並子、店舗運営権を失う。
伊田の厚意で並子は深夜遅く、社宅に戻ることができた。彼女が戻ると、美子は電話で話していた。並子は店で軽い食事を買ってきていたので、母の前のテーブルに並べ、冷蔵庫から母の好物のビールを出した。
「じゃあね。」美子は並子の姿を認めると、軽く頷いてから電話を切った。
「信子に花山のお父さんが亡くなったことを知らせていたの。やっぱりショックのようだったわ。彼女も旦那さんを説得して、帰国しようとしていたのですって。」
「じゃあ、信子おばさんは、戻ってこられるの?」並子は期待した。
「いいえ、亡くなったのなら、何もすることもないし、財産には興味もないから、帰国できないって。」
「そうなの。」並子の瞼は重くなってきた。
「病院のことは息子さんたちが動いていたから、あちらで全てされるでしょう。」
「そうね。もう、どうなるのかしら?」並子は心身共にヘトヘトだった。
「成るように成る。」美子は娘を元気づけようと哲学的な言葉を述べた。
並子は最後まで聞いていなかった、彼女はベッドに倒れこんで、そのまま寝入っていた。
翌日、並子が新土手1丁目店に行くと、店はいつもの通りに回っていた。伊田は完璧に深夜勤務の仕事を熟して帰って行っていた。事務所に入ると石田が並子を待っていた。
「お疲れ様です。」石田は悪びれもせずに挨拶をした。
「お疲れ様です。どうしたんですか?」
「来週から、本社から上の者が来て、今後についての話し合いが始まります。」
「そうですか。そうだ。」並子は以前から気になっていたことを修正するのは今しかないと考えた。
「レジからバイトが勝手に給料を持って行っているんですって?」並子は隆たちから石田の指示で日払い給料をバイト各自でレジから出していることを聞いていた。これを是正しなくては、不味いと思った。石田は又ニヤリと笑った。並子は知らないのだが、残ったバイト達の時給は下げたが、給料の日払いは残しておいたのだ。彼女がレジの現金の管理をするということは、バイト達のシフトが終わる時には立ち会わなくてはならない。ローテーションを決めるのは自分だ。つまり、24時間店に並子が居なくてはならないことにできるということだ。彼は並子をストコンの前に座らせた。
「こうすると、あなた以外の人間がレジ操作をして、給料の支払いをすることができなくなります。」彼はそう言うとストコンの暗証番号を入力し、設定をした。並子は自分がどんなに疲弊することをその時にすることにしたか知らなかった。彼女は給料の日払いをする人間はみんな職場放棄をして辞めたと思っていたのだった。石田は大声で笑いだしたいのを必死こらえた。
その日、並子は社宅に戻ると、板橋区の特別養護係から電話が入った。
「どうしたのですか?」
「実は、今日、息子さんが来られて、花山金太郎さんからお預かりしていた預金通帳などを引き上げていかれました。施設の方も病院の方も手続を終えられたそうです。」
「でも、亡くなったのはつい昨日ですよ。早すぎませんか?だって、今まで忙しいから病院にも施設にも来られなかったではないですか?」
「はあ、でも、行政としては、手続がされている以上、お渡しするしかありませんでした。」
「でも、遺産は放棄するから、施設の連帯保証人にもならない、って。だから、うちの母がなったんですよ。」並子は腹立たしくなった。
「やれるだけはやったんですけど。」担当の女性は心苦しそうだった。
「わかりました。」並子はそうだけ言った。これ以上何を言っても後の祭りだった。
翌日、並子が店に行くと、石田によって時給を下げられ、それでも残ったバイトたちが事務所に来ていた。驚いたことに殆どが若い女の子だった。彼女たちの視線は並子に冷たかった。彼女らは石田から並子によって時給が下げられたと告げられていた。しかし、一人だけ石田が時給を下げなかった女の子がいた。隆の友達の愛ちゃんだった。愛ちゃんは隆と巧から並子が花山オーナーを騙して、会社を乗っ取ったと聞かされていた。正義感の強い愛ちゃんは並子に対して彼らの復讐の手伝いをすることを密かに決意していた。石田はそのことを知っていて、彼女の正義感を利用することを計画していた。そして、もう一つ石田が愛ちゃんの時給を下げなかったのには理由があった。石田は、自分の容姿に強い自信をもっていた。つまり、愛ちゃんは彼のタイプの女の子だったので、彼女に対しては嫌われたくなかったのだ。
愛ちゃんはシフトが終わると、その日の自分の給料をレジから出そうとした。レジ処理ができなくなっていた。愛ちゃんはその場にいた石田に向かって言った。
「石田さん、どうなってるの?給料が出せないよ。」愛ちゃんのきれいなマニュキュアをした指で石田をつついた。石田はニヤニヤした。
「今日から此花社長しかレジの出金処理ができなくなったんだよ。此花社長に出してもらって。」そう言って、並子の方に顔を向けた。愛ちゃんは一瞬不機嫌になった。しかし、シフト表を見ると、面白そうな表情になった。石田の作ったシフト表に入っているバイトの子たちは殆どが日払い給料なのだ。
「バイト代ください。」愛ちゃんは並子に言った。並子は一瞬びっくりした。彼女は日払い給料の人間はもう辞めたのだと思っていたのだ。並子は石田の方を盗み見たが、石田は知らん顔をしている。仕方ない、給料を支払わなければならないと思った。まさか、石田が自分を疲弊させるために殆どのバイトの日払いを是正しなかったとは思わなかったのだ。石田は早朝の人間にも、昼勤の人間にも、夕勤の人間にも深夜勤の人間にも日払いの人間を入れた。そして、容赦なく並子に足りないとして、深夜勤を週2日させた。昼間のレジ精算業務や発注業務も並子にさせた。それだけではない、彼女は家に帰ってもオーナー業務の支払や事務処理があったのだ。彼女の睡眠時間は殆どなかった。この事態を招いたのはニコマートと石田だった。その時、並子は知らなかったのだが、彼らが、花山金太郎の認知症を利用して、自分たちの利益を追究したために、ホットハートコーポレーションの店舗運営はめちゃくちゃになったのだ。
しかし、石田はニコマートの社内規定で労働時間を守って働いていた。
そして、石田は、毎日、並子の発注のダメ出しをした。それは店の為ではない。自分の営業成績の為だった。ニコマートの利益が高くなる発注にならないと彼は並子の発注を修正するのだった。そして、彼は彼女に対して、さも親切でそれをしたかのように恩着せがましく、電話してくるのだった。
並子は睡眠時間がほとんどなく、しかも体力的にも肉体労働が続き、次第にちゃんと考えることができなくなっていった。石田は容赦しなかった。彼は、新土手2丁目店の利益も吸い取る計画をしていた。新土手2丁目店は不必要な人件費の計上と不要な在庫の発注で赤字だった。それは、最終的に在庫を確認した際の内容から判明するのだが、それによって赤字になった新土手2丁目店の穴埋めを並子に要求するのだ。
「社長、新土手2丁目店の赤字80万円、入金していただかなくてはなりません。」
石田はヘトヘトで頭も回らなくなっている並子にニヤニヤ笑いながら言ったのだ。並子は逆らう体力も気力も無くなっていた。彼女は休む時間を削って、お金を振り込んだ。
しかし、並子はそれでもよく笑った。彼女は自分でも驚いたのだが、接客が好きなのだった。勿論、意地悪なお客さんもいた。でも、それでも、彼女はその地域のお客さんが好きだった。町で歩いていても、お客さんに声を掛けられることも出てきた。彼女は「噂の店長さん」だったのだ。そして、だんだんバイトの子たちとも馴染んでいく。彼女らが並子に歩み寄ったのは、彼女が日払いの給料を支払うことによってだった。支払者が彼女だと認識してから、バイト達の態度は変わっていった。しかし、ローテーションを作成する石田に対しても、彼女たちは従順だった。彼女らからすると、彼はニコマートを代表する立場だからだ。そして、予てから言われていた本社からトレーナーがやってくるようになり、併せて花山金太郎死去によるフランチャイズ契約についての話の為に二コマ―トの営業部長がやってくるようになった。しかし、なぜか、彼らは並子がヘトヘトになっている深夜勤明かにやってきた。彼女の頭が朦朧となっている時に事情聴取というのを始めるのだった。本来、フランチャイズ契約は法人契約だった。しかし、ニコマートは花山金太郎個人との契約だと譲らず、認知症になっても、彼に経営をさせろと強要したのだ。そんな人間に彼女が何を言ってもどんな意味があるのだろうか?それでも、並子は母から聞いた話を踏まえて、過去からの経緯を説明した。東京営業本部の松山部長と板橋営業所の竹山所長は並子の渾身の説明で、息子の実が過去に店舗運営に関わったが、父親と喧嘩して絶縁したということを知った。
「実氏は喧嘩別れしたんですか?」松山は驚いて言った。そして、竹山所長の方を向いて、指示を出した。
「この話を調査するように。」
「分かりました。」竹山所長は答えた。
「あの、私は弁護士さんに相談しています。」並子はニコマートに弁護士の事を了解しておいてもらおうと咄嗟に考えた。松本は一瞬、困惑したような表情をしたが、並子をじっと見つめると不快そうに言い放った。
「我々が信用できないんですか?」
「いいえ。だって、私はこういう事に慣れていないのでご相談することにしたのです。」並子は恐る恐る答えた。
「どちらの先生ですか?」松本は更に聞いた。
「有楽町の押田弁護士と木田弁護士です。」並子の声は更に小さくなった。
「ああ、あの先生ですか。了解しました。では、この件は検討してご連絡致します。」松山部長はそう言うと、店を出て行った。並子はもう心身共に限界だった。そのまま、よろよろと家に休みに帰って行った。
