財務報告書は間違っていると言われています。」並子は佐藤税理士の言葉をそのまま押田に伝えた。押田は一瞬困ったと感じた。彼は税理士がニコマートに逆らうような回答をするとは考えていなかったのだ。
「そんなはずはない。」押田はつい本音を言っていた。
並子は押田の言葉を怪訝に思った。彼が自分はそういう方向の専門家ではないから、税理士に内容を精査してもらえと言ったのだ。それなのに、今押田は専門家の言葉を否定しているのだ。
押田は、並子を詰問しだした。
「私は、花山金太郎さんの業務停止命令を裁判所で取れとアドバイスしたはずです。」
並子は更に訳が分からないという表情で押田を見た。「そんな話言ったかしら?」そんなこと彼女は全く記憶になかった。
「どうして店舗運営をしようとしないんだ。」押田は更に詰問した。並子はそれで連想したのは、石田と王が花山金太郎宅に押しかけてきたあの瞬間のことだった。
「不可能だからです。」並子は答えていた。あの時、彼女は無理に契約継続をすることは不可能だと思っていた。なぜなら、彼女は吉田税理士、王ら一族が全てを牛耳っている状況で不正が行われていると考えていた。全員がグルでやっている不正をたった一人で正しい方向に持っていくのは不可能な話だった。ニコマートが契約を解除するというのなら、それをおしてまで契約を継続することはどう考えても無理だと思ったのだ。
しかし、押田は別の事を言っていたのだった。彼の頭にあるのは現在の状況だった。彼は、大熊専務の約束を取り付けていた。それが、この状況になったことを言っていたのだ。
「店舗運営をしないのであれば、最終税務報告書を受け入れるしかない。判子を押しなさい。」押田は言った。
並子の目は怒りに激しい光を放っていた。彼女は責任者としての最後の責務として、「ニコマートに文句を言う」ということを果たそうとしていた。それだけを支えに自分を叱咤激励してやってきたのだ。それを否定されて、彼女の怒りは爆発した。
「大企業と裁判しても、勝ち目はない。大企業はお金と人を抱えている。個人じゃ立ち向かえるものじゃない。」
並子は押田を睨みつけて黙っていた。
「寧ろ大企業は裁判になるのを待ち構えている。一番喜ぶのは大企業の弁護士だ。」そう言って、押田は意味ありげに笑った。それはまるで自分が大企業の弁護士だというように並子には思えた。並子は押田を睨みつけながら、頭を巡らした。
「これで、最後ですね。」並子は振り絞るように声を出した。
押田は少し笑って肯いた。
並子は立ち上がると、一礼をした。
並子が帰ると、会議室の隣の部屋で聞いていた男が押田の前に現れた。男は中肉中背だった。並子が見たら、幾度か事務所の入り口で見かけていた男であるのに気付いただろう。
「様子を見ていてくれ。」押田がそう言うと男は肯いた。
押田は男から調査報告書を受け取っていた。その内容は、新土手1丁目店、新土手2丁目店が4月にオーナーチェンジしてリニューアルオープンしたということが報告されていた。竹山が押田に言っていた「ニコマートの為」とはこのことだったのだ。
並子が慎重に調査をしたために、ニコマートの目論見は大きく外れてしまっていた。押田も、並子が5か月も調査に時間をかけるなどとは想定していなかったのだ。全く弱いのか強いのか分からない女だ、押田は皮肉に笑った。彼はそれとは無しに、並子にヒントを与えていた。あの状況では気付かないだろうが、それは彼の良心だった。彼はファイルを終了した事件の棚にいれた。普通の人間ならあれで諦めるだろうが、万が一、諦めなかったら、今度はニコマートからの依頼で動くことになるからだ。押田は自分の机に戻ると、竹山に電話を入れることにした。竹山は押田の電話を待っていたようだった、彼は直ぐに出た。
「竹山さん?弁護士の押田です。」
「押田先生、お世話になります。どうでしたか?」
「ご指示通りにしました。」押田は簡潔だった。
「つまり、最終財務報告書に判を押すようにと言って下さったのですね?」竹山は状況が状況なので確認を入れた。
「そうです。」
「ありがとうございます。これでこの件は片付きます。」竹山は心底安心したような声だった。
「いえ。取り急ぎご報告します。」押田はそう言うと電話を切った。
並子は押田弁護士の事務所を出てから、街をただただ歩いた。表通りの殆どの店はシャッターを下ろしていたし、人影もまばらだった。彼女の頭の中は怒りと恐怖でぐちゃぐちゃに回っていた。彼女はただ繰り返し呟いていた、「どうしたらいいだろう?」 とにかくどこかに座り、何かを食べ、何かを飲みたかった。でも、いくら歩いてもお店が開いていないのだ。歩き疲れた並子は植え込みの周りのコンクリートの囲いに腰を下ろした。神経は異常に研ぎ澄まされているようだった。誰かと話したいのだが、それは母の美子ではなかった。母に話せば心配させるだけだろうし、気が重かった。彼女は携帯の中の友人の電話番号をいくつか見ていた。すると、電話もしていないのに、携帯の呼び鈴が鳴りだした。
「並子?元気にしてる?」電話の声は幼馴染のよっちゃんだった。
「よっちゃん?どうしたの?」並子は沈んだ声で電話に出ていた。
「あんたこそ、どうしたの?」よっちゃんは相変わらずのお節介から並子の声の様子を心配した。並子は今、当に経験した押田弁護士とのやりとりを話した。よっちゃんは、黙って聞いていた。並子は話しながら、だんだん怒りがこみあげてきていた。
「よっちゃん、私、悔しい。」並子の身体は怒りで震えていた。
「並子、その件、あんたの力でどうにかできるような話じゃないよ。弁護士に相談した方がいいよ。」よっちゃんは即決した。