本社からのトレーナーたちに並子は店舗運営について正しい知識を聞けるようになった。しかし、睡眠時間が殆どない並子はトレーナーが店にいる時間は中々居れなかった。その時間だけが睡眠できるからだった。しかし、トレーナーたちの方は違う意見だった。彼らは彼女に店舗運営について教えるから店にいるようにと言ったのだ。彼女はそれを最初のうちは聞いていた。その為、彼女の睡眠時間も体力も益々消耗して行った。ローテーションを「親切にも」作成していたのは石田だった。石田は並子がトレーナーたちに良い印象を持たせることは絶対に避けたかった。彼は並子を疲弊させる為に男の自分でも過酷なローテーションを作成していた。
ある日、彼女はトレーナーに自分が週2日深夜勤があることを説明することになった。説明したトレーナーはそれ以後は彼女に店にいるようにとは言わなかったが、他のトレーナーは違った。並子は説明する労力さえも失っていて、黙って言われるままに店でトレーナーの厳しい店舗運営についての教育を耐えた。もう、何も考えることさえできなくなっていた。
石田は朦朧としている並子を見て、満足だった。なぜなら、彼女はもう一切の思考能力、判断能力を失ってきているからだ。彼のどんな無茶苦茶な命令にも黙って従う状態だった。
それでも、並子はバイトやお客さんと冗談を言い、笑っていた。ある日、並子は店に行くとプードルを抱えた老婦人が待っていた。彼女は並子にクレームを言ったのだった。
「お宅のバイトの女の子たちが、私に店に入るなというのです。中の一人の女の子なんか鼻くそほじりながら、言うんですよ。」彼女は憤慨していた。しかし、並子は思わずその場面を想像して吹き出してしまった。老婦人は呆気に取られて、気分を少し害していた。
「申し訳ありません。ご気分を害させて。」並子が必死に笑いをこらえて言うと、老婦人は幾分気分を直した。
「気を付けてくださいね。」老婦人はそう言うと帰って行った。
しかし、それを聞いていた愛ちゃんたちは大いに憤慨した。彼女はペットを連れての入店を断ったのだと主張した。その大憤慨している愛ちゃんと森ちゃんに、並子は笑いながら言った。
「だって、若い女の子が鼻くそほじりながら、そんなことを言うなんて・・・」そう言うと、愛ちゃんも森ちゃんもその場にいるバイトの女の子たちは腹を抱えて笑った。
いつの間にか、バイトの子たちと並子はお腹を抱えて笑いあうことが増えていった。珠には常連のお客さんともそういう場面が増えて行った。それが、ヘトヘトの並子に元気を与えていったのだった。並子は、ヘトヘトでも、お店にいる時は、お客さんが来る度に大きな声で「いらっしゃいませ!」と言い、帰る度に「ありがとうございました。」と言った。不思議なことにそれが、彼女に元気を与えてくれたのだった。
トレーナーの中には、店の状態と並子の人柄とがあまりにも乖離しているのを不審に思う者もいた。あの社長で、店がこの状態はおかしいと考えたのだった。しかし、それは、表立っては出されない意見だった。なぜなら、上層部が動いているという噂が流れているからだった。
その頃、ニコマートの池袋の本社では社長の沢野井が大熊専務と打合せをしていた。二人はニコマートの業務改革について、話し合っていたのだった。
「最近、コンビニオーナーになりたい人が減っている。君はこれについてのうちのトレーナーたちの報告をどう考えるかね?」沢野井と大熊の前には本社のトレーナーが全国の店舗に行き、実際にオーナーと店舗運営をし、オーナーたちの不満や問題点についての報告書が積まれていた。
「私の読みましたところ、現場担当者に問題がある案件が散見されました。指導力も提案力もなく、店によっては、うちの看板を嵩に来て、理不尽な要求をしている者もあるようです。」
「オーナーたちのニコマートに対する不信感は相当に深い。これでは、オーナーたちが辞めていくのも理解できる。」沢野井の声は沈痛だった。
「例の新土手1丁目店の件だけではなかったですね。これは、大ナタを振るう改革が必要です。どうなさるんですか?」大熊は沢野井に尋ねた。
「私が直にSNSでオーナーたちと繋がろうと思う。」沢野井は決意を固めていた。
「・・・それは、ちょっと。そこまでされる必要があるんですか?」大熊は沢野井の言葉に驚いて、大声になっていた。
「そこまでしなくては、ダメだ。飯野商事の支援を引き出すには、こちらの不退転の覚悟を示す必要がある。」沢野井は静かな声だった。
「社長がそこまで言われるのなら。しかし、この問題を処理するには、やはり大規模なリストラをする必要があるます。」大熊は厳しい表情だった。
「それは分かっている。問題がある人間を密に排除していかなくてはならない。君のリストラ案を実行する。」沢野井の顔は厳しいままだった。
それと同じ頃、ニコマート本社の近くにある板橋営業所では、所長の竹山と影井が打合せをしていた。竹山は影井から此花並子からの聴取した事情の調査報告を聞いていた。
「つまり、それは、あの此花社長の話は事実ということなのか?」竹山所長の表情は青ざめていた。彼は、前任者の勝沼から此花親子が花山金太郎を騙して、乗っ取りを企てたのだと、言われて彼女たちを悪者として嫌悪し、それ相応の対応をしてきたのだ。しかし、影井の報告は全く逆だった。此花美子が赤字続きの花山金太郎を援助し、今のホットハートコーポレーションの基礎を作ったこと、確かに吉田税理士の申告に問題があること、全て事実だったのだ。こうなると、自分がやってきた対応を180度変更しなくてはならない。しかし、どうやって誤魔化せるだろうか?竹山は胃が痛くなってきた。影井は上司の表情を正しく理解していた。
「所長、どうしましょうか?」ややあって、影井は竹山に尋ねた。
「このまま、松本部長に報告をする。」竹山は決断した。
「わかりました。この報告書を松本部長にお渡しします。」
「いや、俺から渡すから、一部置いておいてくれ。ご苦労様。」竹山は影井から報告書を受け取ると、自分の机に置いて、印を押した。そして、彼は全ての責任を石田に押し付ける方策を考え始めた。自分の身を守るには他に術はないと分かっていた。
石田は竹山の態度の変化を微妙に感じ取っていた。本社にいる勝沼からも電話で本社の雰囲気の変化について聞かされていた。勿論、石田は自分の身を守る為のできる限りの手を打っていた。転職先の確保もその一つだった。しかし、それだけでは足りない。此花並子が自分の本来の権限を取り戻すことになれば、彼女は調査をするだろうし、そうなったら彼がやってきたことを暴くだろう。それは、刑事訴追の可能性も含まれていた。そうなれば、どんな転職先も約束を反故にするだろう。石田は、此花並子の人格を破壊しなくてはならないと決心していた。彼女に全ての事実を暴かせる余力を与えることは絶対にしてはならないことだった。それも、彼女が石田の思惑に疑念など湧かないように細工をしながら、しなくてはならない。
石田は自分の容姿に絶対の自信があった。なので、バイトの若い女の子たちに好意を持たれていると確信していた。彼女たちは彼がローテーション作成者であり、ニコマートを代表していると思っていたので、彼の指示に並子の指示より従った。特にバイトの愛ちゃんは石田によって高い時給を維持されていたこともあり、彼の命令を優先させていたのだった。そして、彼女はバイトのリーダー株であり、彼女の強い正義感は並子が花山金太郎を騙して会社を乗っ取ったという話に強く共感していた。石田は彼女を利用した。
彼は、愛ちゃんのシフトを熟知していた。彼が作成しているのだから当然だ。
「愛ちゃん、お疲れ。」石田は車から愛ちゃんに声をかけた。愛ちゃんは、石田を見ると、笑顔になった。
「石田さん、お疲れ様です。」
「ちょっと、話があるんだけど、お茶でもしない?」石田はさり気なく言った。愛ちゃんは、若く可愛いいので大変にモテる。いつもの事なのだ。彼女は石田をチラリと観察した。石田は慌てて説明を加えた。
「勿論、店のことだよ。」
愛ちゃんは、頷いて、石田の車に乗った。
「どこに行くんですか?」愛ちゃんはスマホをいじりながら聞いた。
「もう少し先にファミレスがあるから、そこまで。」石田は答えて、運転していた。
程なく、スーパーに隣接したファミレスが見えてきた。石田は、車を駐車し、愛ちゃんは車を降りるとファミレスに入って行った。石田も後に続く。店内は空いていて、客もまばらだった。
愛ちゃんは、窓際の席に座り、石田は向かい側の席に座った。
「それで、何なんですか?」
「そんな急がなくても。」石田は、メニューを見た。愛ちゃんもメニューを見て、一番高そうなものを注文することにした。
「石田さんの奢りですよね?」愛ちゃんの問に石田は肯く。店員が水を持ってきて、二人がオーダーをすると、石田は水を少し飲んだ。
「実は、年末年始のローテーションのことを考えているんだよ。明日、希望者を募集する紙を貼る予定だよ。」
「えっ、まだ、11月の終わりですよ。もうですか?早すぎません?」愛ちゃんは石田の考えを読み切れずにいた。此花社長を擁護するために言っているのか、それとも逆かだ。擁護する為なら、早めに人員を確保すれば、安心して店舗運営ができる。逆ならば、人員を確保させないことによって、精神的ダメージを与えることができる。
「早いよね。でも、こうすれば、此花社長に高いバイト代を払わせることができるよ。」
「どうするんですか?」愛ちゃんは高いバイト代が取れると聞いて興味を引いた。
「いいかい?バイトたち全員に年末年始が忙しいと言わせるんだ。そうすれば、高い割増バイト代を払うことになる。だって、人が居なければそうするだろう?」
「はい。そうですね。」愛ちゃんの目は輝いた。
「そうだよ。そうせざる得ないように追い詰めるんだよ。」
「でも、石田さんはどうして私達の為にそこまでしてくれるんですか?」愛ちゃんは此花社長に対して良心が咎めて聞いた。