「でも、今、その弁護士から断られたのよ。」並子はよっちゃんに反論した。誰ももう助けてくれる人なんて思いつかなかった。
「私、弁護士さんのボスみたいな先生を知ってるよ。その人なら、大企業でも私達の味方になって戦ってくれるよ。なんたって、国との訴訟で勝った人なんだよ。」
「えっ?その人、うちの件でも引き受けてくれるかしら?」並子は藁にもすがる思いでよっちゃんに頼んだ。
「他ならぬ、並子の為だもの。私が頼んでみてあげる。来週月曜日に私の名前を出して、電話してごらん。」そう言うと、よっちゃんは志水麻里江弁護士の事務所の電話番号を並子に教えた。
「よっちゃんありがとう。」並子は感謝して電話を切った。彼女の心には小さな希望の光がともっていた。
その電話を切って、暫くすると、今度はニコマートの竹山からテキストメールが来た。内容は判子を押す日程の打合せについてだった。彼は並子に調査の結果について一切問い合わせなかった。並子は、志水弁護士が依頼を受けてくれるかどうか、分からない状況ではっきりとした返事をするのは得策ではないと思った。彼女は、「まだ決算の結果が出ないので、結果がでたら連絡します」、と返事をメールした。それだけでは、心もとないと思った。なぜなら、竹山が押田と通じていた場合、押田が並子を断ったことを知っていたら、油断しているだろうが、もし、並子が別の弁護士を見つけると知れば、返事を督促してくるだろう。そうなると、精神的に更に追い詰められる。何とか、彼を安心させておかなくてはならない。並子は押田弁護士に「自分はFPの仕事をしたいので、ニコマートのHPに広告を載せてもらえないだろうか?」とメールしておくことにする。もし、押田と竹山が通じていなければ、何をかいわんやだが、今は少しでも時間稼ぎをしなくてはならないと思った。
6月1日、並子は午後に志水弁護士事務所に電話をした。女性の声が電話口にでた。並子の声は必死のあまりかすれていた。
「此花並子さんですか?先ほどご紹介者の伊藤芳子さんからお話を伺いました。でも、今、志水はコロナの影響で毎日事務所には来ていないんです。今週の金曜日の午後1時ではいかがですか?」
「はい。伺います。」並子はそれまで竹山に督促を受けたらどうしようと一瞬迷った、しかし、この際、選択の余地はなかった。電話を切ると、よっちゃんから電話が入った。
「どう?一応、電話を入れておいたんだけど、旨くいった?」
「ありがとう、会ってもらえるって。」
「良かったね。でも紹介はしたけど、引き受けてくれるかどうかは責任持てないよ。幸運を祈るよ。」そう言うと、よっちゃんは仕事中だからと電話を切った。
池袋のニコマートの板橋営業所では竹山が影井と打合せをしていた。
「とうとう、此花社長は判を押すしかなくなってきたぞ。」竹山は影井に呟いた。
「では、これで全ての問題は解決ですね。」
「調査をどんなにしようが、それを交渉する手段がなければ意味はない。どこにニコマートに逆らって立つ怖いもの知らずの弁護士がいるっていうんだよな。」竹山は上機嫌だった。影井も追従して肯いた。
「それでいつになったんですか?」
「それが、どうもまだ渋っているようだが、資金も無尽蔵にあるわけじゃないし、もう、時間の問題だよ。後で強引に押させたなんて言わせないように、あちらから押すというのを待っているのさ。」
6月5日13時、並子は志水弁護士事務所のある永田町の駅を事務所へと歩いていた。日本中どこを歩いても人影はまばら、ゴーストタウン状況だった。事務所は表通りを少し入った場所のマンションの中にあった。並子が受付で名乗ると、女性が彼女を応接室と使用しているマンションの別室に案内した。並子は書類の入ったリュックを下ろし、換気の為に開いている応接室の窓から外の空気を感じていた。並子はかなり疲弊していた。その疲弊は、何か月にも亘る様々な事件で少しづつ蓄積された膿のようなものだった。暫くして、応接室のドアが開き、マスクをした小柄な女性が現れた。並子は志水弁護士を藁をもすがる思いで見た。志水弁護士は小柄で優し気な雰囲気の老婦人だった。よっちゃんの話から想像していたイメージとはおよそかけ離れていた。並子は立ち上がり、名刺を出し、挨拶を交わした。
「初めまして、弁護士の志水麻里江です。」
「あの、私、こういう事に慣れていないので、どう話したらいいのか分からないのですが。」並子は志水弁護士をどう説得したらいいのか分からず不安になって話を切り出した。
「とりあえず、話して下さい。私がところどころ質問をします。」志水弁護士は穏やかな調子で言った。並子はそれから思いつくままに、志水弁護士の質問に必死で応えながら、ニコマートや王らとの経緯を話した。そして、何時間経ったのか、並子は自分が水道管の壊れた蛇口のようになっていると思った。並子はふと、竹山に対して返事をしないわけにはいかないということを思い出した。
「あの、私は、ニコマートに何と返事をしたらいいのでしょうか?」並子は半泣きで必死だった。志水弁護士に断られてらもう打つ手がない。ずっと穏やかだった志水弁護士は厳しい表情に変わって、暫く考えているようだった。やがて、決然とした声で言った。
「ニコマートに私が代理人だと答えなさい。」
「いいんですか?」並子は信じられないような思いで聞いた。
「志水麻里江弁護士が代理人だと言いなさい。」
並子は本当に何か月ぶりかで安心したような気持ちになった。
「ありがとうございます。」それだけやっと言った。
此花並子社長、せめて文句を言えるだろうか?