「愛ちゃんたちも隆や巧から聞いてると思うけど、此花社長は花山オーナーの認知症を利用して会社を乗っ取ったんだよ。ニコマートもだから此花社長に店舗を任せることは嫌なんだよ。だからね、こうやって裏で王さんや隆、巧の手助けをしようと思ったんだよ。此花社長には秘密だよ。」石田は言った。愛ちゃんは、隆や巧と親しかった。だから、彼らの言葉を信用していた。
「分かりました。みんなもバイト代が高くなるのは喜ぶと思います。」愛ちゃんの声は弾んでいた。
「俺がさ、みんなのバイト代下げたからね。罪滅ぼしに協力するよ。」石田は神妙な顔を作って言った。
「ありがとうございます。」愛ちゃんはスマホを取り出すと、バイトの子たちにlineやメールを入れ始めた。暫くすると、彼女は石田の方を見た。
「みんな、協力するそうです。」キラキラ目を輝かして愛ちゃんは言った。石田は肯いた。店を出ると、愛ちゃんは歩いて帰ると言い出した。石田は彼女と別れると、車に乗った。石田は笑いが止まらなかった。これで此花並子は店舗運営権を投げ出すだろう。自分らのことなど暴く余裕などないだろう。
有楽町の押田弁護士と木田弁護士の事務所では、押田弁護士が法廷から戻ってきて、木田弁護士と打つ合わせを始めていた。彼の留守に電話やメールや書類などが山ほど届いていた。彼らはそれらを見、検討し、決済していった。そして、とうとう、ホットハートコーポレーションの案件についての検討に入った。
「押田先生、此花さんから、花山金太郎氏が亡くなった旨の連絡が入った後、ニコマートと東京本社との折衝があるようです。」
「ふむ。これは、一度大熊さんに電話してみようかな。」押田は並子が相当に疲弊していることを察していた。木田も肯いた。押田は、電話の受話器を取ると、内線で事務局にニコマートの大熊専務に電話を掛けるようにと伝えた。程なく、事務局から大熊専務が電話に出た。
「大熊さん、如何ですか?」
「押田先生、こちらは相変わらずですよ。電話は例の件ですね?」
「はい。お約束通りに此花社長は抑えています。大熊さんも配慮をお願い致します。」
「分かってます。ホットハートコーポレーションの運営する店舗は直営化することに致しました。」大熊は答えた。
「その後についても、配慮していただけるのでしょうね?」押田は念を押した。
「約束は守ります。」大熊は答えた。
「ありがとうございます。」押田はそう言うと、電話を切った。木田も隣で頷いた。
並子は翌日、店に行くと事務所に石田の年末年始のバイト募集が貼られていた。並子は妙な感じがした。というのはバイトたちも石田もニヤニヤして並子を見ているのだ。しかし、ローテーションは石田が作っていた。並子には関係ない話だったので、黙っていた。並子はいつものように、発注やレジ精算の業務、両替の業務を熟していった。ヘトヘトだったが、本部から来たトレーナーとの対応もしなくてはならなかった。バイトの子、特に愛ちゃんとトレーナーたちがうまくいかないのだった。石田はこういう調整は一切しない。彼はバイトたちにもトレーナーにもいい顔をしたが、両方がうまくいくように中に入るということはないのだ。両方からのクレームが並子に入った。この調整で並子の休息時間が更に奪われていった。それに、トレーナーの中にはお客さんとうまくいかない人間もいた。お客さんはトレーナーが上から目線で並子を指導するのを見てて、不快だというのだった。お客さんは並子が深夜も早朝も昼間も働き続けているのを知っていたのだ。それをたまに来る本社の人間が威張って指導するというのだから、それは見てて気持ちのいいものではなかった。並子はとうとうファンデーションを切らしてしまい、買いに行く時間もないようになっていった。
とうとうある日、石田は嬉しそうに並子に言った。
「社長、年末年始にバイトの子がいません。」
「えっ?どうするんですか?」並子は自分には関係ない職分なので聞いた。石田は、舌なめずりして話し出した。
「この店は年末年始にも集客があります。いまのままだと毎日24時間、此花さんが入るしかなくなりますよ。嫌だったら、後は高い割増バイト代を払うんですよ。」
「わかりました。様子を見ましょう。」並子は答えた。バイト達のニヤニヤ笑いから察するとあまりいい気分ではなかった。これは、石田と彼女らが組んでいるということだ。しかし、彼女は、今でもヘトヘトだった、これ以上の労働を強いられるのはゾッとする話だった。
本社のトレーナーの一人山井はこの会話をそっと聞いていた。彼は、石田が別の店舗に向かったのを見届けると、並子に話しかけた。
「愛ちゃんの時給は異常に高いようですが、どうしてですか?」
「それは、石田さんが決めたんです。理由は知りません。」並子は答えた。
「そうですか。」山井はそれだけ言うとそれ以上は聞かなかった。
並子は仕事が終わり社宅に戻ると、押田弁護士と木田弁護士にメールで、「ニコマートの松山部長の返事を待っている」、とコメントを入れた。もしかしたら、督促してくれるかもしれないと期待したのだ。そして、ベッドに倒れこんで眠った。
翌日の昼頃、並子は発注とレジ精算を終え、遅いランチを食べていた。すると、いつもの通りに石田がやってきた。
「此花さん、今日は夜勤でしたね?」石田は言わずもがなの話から切り出した。並子は怪訝な顔をした。石田がローテーションを組んでいるのだ、知っている筈だった。
「明日、朝、うちの松本と竹山が参りますので、夜勤が終わっても残っていてください。」石田は有無をいわせない調子で並子に言った。並子はこれから帰って、仮眠を取ってと、考えていたのだが、それを聞いて何等かの答えがでたのだと分かった。しかし、彼らは毎回並子夜勤明けにやってくるのだった。疲労困憊の状況で、思考能力も最低の並子から事情を聴取する。まるで、それを狙っているようにさえ並子は感じていた。しかし、否やは言えない立場だった。その頃になると、店の運営は好転してきていた。その原因の一つは並子が頑張って、店に張り付いているということもある。しかし、それより大きな要因はトレーナーが店舗運営を適切に補助してくれているからだった。彼らはプロとして、率先して店の運営の改善をしてくれていた。バイト達の中にはその厳しい指導に反発するものもあったが、それは妥当な指導であることが多かった。だから、松本部長らが彼らを引き上げると言われると、並子一人の力ではとても店を運営できなかった。何より彼女には店舗運営の正しい知識がないのだ、そして、24時間休みない状況で働くという体力もなかった。
「分かりました。それはそうと、石田さん、テキストメールで送ったんですが、会計資料が何か月分かありません。早くください。」並子は、再度石田に会計書類について請求した。今の彼女にはそれをチェックしている余裕はないが、もらっていないものを請求しないわけにはいかないと思っていた。石田は、そんなものを彼女に渡したくなかった。渡せば、並子は自分たちのことを暴く可能性がある。しかし、彼女にそう言うわけにはいかなかった。
「ああ、今度、再発行してきますね。」彼は答えたが、するつもりはなかった。並子はわかりましたと、言うと、ヨロヨロと店を出て社宅で仮眠に行った。
石田はそのヨレヨレの後ろ姿を睨んでいた。彼は竹山所長から新土手1丁目店と新土手2丁目店が直営化されるという上層部の結論を聞いていた。これは、彼の計画から外れることだった。此花並子はまだ、店舗運営権を投げ出していなかった。そして、並子は知らないのだが、新土手1丁目店はこのままだと此花並子の元に戻ることになるのだった。
新土手1丁目店と新土手2丁目店は酒とたばこの販売許可を有する店舗だった。その販売許可の権利はホットハートコーポレーションが有していた。なので、直営化しても、この権利をホットハートコーポレーションが有する限り、戻されることになるのだった。この本部の決定は此花並子を擁護する為のものだった。石田は冷たい怒りでいっぱいだった。此花並子は石田から見たら馬鹿な女だった。石田が脅し、騙しても気づかずに、言いなりになってきた愚かな女だった。ずっと、自分が下に見ていた人間が自分より優位に立つことになる、石田は屈辱感でいっぱいになっていたのだ。彼は、この話を何とか潰してやろうと決心していた。
翌日早朝、並子は夜勤明けでフラフラになりながら、松本部長と竹山所長と面談をした。
「結論として、合意解除の申出をしていただくことになります。」松本部長は言った。後ろに控える竹山所長も並子のノーメークの疲れはてた顔を見ていた。
「そのご返事はすぐでしょうか?私はこういうことに慣れていないので、弁護士に相談したにのですが。」並子は即断することは避けようと思った。勿論、彼女はヘロヘロで、投げ出したいという気持ちの方が強かった。しかし、彼女は責任者だった。軽々しく決断はできない。
「わかりました。私は、そういう方々の前で話すことに慣れていますので、必要でしたら、出向いて説明いたします。」松本部長はそれだけ言うと、竹山所長と帰って行った。並子は石田を見た。石田は何も言わない。彼は、その時、並子に自分が何を約束したか考えてもいなかった、だから、彼女が自分をなぜ見たのか理解できなかったのだ。彼は、並子に言いなりになれば、店舗運営権を戻すと約束した、しかし、今、松本部長の言葉はそれを否定するものだった。だから、並子は石田を見たのだ。並子は石田の言葉を信じて言いなりに従ったのに、裏切られたのだ。元より守るつもりもない約束のことを石田が考えるわけがなかったのだ。並子は唇を噛んで、黙って、店から帰って行った。
石田は、並子のその様子から、彼女がニコマートの上層部の意思を理解していないことを察した。そして、そこに勝機を見たのだった。彼女を騙して、店舗運営権を取り上げる計画を考えたのだった。取り上げれたら、自分の再就職も確保できる。彼は再びニヤニヤ笑いがでてきた。
翌日、並子が発注の為に店の事務所にいると、ふらりと竹山が入ってきた。
「お疲れ様です。」並子は言った。竹山は書類鞄から2枚の書類を出した。
「この書類を書き写して下さい。」竹山は言った。
見ると、2枚とも契約の合意解約の申出書だったが、一枚はキチンと文書が埋まっており、一枚は白紙だった。
「法務部がこれなら問題ないと言ってます。」竹山は更に言った。文書は、「理由、2019年5月22日付で当社の代表取締役を花山金太郎氏からは此花並子に法人代表を変更しましたが、2019年11月13日旧法人代表者花山金太郎氏が死亡し、FC契約の継続が困難と判断したため合意解約を申入れいたします。」そして、「その他、此花並子は、花山金太郎氏が死亡した2019年11月13日付に遡って、貴社との間に締結したフランチャイズ契約に基づく一切の債務について加盟者と連帯して履行の責任を負うものとします。」となっていた。並子は一読して、先ず、竹山に言った。
「債務だけですか?それだとおかしくなりませんか?」
竹山も、並子の不信感は分かったらしい。
「債権も入れていいです。」彼は答えた。しかし、並子は納得していいか判断できなかった。
「写真を撮ってもいいですか?弁護士さんに見せたいのです。」
「だめです。書き写してください。」そう言って、並子に書き写させた。
並子は連日の長時間労働や夜勤労働などで思考能力が低下していた。世の中には睡眠時間を奪うという拷問もあると聞くが、それに相当する状況だったといえる。更に肉体的、精神的過負荷状態でもあった。そういう状況で合理的思考をしろというのは無理な話だった。
「まだ、弁護士の先生に相談ができません。」並子は必死に答えた。
「いつできるんですか?」竹山は尋ねた。
「まだ連絡が取れないんです。それに、もし、合意解約をするのでしたら、年内にしてしまいたいのですが、それはどうなんでしょうか?」
「わかりました。本社と調整してみます。」竹山は答えた。
「それと、ずっと何か月も会計データを受け取っていません。」並子は竹山にも請求しておこうと言った。竹山は一瞬、表情を曇らせた。
「それは、石田に再発行させることができます。」ばつが悪そうに答えた。そして、彼は自分の名刺に自分の携帯番号を書いて並子に渡した。並子が不思議そうにみると
「なにかあれば連絡をください。」と言って、事務所を出て行った。
並子は発注を済ませて、レジのつり銭を確認し、更には郵便切手の残高を確認した。そして、その不足を手配する為に出かけて行った。ニコマートの社員たちは、仕事が終われば家でゆっくりと休息が取れた。しかし、並子は休息そのものが全くない状況にあったのだ。更に、年末年始の人員の手配についても、石田から責任を押し付けられていた。それでも、一人一人の顧客にもバイトにもニコマートの社員にもキチンと対応しようとした。必死で笑顔を作り、大きな声で挨拶をし、率先して働いた。だんだん笑顔が張り付いてきたみたいと並子は自分で考えて笑った。
家に帰ると、並子はベッドに倒れこむ前に押田弁護士と木田弁護士に相談のメールを送った。そして、美子にも電話をかけた。
「どうしたの?」美子は心配そうな声で電話に出た。
「ニコマートから合意解約の申出をするようにと言われたわ。」並子はサバサバとした声だった。彼女はニコマートの指示にずっと逆らわずにやってきた。そして、そのお陰で店舗運営がめちゃくちゃになって、その後始末を押し付けられ、そして、店舗運営権は戻すという約束で言う通りにしたのに、それさえも反故にされたのだ。もう、彼らを信頼する気持ちは一片もなかった。
「どうするの?」美子は聞いた。娘が疲労困ばいであることを理解していた。
「ニコマートの意向に逆らって店舗運営するのはもう無理だわ。だって、私達が筋を通して、認知症の花山オーナーの権限を取り上げたのに、認知症だって診断が出たとも言ったのに、権限を戻せ、って無茶苦茶してきたのよ。これを断ったら、どんなことをされるか想像もつかないわ。」
「そうね。」美子は娘を慰める術もなかった。
「お母さん、力不足でごめんなさい。」並子は美子に謝った。
「いいのよ。あんたが精一杯頑張ったの、分かってるもの。」美子は言った。
「最後までキチンと仕事は頑張るわね。」
「分かったわ。」
電話を切ると、並子はとにかく睡眠を取った。身体のあちこちが筋肉痛で痛んだ。髪もボサボサだった。でも、少しでも休まなくては、明日の仕事ができないのだった。
その頃、板橋営業所では、石田と竹山が打合せをしていた。竹山は新土手1丁目店に行ったことなど一切石田に言わなかった。竹山の心に石田に対する強い疑惑が生まれていたのだった。彼は、石田が此花社長に新土手1丁目店、新土手2丁目店の会計データを与えていなかったことを知った。これは明らかに普通ではなかった。そして、疲労困憊になりながら、店舗運営に奔走する此花社長のことをあちこちから聞くにつれ、店舗の運営状況がここまでひどくなることと彼女との違和感を覚えていた。店舗運営権を召し上げるという為の手段として、圧力をかけるというのはあり得ることだ。あそこは優良な立地だから。でも、それだけではないということを感じていた。石田が何等かの不正をしている可能性があるということだ。このまま石田を放置しておくと自分の管理責任になりかねない。
石田は、既に竹山の態度に微妙な変化を感じていた。しかし、それを表立って騒げば、藪蛇になる。次の転職先の準備もできている。それを確実にするためにうまく立ち回ることだ。何もかも取り上げられた此花並子の怒りと屈辱の表情を思い浮かべてほくそ笑んだ。あの女は俺よりも下に居続けなくてはいけないのだ。
「石田くん、聞いているかい?」竹山所長は、石田が一瞬笑いそうになったのを怪訝に思って聞いた。
「はい。」石田は大人しく言った。彼はまだ上司だった。
「本社で、大規模なリストラが決まった。それも、現場の人間らしい。」
「そうですか。」石田は無表情に答えた。
「とにかく、新土手1丁目店、新土手2丁目店については、本社のトレーナーの目も厳しくなる、こちらも注意しなくてはならないぞ。」
「でも、ここのところ、店の状態は著しく改善されています。」石田は答えた。
「そうだな。」竹山は言うと、打合せが終わった石田は自分の机に戻り、事務処理を始めた。
竹山所長は、石田の様子をじっと見ていた。影井が竹山の側に寄ってきた。
「所長、リストラの話、営業所の人間に不満が出ています。」
影井の言葉に、竹山も肯いた。そりゃあそうなのだ。現場の人間は上層部に不満を常に持っているものだった。特にリストラをされる人間は、自分たちを切る人間に対して恨みと反感しか持たないものだ。
「分かってる。」竹山はそれだけ言った。影井は上司がそれ以上何も言わないのを察して、黙って離れて行った。このリストラの発表は、少なからず、竹山に難しい舵取りをさせることになるだろうと思った。
翌日、並子は木田弁護士からのメールを受け取った。押田弁護士が来週月曜の午後までスケジュールが空かないというのだった。ただ、合意解約の申出には反対のようだった。並子はニコマートに逆らう気力も体力も尽きていた。しかし、弁護士のアドバイスがある以上、話を聞いてからでなければ返事はできないと思った。彼女はいつものように、発注業務、レジ精算業務などを熟し、つり銭の確認や郵便切手などの残高のチェックをしていた。すると、竹山と石田がやってきた。
「此花さん、お疲れ様です。ご返事はどうですか?」竹山は尋ねた。
「はい。弁護士との打ち合わせが来週月曜の午後になるので、それまでご返事はできません。」並子が答えると、竹山の目がキラリと光った。
「こちらは、ご希望通り、12月26日に合意解約という了解をもらいました。しかし、返事は、来週の月曜の朝一でなくてはダメです。我々も本社で色々動いたのでこれは譲れません。」竹山は言った。
「じゃあ、もう一度弁護士に相談してみます。」並子は言った。
「わかりました。又、明日ご返事を伺いに来ます。」竹山は言った。
竹山が去った後も、石田が残っていた。並子はふと、言ってしまった。
「こちらから、店舗運営を止めると申し出たわけではありません。」
「その通りです。」
「そちらからです。」
「はい。」石田は言った。
それ以上、並子は何も言わなかった。石田も言わなかった。少なくとも、この期に及んでも並子が竹山に対して、店舗運営権を投げ出さないのに驚きを感じていた。彼女は誰が見ても疲労困憊なのだ。もうすでに動くのも筋肉痛が痛いらしく緩慢になっていた。ノーメークの顔は睡眠不足らしく目の下に隈ができている。それでも、仕事を熟していたし、店で一番大きな声で挨拶をしていた。バイトやトレーナーに対しても、八つ当たりもしていない。接客も相変わらず丁寧で親切だった。このエネルギーはどこから来るのだろう?彼女を脅し、怒鳴り、無視し、騙してきた自分が言うのもおかしいが、あり得ない状況だった。石田は知らなかったのだが、並子は社宅を一歩出たら、どこでお客さんがいるかもわからないと思って行動していた。だから、道でお客さんに会ったら挨拶し、困っていたら手助けをした。彼女の接客とはそういう姿勢のものだったのだ。だから、クレーム処理も並子が出た方がうまくいくことの方が多かった。
翌週の月曜日、早朝に竹山と石田が店にやってきた。並子も朝の業務の為に来ていた。
「分かりました。そちらの言う通りにします。」並子は竹山に応えた。並子の睡眠不足で疲労困憊していた頭脳は朦朧としていた。しかも、弁護士に相談するチャンスも取り上げられていて、孤立無援の彼女にはそれ以外の選択肢はなかったのだ。
並子は白紙の書面を取り出し、指定された文言を書き、署名、押印した。勿論、債務のみの連帯ではなく、債権、債務の連帯と書いた。竹山は書類を受け取ると、営業所に戻って行った。並子は深い溜息をつくと、発注業務に集中した。10時にはいつもトレーナーたちがやって来る。彼らは早朝や夜勤はやらない。それでも、安心して店の業務を任せられる人間が入ってくれる時間があって、並子は助かっていた。しかし、その時間を彼女は休めるわけではない。彼らは彼女に店舗運営を教えたいので、彼女に店にいることを望んでいた。それに、バイトたちとトレーナーの関係も良くないので、調整する人間が必要だった。また、日払い給与のバイトたちのシフトが終わると、並子がレジ処理をして払わなくてはならない。つまり、シフトが終わる毎に立ち会わなくてはならないのだ。夜勤、早朝、昼勤、夕勤、それぞれにそういうバイトが入っていると、その都度、並子は立ち会わなくてはならなかった。そして、殆どのバイトを石田はそのようにしていたのだった。つまり、並子には休む時間などなかったのだ。でも、管理の必要上、バイトたちに勝手にレジからお金を持ち出させるということは避ける必要があった。並子は甘んじて耐えるしかなかった。トレーナーたちは、この問題点を理解していた。彼らは当初、そのような給与体制にしたのは並子だと思っていた。しかし、事情を確認していくと、石田であることが判明していった。それを是正するように、彼らは新土手2丁目店の末井と石田に勧告していた。末井は大いに憤慨していたし、石田は馬耳東風の体だった。彼は、自分が指示したことは一切言わなかった。彼は全てを並子の責任に擦り付けるように工作するつもりなのだった。
ニコマート本社では古井が大熊専務にトレーナーたちの報告を上げていた。
「バイトの殆どを日払い給与に変えていた?正気か?」大熊は報告書を読んで言った。
「どうも、担当者がそう指導していたようです。」古井も呆れていた。
「それじゃあ、店舗運営などできるわけがない。」大熊は呆れていた。
「これは、うちで手当をすべき案件だな。社長もそう言われるだろう。」
「はい。松本部長もこの女社長は驚異的な責任感だと言っておりました。」
「確かに、これは酷い。」
「では、そのように処理致します。」古井は言うと、報告書を置いて辞して行った。
古井が居なくなると、大熊はこの担当者がこれほどのことをする動機について、思案していた。これには、大きな不正の可能性があると大熊は直感していた。それをどうやってうまく処理するか、それも考えなくてはならない。
石田はその頃、ニコマートの新宿にあるフランチャイジーの店舗で花山実と一緒だった。実は父親の預金通帳などを手中にしているので、機嫌が良かった。異母妹の信子にも権利があるのだが、彼女は海外にいるので、帰国前に都合よく処理してしまいたいと弁護士に相談していた。石田は、不機嫌だった。一つには、このままでは上層部が此花並子に店舗運営権を戻すことになりそうだということ。もう一つはリストラの発表だった。
「楽しそうですね。」石田はそう言って実に話を切り出した。実は幾分体重が増え、見るからに生活が良くなったように見えた。
「お陰様で。今日はどうされたんですか?いくら何でも、もうお手当を頂くわけにはいかないですよね?」
「実は、相談なんですが。このままでは此花社長が全てを暴く可能性がでてきました。」
流石に、実は顔色を変えた。
「どうしてですか?」
「実は、本社は新土手1丁目店と新土手2丁目店を直営化して、此花社長に戻す気らしいのです。そうなると、我々のしてきたことが全て明るみになる可能性があります。あの社長のことだから、また調査をすると思うんですよ。」
「でも、僕は石田さんの指示通りにしただけです。石田さんが言われることがニコマートの指示だと思っていたんですから。」実は必死に自己弁護した。
「でも、事実だけを見たら、そんなこと誰が信じますか?俺は、そんなこと指示したなんて認めませんよ。ニコマートだって、そんなこと白を切ります。当たり前でしょ?」石田の目はキラリと光る。この話は実には説得力のある話だった。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」実は弱々しく言った。
「俺の言う通りにしてください。そうすれば、上層部は店舗を此花社長に戻しません。そして、此花社長も全ての抵抗を諦めるでしょう。」
石田の言葉は実の納得のいくものだった。
「わかりました。どうすればよいか言って下さい。」
しめた、石田は満面の笑みを浮かべた。
「此花社長を心理的に追い込むのです。まず、実さんが私に新土手1丁目店の家探しをしたいと言ったことにしてください。当然、此花社長は拒否します。しかし、私はそれを無視します。そして、店舗の事務所の書類を漁るのです。うちの人間にも協力させます。そして、これを此花社長にも分かるように細工します。こんなことをされたら、普通の人間の神経は強いダメージを受けます。」
実は聞きながら、怒りで半狂乱になるだろう此花並子を連想して意地悪く笑った。
「なるほど。」
「理由は、花山オーナーの私物の捜索ということにしましょう。でも、全ての棚、書類を漁るのです。防犯ビデオにも残します。」
「わかりました。いいですよ。いつのタイミングでやるか指示をください。」実は言った。
「携帯に連絡します。絶妙のタイミングを考えています。」石田も半狂乱で怒る此花並子を想像して、笑った。彼女が怒ってこの直営化の話を潰せば、上層部は店舗運営権を戻すことを止めるだろう。石田の思い通りに事が運ぶのだ。
板橋営業所では石田の居ないのを見計らって、竹山所長が、数名の営業所の人間を集めて指示を出していた。
「いいか。新土手1丁目店と新土手2丁目店は直営化される。そこで、年末年始の人員の確保は板橋営業所の責任になった。それでだ、この人員の確保の責任を石田に取らせるんだ。もし、確保できなければ、あいつに入るように仕向けろ。あくまでも自主的にそうするように仕向けるんだ。」
竹山の言葉に全員肯いた。竹山の意図が石田への処罰を目的としていることは明白だった。
影井はしかし、営業所の社員たちが、竹山の意図とは別の意思も持っていることを察知していた。板橋営業所の社員たちは、新土手1丁目店、新土手2丁目店の店舗運営権を此花並子に戻すことには反対なのだった。それは、上層部がそう決定したことが気に食わないのだ。彼らはリストラを発表した上層部に対して強い怒りを感じていた。彼らからしたら、日ごろ営業成績を上げろと尻を叩き、経費を節減しろと管理してきた上層部が、現場の大変さも理解せず、経営不振のしわ寄せを自分たちに押し付けるなんて許せないことだった。彼らは、此花並子が二度とコンビニ経営などしたくならないように、徹底的に傷めつけようと思っていた。しかし、それを竹山に言ったところで、どうにもなることはない。リストラされる側にいる人間にはされない人間の言葉などなんの重みもないことだからだ。しかし、石田がリストラされることに対しては、彼らはなんの反対もないのだった。石田が犠牲になれば、自分は免れるかもしれないからだ。
翌日、朝一で、石田は並子に店舗の在庫を買い取らないと言い渡した。並子はゾッとして、末井にその旨を相談した。末井はそれであれば、ゼロ発注にしようと提案した。並子はそれを石田ではなく、竹山から聞いた彼の携帯にテキストメールで通知した。竹山は直ぐに、石田の言葉を撤回し、テキストメールで在庫については買い取ると連絡してきた。並子はもう、彼らの口約束は一切信用していなかった。なので、テキストメールを確認すると、末井に連絡をして、通常の発注を再開した。
その後、並子は竹山と石田に板橋税務署に呼ばれた。酒の販売許可の廃止の届出だった。合意解約をする以上、それは協力せざるを得なかった。届出は二人に書類を書かされたが、二人はなぜか隠れて並子一人に窓口に提出させた。店舗から徒歩と電車で板橋税務署に行かなくてはならなかった。彼女は睡眠時間も休息時間もない毎日で、お金の出し入れに関しては、全て彼女が立ち会わなくてはならないのだった。しかも、つり銭の不足で銀行に両替に行くのも、不足している切手やはがきの補充をするのも彼女の仕事だった。ニコマートの竹山も石田も車で移動している、しかも彼らはキチンと睡眠も休息も取っていた。彼らは、店舗運営が終わってからではなく、その過酷な状況の中、それを強要したのだった。男女の体力差を考えても、過酷なことだった。竹山は酒類の販売許可の廃止届出を出させた後に、並子に言った。
「たばこの販売許可の廃止についてはゆっくりでいいですから。」と。
「防犯カメラはうちのですが、取り外すのもお金がかかりますから、よかったらこのまま使って下さい。」並子は言った。竹山は検討しますと返事をした。
並子はその頃、心臓が苦しくなっていた。身体の筋肉痛はどうやっても思い通りに身体を動かせないレベルになっていた。とにかく、何とか大過なく店舗運営を最後までやり遂げようとだけ考えていた。もし、なんらかの問題が起これば、どんな言いがかりをつけられ、お金をふっかけられるか分からないと思っていた。彼女にとって、ニコマートはヤクザと同じだった、まともな話が通用する人間とは一切考えれなかった。彼女の恐怖心はマックスに達していたのだった。それでも、彼女は必死で笑顔を作ろうとした、一人一人のお客さんに丁寧であろうとした。これは、内輪の問題で、他人のお客さんに迷惑をかけるわけにはいかないと考えていたからだ。
そして、今度はバイトの森ちゃんからLINEが入った。石田が、花山実に店舗の家探しを許可したらしいというのだ。並子は直ぐに石田の電話した。彼は出ずに留守電になった。並子は名前を名乗り、花山実の店舗への立ち入りを拒否すると連絡した。石田からは、その日なんの返事もなかった。かわりにバイトの森ちゃんから、花山実の店舗の立ち入れは延期になったらしいと連絡があった。
翌日、石田から電話が入った。彼は並子に早朝、煙草の販売許可の廃業届のために押上まで来いというのだった。並子は店の仕事があって、抜けれなかった。しかし、彼は、トレーナーたちに協力をさせた。トレーナーたちはヘトヘトの並子に対して、石田の言う通りにしろと強要したのだった。並子に拒否するだけの気力も体力もなかった。頭も朦朧としているのだ。彼らはその状況の人間にそれを強要したのだ。しかし、早朝行くと、石田の手配ミスで手続ができなかった。石田は謝罪などしなかった。横柄に威張って、並子に命令をしたのだった。そして、翌日も、並子に早朝、押上に来るようにトレーナーたちと強要したのだ。彼女は石田が自分が約束した店舗運営権を戻すなんてのは全くする気もないことだったのを確信した。遅すぎるかもしれないが、彼女は「ニコマートが一流企業である、変なことはしない」という言葉をどこか信じていたのだった、まさか、一流企業がそこまで非道なことをするとは思っていなかったのだ。煙草の販売許可の廃業届が済むと、石田は勝ち誇ったように笑った。彼は当然車で来ていた。彼は車で立ち去る間際に並子に言った。
「花山実さんが店舗に来て探し物をされるそうです。」石田は嬉しそうに言った。並子は押上まで電車と徒歩で来た、しかも連日心身ともに疲弊していた。もうどうやっても身体が動かなかった。それでも、とにかく、戻ろうと考えた。帰りの電車の中でバイトの森ちゃんから、LINEが入った。
「花山実さんが来られて、石田と一緒に書類を漁っています。」
「彼にそんな権利はありません。警察を呼んでください。」並子は返した。しかし、バイトの森ちゃんはそこまではしてくれなかった。並子はもう怒る気力もなかった。彼女は、店には行かず、社宅の戻ると、ベッドに身体を横たえて、休んだ。心臓がバクバクしていた。それは驚いたからではない、疲労からだった。休まなくてはもう動けないと思ったのだった。
少し休んで、店に戻ると、並子は冷静にその日の防犯カメラ映像をチェックした。花山実と七尾が店の引出を開け、棚をひっくり返し、ロッカーの書類を引っ搔き回していた。並子はトレーナーたちが花山実の味方であるということを自覚した。その様子では、実が何を見、何を持ち去ったか、一切分からなかった。これは、本当にひどい裏切り行為だった。並子はこの映像をUSBにコビーしようと考えた。それを、トレーナーの七尾は見つけるとすぐ、石田にメールをした。石田と末井が血相を変えて事務所にやってきた。その様子を見て、並子は末井と石田がグルなのを理解した。石田は、並子にはその映像をコピーする権利がないと言い出した。それはニコマートの所有するものだというのだった。並子はそれ以上何もしなかった。この孤独な状況で自分が何をできるか?とにかく、大過なく店舗運営を完了するほかはなかった。店舗運営が全く分からず、正しい店舗運営かどうか判断することさえできない状況で継続してくのは大変に危険だと思った。しかも、ニコマートが店舗運営に協力しないとなると、大きな事故が起こった場合に自分だけでは責任を取れないかもしれなかった。石田らの目的は自分から店舗運営権を奪う事だというのも理解した。並子は、自分がなぜこんなに店舗運営権に拘るのか正直不思議だった。彼女はもともと経理事務員だった。ただ、見て見ぬ振りができなくて、ここまで関わってしまったのだ。彼女が投げ出しても誰も何も言いはしない。なのに、何が彼女をここまで突き動かしているのだろうか?彼女が、お客さんに対して酷い態度をしても、不親切であっても、誰も覚えている人間はいないだろう。バイトたちだってそうだ。彼女らは自分たちにどう接しても直ぐに忘れていくだろう。これは自己満足に過ぎないのだ。でも、孤立無援の彼女のささやかな抵抗は、最後までキチンと仕事をすること。彼女たちがだれの味方だろうとバイトたちにも誠実に接すること。お客さんにも長年のご愛顧に感謝して接することだった。物事に対する抵抗にもいろいろあるが、並子の抵抗は最後まで誠実であることだった。理不尽に対する抵抗としては全く無意味な抵抗だった。
店舗運営権を返上することが決まって、バイトの子たちの態度も変化してきた。彼女たちは決して、媚びないけど、だんだん冗談を言い合うようになってきたら、以前のように事務的にばかりは接してこないようになった。石田の影響力は消えなかったけど、並子が隆や巧の言うような人間ではないかもしれないと思うようになってきたのだ。なにしろ、店舗運営権を返上することが決まっても、並子の態度は変わらないのだ。本当に花山金太郎を騙して店舗乗っ取りをするような人間とは考えにくいと思いだした。並子はお客を差別しなかった。巧や隆、王らがお金がないお客さんとあるお客さんとでは態度が変わるのとは好対照だった。彼女はお金がないお客さんでも丁寧に親切に接した。それが意地悪したくなる者もいたが、それでも彼女は変わらなかった。それは、亡くなった花山金太郎もだった。長い赤字店舗の経営で苦労して黒字店舗の経営に行きついたので、お客さんの有難みが身に染みていたのだった。
並子が防犯カメラの映像を確認していたことは、石田の危険信号を鳴らすものだった。石田は、花山実に此花並子のことをこの行動を知らせた。
「それは、困ります。何とか映像を処理できませんか?」実の声は焦っていた。
「・・・・ないこともありませんが、ちょっと細工が必要ですよ。」石田の考えは、防犯カメラを取り外させて、リースの防犯カメラに取り換えることだった。こうしておいて、防犯カメラを壊せば、二度とこの映像のことで心配することはない。それに、万が一並子がこの件で本社と喧嘩してくれたら、店舗運営権をホットハートコーポレーションに戻すという上層部の考えも変わるかもしれない。若しくはそれがだめでも、年内に直営化するという話が頓挫してくれたら、石田が年末年始の人員の確保の責任を取らされることもなくなる。
「頼みますよ。僕は石田さんの指示でやったんですから。こんなことで警察沙汰なんて困ります。」実は不安だった。
「いいですよ。その代わり一蓮托生ですからね。俺を裏切らないでくださいよ。」石田はダメ押しをした。
「分かってますよ。」
石田の本音が分かってから並子の石田に対する気持ちは180度変化していた。今まで、石田が店舗運営権を戻すから言うなりになれと言うので、全てを我慢していた。それは、母と故花山金太郎たちが必死に守ってきた店舗を自分の責任で失わせたくないという責任感から来ていた。しかし、それが、もう駄目だと決まったのである。もう、従う理由が全くないのだった。石田は頓着しない。彼には並子を騙したことに対して全く、良心の咎めがなかった。彼からしたら、騙された並子がバカなのだ。
並子がいつものように、発注、レジ精算を終えて、ランチを食べていると、バイトのさっちんが困ったような表情でやってきた。
「どうしたの?」並子は食べる時間があまりないので、食べるのを止めずに聞いた。
「愛ちゃんが、来ません。」さっちんは答えた。調べると、石田の作ったローテーションには愛ちゃんとさっちんの名前があった。愛ちゃんは責任感が人一倍強い子だった。その子がローテーションに入っているのに、来ないということは絶対にありえなかった。調べると、石田がバイト募集のポスターの為に可愛い子たちを新土手2丁目店に集めて撮影をしていたのだった。並子は新土手2丁目店に電話をした。愛ちゃんがでると、並子は言った。
「こちらの仕事をしないのなら、バイト代は払わないわよ。石田さんに貰いなさい。」
それを横で聞いた石田が割って入った。
「そんな、協力してくれてもいいじゃないですか。」
「ローテーションに入っているということはこちらはそれをアテにしているんです。それを裏切るというのなら、うちはバイト代は払いません。」並子はキッパリと言って、電話を切った。傍で来ていたトレーナーがおかしそうに笑っていた。
驚いたことに、石田が青い顔をして新土手1丁目店に駆け込んできた。
「すみません。こちらで払います。」石田は謝った。
並子はびっくりして石田を見た。そう言えば、美子が石田に関して話していたことを思いだした。花山金太郎が元気な時は金太郎にペコペコしていたと言っていた。この男は弱いもの虐めしかできない男だったのだ。並子は笑いを隠して黙って肯いた。こんな奴を怖がっていたなんて、私はなんて馬鹿だったのかしら?並子は悔しさが溢れてきた。
さっちんは愛ちゃん無しで仕事をしなくてはならなかった。並子はさっちんをフォローしなくてはならなくて、やろうと思っていた仕事が片付かなかった。彼女は身体の節々が筋肉痛で思うように動かないので、普段より作業に時間がどうしてもかかってしまうのだった。シフトが終わると、さっちんは事務所の並子の机のところまでやってきた。
「お疲れ様。」並子はさっちんに声をかけた。さっちんは一番若いバイトだった。
「お疲れ様です。」そう言うと、帰らずに並子の机の側に椅子を置き、お菓子を食べ始めた。
「実は、石田さんですが、バイトが集まらずに困っているようです。」さっちんは愛ちゃんがポスターを作るのに駆り出された経緯を説明してくれたのだ。並子は聞きながら、愛ちゃんのフォローをしたいのだと察した。愛ちゃんはバイトたちに人気があるのだ。
「そうなんだ。」並子は答えた。それから、さっちんの悩みや夢の話を黙って聞いた。
並子は石田にもニコマートにも良い感情は持てなかった。しかし、自分が仕返しに同じことをすると、彼らに自分を誹謗する種を与えることになると思った。考えて見れば、並子の彼らの理不尽に対する細やかな抵抗とはそういうものだった。全く、理不尽に対しては無効な手段だったが、彼女はバイト達にニコマートに残るようにと説得した。外国人登録済のバイト達には不安を抱かないように、彼女だけではなく、石田にも話をするようにと促した。年末年始の人員補給についても、派遣元に条件を確認の上、石田に繋いだ。
石田は並子のこの行動を理解できなかった。自分がどれだけ酷いことをしたのか彼は分かっていたから、当初何かの罠だと思った。彼は、並子の気持ちを確かめることにした。
「俺は不正などしていません。」石田は、並子が一人で事務所にいるのを見計らって、泣き顔でやってきた。並子は訳が分からなかった。それは、正確にいうと、彼女の頭は疲労と睡眠不足で朦朧としていた。身体は筋肉痛で思うように動かず、とにかく最後の力を振り絞って、毎日の仕事をやっと熟している状態だった。だから、理解できなかったのだ。彼女のキョトンとした表情を見て、石田はニヤリと冷たい笑いを浮かべた。此花並子は俺を全く疑っていない。まだ、分かっていないのだ。それから、彼は罠を疑うことを止めたのだ。
並子は最後の力を振り絞って、働いていた。しかし、うっかりして冷凍のフライドポテトを山ほど発注してしまった。朦朧としていたので、発注する量を間違ってしまったのだ。並子が困っていると、バイトの洋子ちゃんが声をかけてくれた。洋子ちゃんは看護学校に通う愛ちゃんの幼馴染だった。
「それなら、クリスマスだし、多めのパックにして売ったらどうでしょう?愛ちゃんに相談したらいいですよ。愛ちゃんはフライドポテトが大好きだから、きっといい方法を考えてくれますよ。」
「ありがとう。」並子は早速、愛ちゃんに相談した。愛ちゃんは、並子が困っているのを知ると、なんとも妙な表情をした。
「しょうがないなあ!100均で測りと可愛くラップするものを買ってきてください。」そう言うと張り切って、色々売り方を考えてくれた。
ニコマートのフライドポテトは実際に美味しいのだ。お客さんが結構買ってくれた。その内、クリスマス前後のシフトの穴も最後だからということで、埋まっていった。
並子は、お店が最後まで大過なく、運営できたのなら、バイトの子たちにご馳走をしようと。彼女はサイトでホテルのランチビュフェを見つけた。ディナーはとても手が出なかったが、ランチなら、なんとかなった。女の子だし、最後に奮発しようと決めた。並子はその招待をグループLINEに掲載した。
しかし、それが、ニコマートのトレーナーや石田らが知ると、強い反発を買ってしまった。彼らは自分たちが酷い仕打ちをしてきたのを分かっていた。並子がバイトの子たちを集めてご馳走するということは、自分たちに対して含むところがあるのだと疑ったのだ。そして、彼らは「ホテルのランチビュッフェ?なにチャラチャラしたことをやるんだ。」と、更に冷たく厳しい態度で並子に当たった。彼らは、コンビニとは男の世界と考えていた。男性の体育会系の上下関係、睡眠時間を削り、体力を消耗させて働くこれこそが努力と考えていた。彼らの頭には「ホテルのランチビュッフェ」とは女の考えそうな無駄金遣いだった。値段の問題ではない、なぜなら、並子の支払った金額は居酒屋や焼き鳥屋で打上するのと大差ない金額だったからだ。そもそも、自分たちに非道な対応がなければ、他人の懐で他人がやることにとやかく言う必要もないのだ。
だいたい、彼らの接客とは、店舗内であり、労働時間とは一般的な労働者のそれだった。並子の接客とは家を出る時に始まり、労働は24時間365日だった。体力的にも、精神的にもどちらが真の努力をしているといえたのだろうか?
そして、とうとうホットハートコーポレーションが新土手1丁目店、新土手2丁目店を運営する最後の日の前日12月25日になった。
この日、王店長の妻、呂から並子に電話が入った。呂は相変わらず、横柄だった。呂は店が直営になるという話を聞きつけて、並子たちが店にいるうちにと連絡をしてきたのだ。彼女は、自分たちの源泉徴収票が欲しいというのだった。並子は職場放棄を暴言をまき散らし、酷い噂をばら撒き、そんなことをして経営を妨害した呂や王がそんなことを言えるという神経に嫌悪感を覚えた。自分ならここまで迷惑をかけた相手にそんな事は言えないと思った。彼らはそれができるのだった。並子は、どうしようかと考えた。知らん顔をしてもいい話だった。石田がそれを聞きつけて、並子に「源泉徴収票をだしてやるのは、当然の義務だ」と言ってきた。並子は腸が煮えくり返っていたが、耐えた。呂は、義理の姉を使いに取りに行かせた。並子はストコンの作る源泉徴収票を出して渡した。
その後、警備会社の人間が数人でやってきた。彼らは事務所や店舗の防犯カメラを外し、別のものと変えていた。並子は先日の花山実の無断侵入事件を思いだした。
「どういうことですか?」並子は警備会社の男性に尋ねた。
「ニコマートの石田さんの依頼で防犯カメラを取り換えています。」警備会社の男性は答えた。そこへ、又石田が割って入ってきた。
「ホットハートコーポレーションの防犯カメラは引き継がないという指示です。」
「じゃあ、返して下さい。これはうちのものです。」並子は言った。
「ダメです。この中にあるのは個人情報です。この映像を削除してからでなければ返還はできません。」そして、警備会社の方を向いて言った。
「この中の映像を削除してください。」
しかし、警備会社の男性は石田の話に同意しなかった。
「うちが契約してるのはホットハートコーポレーションさんです。その契約者の同意もなくそんなことはできません。」
「じゃあ、返してください。」並子は言った。石田はしかし、それに同意しなかった。
「この中の映像が削除されるまで、うちは返還できません。」
そう言うと、新土手2丁目店の事務所に防犯カメラを持っていこうとした。
「私の千葉の実家に送って下さい。」並子は最後の力を振り絞って、石田と警備会社の男性に言った。しかし、所有者の彼女の言葉に従う人間は誰も居なかった。彼らが出て行った後、並子はもう身体を動かす気力もなかった。しかし、その時、彼女はふと閃いた。
「確かさっちんが、石田さんが年末年始の人員の確保に困っている、と話していたけど、もしかしたら、私が怒って、この話を白紙にすると言ったらどうなるのかしら?」
そうしたら、きっと、並子が年末年始の人員の確保をしなくてはならないだろう。そして、確保できなければ、並子が年末年始、不眠不休で働くことになる。どう考えても、自分はもう限界だと思った。であれば、これは、我慢することもいいかもしれない。防犯カメラのことは、落ち着いてから考えよう。率直に言って彼女はもう心身ともに限界を超えていた。怒る気力も無くなっていたということもある。
石田は、並子が疲れはてて帰って後、新土手1丁目店の事務所に戻ってきた。彼は、ストコンの前の椅子に座ると、花山実に電話した。
「どうなりましたか?」実は開口一番に防犯カメラのことを聞いた。
「直ぐに動くのは不味いので、時期を待ちましょう。」石田は答えた。
「早く何とかしてくださいよ、石田さん。僕はあなたの指示に従っただけですよ。」
「分かってますよ。俺に任せて下さい。」石田の声は内側とは裏腹に余裕だった。
「頼みます。」実は必死だ。
「はい。」そう言うと、石田は電話を切った。そして、頭を抱えた。彼の目論見は外れてしまったのだ。並子は怒らなかったのだ。このままでは、上層部の指示通りになる。この話は潰れない。石田が年末年始の人員の確保をしなくてはならなくなる。石田は自分が作った罠に自分がはまったのだった。
その日、板橋営業所の竹山所長は、部下の影井から石田がホットハートコーポレーションのたばこの販売権の廃業届を出させたことを報告を受けていた。
「なに?石田の奴何を企んでいるんだ?」
竹山所長は困惑した。竹山は上層部が店舗運営権を戻す意向なのを知っていた。それ以外に事を丸く収めることは難しいとの判断なのだと理解していた。もし、ホットハートコーポレーションがこの事で騒いだら、不味いことが全て公になる可能性があった。しかし、もし、フランチャイジーであれば、自分たちの管理下に置かれるのでそのようなことにはなりにくい。更には、清算金を実質払わないでも済むという利点もある。また、昨今はコンビニは4Kの職業の一つと言われていて、オーナーのなり手も減っている。その意味でも好都合なのだった。
「どうも、なんらかの裏があるのではないかと疑われます。」影井は囁いた。
確かに石田が保身の為に何かをするはずなのは予測できた。あいつの思い通りになるのは困る、竹山は思った。
「とりあえず今は上の意向を探ろう。俺たちに火の粉がかからないようにな。それと、新土手1丁目店と新土手2丁目店の新たなフランチャイジ―を選定しておけ。石田がせっかくお膳立てをしてくれたんだ。それを利用しない手はない。上から何か言われたら、石田がそう画策したと説明したらいい。」
影井は上司の顔色を読んで、黙った。リストラから逃れたいのは影井も同じ思いだった。
翌日、12月26日は、並子たちが店舗運営をする最後の日だった。この日の、12時に終了することになっていた。並子は朝から勿論、働いていた。12時になると、在庫確認の業者がやって来て、買取在庫と買い取らない在庫の選り分けと、査定が行われた。王や巧、隆の面々は不要な商品を大量に発注していることが判明していった。例えば、何十本もある傘の在庫が裏の倉庫から発見されたり、大量のマスクもウオークイン冷蔵庫の上から発見された。それは、商品だけではなかった。隆はユニフォームを一度着ると、別のユニフォームを注文していた、そういう不要用度品も大量に発見された。新土手1丁目店だけではない、新土手2丁目店も同様の状況だった。
しかし、これらのものの多くは商品登録がされているものだった。なので、彼らのいい加減な発注が分かっただけで、今回は買い取ってもらえるので損害ではなかった。
ニコマートが引き取らない在庫とは、ニコマートが発注登録をしていない商品ということだった。これはどういうことかというと、ニコマートは発注期間を限定してそれに対応した期間、商品を登録している。それは消費期限と言う問題とは別で、商品を定期的に入れ替える為の施策だった。それは店舗の為ではなく、二コマ―トの利益の為だった。ニコマートは納入業者からマージンを受け取っている。店舗の発注を増やすことはニコマートの利益になる。発注期限を作り、商品登録期間を作れば、入れ替えのタイミングを誤れば、店は商品登録が切れた商品を在庫として抱えることになる。ニコマートは新商品を仕入れることを強要する。そうなると、店は身銭を切って、安く売り切り、新商品を仕入れなくてはならない。こうやって、店側に負担を強いて、マージンを稼ぐという手法をとりいれているのだ。
新土手1丁目店も新土手2丁目店もそういう在庫が大量にあった。特に商品登録が切れているもので高額なものは酒だった。
査定が終わると、業者の人間がやって来て、並子に確認を求めた。気力を振り絞って、並子は言われるままに確認した。
ニコマートの板橋営業所の若い社員が並子に買い取らない在庫のことを聞いてきた。
「全て持ち帰ります。」並子は美子に言明されていた。
「わかりました。」若い社員は肯いた。
末井が新土手2丁目店から売上を持ってやってきた。並子はそれを受取、新土手1丁目店の売上と合わせた。
「これを、どこかの銀行からうちの口座に振り込みに行って下さい。うちのどこの口座にしますか?」板橋営業所から来た影井が言った。
「じゃあ、駅前の銀行にします。」並子はそう言うと、大手銀行の名を言った。影井は、ニコマートのその銀行の口座を書いた紙を並子に渡した。並子はそれを受け取ると一人で銀行に向かった。だれかニコマートの社員がついて行くと言われたが、彼女の心にはもう不信の気持ちしかなかった。
並子が店を出ていくと、ニコマートで一番体格が良い郷田が他の社員たちに向かって言った。
「お嬢様は、ホテルでランチビュッフェで打上だとさ。」
「ええ、俺たちがこんなに苦労しているのに、全くチャラチャラして何様のつもりなんだ。」それに呼応して和田も不満そうに言った。
「上層部は俺たち現場の苦労も考えずに、リストラだと?」永山も同調した。
「おい、ちょっと一泡吹かせてやらないか?」郷田が言った。
和田と郷田、そして近くにいた数名の社員が近寄って、ひそひそと相談しだした。
「この話をぶち壊すんだよ。上層部は店舗運営権を戻してやる気らしいがね。俺たちが妨害したら、この話は潰れる。この女社長は大人しいし、これだけ心身共に傷めつけてやったら俺たちに盾を突く気力なんてあるわけない。」
「そうですね。上なんて現場の苦労も分からず、都合が悪くなれば切り捨てるんだ。俺たちがその気になれば、何もできないことを思い知らせてやりましょう。」
「手始めにこの持ち帰るって言った商品を誤魔化してやろう。それでも、何もできないぞ。」
「いい気味ですよ。あんな小娘がでしゃばる業界じゃないことを、思い知らせてやりましょう。」
そう言うと、買い取らないと言った在庫から高そうなものを別の店舗に送る商品の中に隠して行った。
暫くして、並子は影井の指示通りに、売上を本部に振込み、店に戻ってきた。彼女は事務所の影井に振込み証を渡し、ニコマートが引き取らないと言っていた商品を一部は宅急便で送り、一部は社宅に持ち帰ろうと商品が積まれた店内にやってきた。すると、明らかに商品が無くなっていた。特に高価な酒類が全く無いのだった。並子はびっくりしてニコマートの社員たちを見まわした。彼らはニヤニヤ笑って並子を見た。
この時、並子の精神はそれでも必死に平静を保とうとしていた。
「みんな、ダメだよ。」事務所から全てを見ていた影井が割って入ってきた。社員たちは、仕方ないというように、あちこちから商品を並子の前に並べた。並子は黙ってそれを見ていた。彼女は手伝いにきたバイトのさっちんと商品の荷造りを始めた。宅急便のものはニコマートの女性社員にお金を払って配送を頼んだ。女性社員は商品隠しに関与していないように見えたからだ。酒類などは台車を借りて、さっちんと社宅に運ぶことにした。
重くて一人ではとても運べないと思ったのだ。
並子が新土手1丁目店から去ると、郷田がニヤニヤしながら、自分が荷造りして荷物を見ていた。他の社員たちもだった。
「甘いねえ。ちゃんと全ての数量を確認しないなんて。」永山が言った。一番若い佐藤は買い取らない在庫の中のアイスクリームを冷凍ケースに戻した。彼らは、全ての商品を並子に戻したのではなかった。彼らの商売とは他人を騙すことだった。彼らは自分たちがしでかした不始末を弱く大人しい此花並子に押し付けて、更にいくらかでもより儲けようと考えていた。それがニコマートの営業方針だからだ。
「これだけやっても怒らないなんて、あれが社長じゃどのみちこの店は潰れたさ。」そう言って、石田に頷いた。彼らは石田が実質上新土手1丁目店、新土手2丁目店の運営をめちゃくちゃにしたことを知っていた。そして、石田がそれによって営業成績を上げ、自分の利益を得てきたのも分かっていた。彼らの論理では、弱い者は強い者に食われるのが当然だと考えていたのだ。石田は嬉しそうにわが意を得たりと笑った。
それから1時間はしただろうか、並子が台車を返しに新土手1丁目店にやってくると、店の前に何人かのお客さんが待っていた。並子は挨拶をした。
「長い間お世話になりました。どうしたんですか?」
「営業再開の時間になっても、店が開かないんだよ。寒いから、時間がかかるなら店の中で待たせてくれないか?」高齢のお客さんは並子に頼んだ。
「すみません。ご迷惑をおかけします。」並子はそう言うと、店の事務所の中に入っていった。
「台車ありがとうございました。」並子はそう言うと、石田はストコンの前に座っていた。
「わかりました。」
「お客さんが『まだ店は開かないのか?』って言ってますよ。もし、まだ時間がかかるなら、店の中で待たせて欲しいって。」
「まだ時間はかかりますが、店内で待つのはいいです。」石田は答えた。
並子はドアを開けると、お客さんたちを中に入れた。
ふと見ると、買い取らないと言われたハーゲンダッツのアイスクリームが冷凍ケースの中にあった。なぜ、並子がそれを気付いたかというと、若いニコマートの社員が並子に持ち帰るのか確認した商品だったからだ。並子は、ニコマートの社員たちが全ての商品を返してくれたわけではないと思った。
しかし、並子はもうヘトヘトだったのだ。彼女は石田が「自分たちは大所帯だから、変なことはしない」と言った言葉を思った。しかし、これは泥棒じゃないのか?と心の中で思った。
翌日、並子は午後遅く起きると、T警察署に電話をした。受付の男性が出た。並子はニコマートからされた一連の仕打ちを訴えた。受付の男性はどこかの課に繋いだ。
「警察は、こんなひどいことをさせて放置するんですか?」並子は怒りを爆発させた。
「あんたは、ニコマートに文句をいわなきゃいかんぞ。そうじゃなきゃ、あんたの会社、せっかくの会社がつぶれるぞ!」警察官も負けずに怒鳴り返した。並子はそれを聞いて、気持ちを決めた。「そうだ。ニコマートに文句を言おう!」
「分かりました。」そう言うと、電話を切って、また、眠り続けた。
有楽町の押田弁護士と木田弁護士は此花並子のメールを検討していた。その内容は、押田弁護士が大熊専務と了解していた内容とはかけ離れたものだった。押田はまさかニコマートがそこまで傍若無人の行動を取るとは予想していなかったのだ。
「責任者の同意も得ずに店舗内を捜索し、勝手に書類を閲覧するなんて許されないことだ。最終日の買取在庫の窃盗・・・・こんな扱いをされたら、普通の女性なら恐怖で壊れてしまうぞ。ここまでやるとは。」
「これでは、此花社長は二度とニコマートとコンビニ事業をしたいとは思いませんね。」木田も同感だった。
「これでは、大熊専務との合意も辞退するだろうな。どうしたものか。」二人の弁護士は板橋営業所の対応に問題が拗れるだろうと予想した。
12月29日の昼、並子は都内のホテルのロビーにいた。店のバイトたちとお疲れ様会をするためだった。彼女はそれまでの疲れからただ眠り続けた。それでも、29日にはまだ疲れが抜けきれない様子だった。誘ったバイトの中にはニコマートの思惑を慮って、断る子たちもいた。ニコマートは並子がバイトたちを先導して何か自分たちに仕返しをするのではないかと考えていたのだ。しかし、並子はそんな気持ちは全くなかった。T警察署との電話をしてから、並子は色々自分のやれる文句を言う方法を模索していた。しかし、その中にはバイトを扇動して、仕返しをするというものはなかった。彼女は、キチンと手順を踏んで文句を言おうと考えていたからだ。来たのは愛ちゃんや森ちゃんなどの女の子ばかりだった。みんなそれぞれにかわいい女の子ばかりだった。
「ありがとう。みんなのお陰で店舗運営を大きな問題も起こさずにニコマートにお渡しすることができました。」並子は心からの感謝を込めて挨拶をした。
ちょっと緊張しながらも、色々な他愛のない会話が夕方頃まで続いた。最初のころは、王らの話を信じて、並子を白い目で見ていた彼女たちとプライベートでこういう場を持てるなんて想像していなかった。
「花山オーナーの息子さんが、店に来て家探しして、並子さんは警察呼べっていうし、大変だった。」森ちゃんはポロっとみんなに漏らしてしまった。愛ちゃんもさっちんもビックリして並子を見た。
「それじゃあ。」愛ちゃんは言いかけて、口をつぐんだ。
並子は黙って笑っていた。
「私、バイト続けるんです。」さっちんは気兼ねするように言った。
「そうしてちょうだい。私は別に邪魔をするつもりはないわ。」並子は必死で誤解を解こうと両手を振った。
「私、そろそろバイトが入っているので、失礼します。」森ちゃんは言いだした。
「じゃあ、お開きにしましょう。みんな本当にありがとう。幸せにね。」並子はそう言うと、バイトの女の子たちを見送った。




