↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/7

序 章 火のないところに、炎を求めて

第一節 広島の町工場に灯る“夢の火種”


昭和三十年代の広島は、まだ戦後の埃が街角に残っていた。川面に映る工場の明かりはどこか頼りなく、復興の息吹と疲労が入り混じった独特の匂いが漂っていた。東洋工業の府中工場も例外ではない。鉄の焼ける匂いと、油にまみれた作業着の男たちの声が、毎朝のように薄暗い空気を震わせていた。

その一角、技術部の小さな会議室に、数人の若い技術者が集まっていた。机の上には、ドイツから届いたばかりの図面が広げられている。奇妙な三角形の回転体と、楕円のような外壁。誰も見たことのない“エンジンのようなもの”だった。

「なんじゃ、こりゃあ……」

若手の一人が、図面をひっくり返しながら呟いた。

「三角が回るんじゃと?そがぁなもん、すぐ摩耗して終わりじゃろうが」

別の者が笑う。だが、その笑い声の奥には、理解できないものへの警戒が滲んでいた。そのとき、会議室の扉が静かに開いた。

「摩耗するかどうかは、やってみんと分からん」

低く、よく通る声だった。

山本健一が姿を現した。白衣の袖をまくり、図面に目を落とすと、まるで古い友人に再会したかのように微笑んだ。

「このエンジン……世界を変えるかもしれんぞ」

技術者たちは顔を見合わせた。山本の目は、図面の向こうに未来を見ているようだった。

「山本さん、本気で言いよるんですか。こんなもん、回るだけで壊れますけぇ」

「壊れたら直せばええ。直らんかったら、また考えりゃええ」

山本は、図面を指で軽く叩いた。

「問題は、誰が“諦めんか”じゃ」

その言葉に、部屋の空気が変わった。技術者たちの胸の奥に、何か熱いものが灯るのを感じた。

山本は続けた。

「ドイツのNSUが開発しとる“バンケルエンジン”。世界中のメーカーが注目しとる。じゃが、どこも量産化には手を出しとらん。理由は簡単じゃ。難しすぎるけぇ」

「そりゃあ……そうでしょうね」

「じゃけぇ、やる価値があるんじゃ」

山本は、図面を丁寧に巻きながら言った。

「広島の町工場が、世界で初めて“夢のエンジン”を回したら……面白かろうが」

その瞬間、若手の一人が思わず笑った。

「山本さん、また無茶を言いんさる」

「無茶じゃない。夢じゃ」

山本は静かに言い切った。

「夢は、無茶の顔をしとるもんじゃけぇ」

会議室に沈黙が落ちた。だがその沈黙は、諦めのそれではなく、挑戦の前に訪れる静かな高揚だった。

外では、工場のサイレンが昼を告げていた。広島の空はまだ灰色だったが、技術者たちの胸の内には、確かに小さな火が灯っていた。

——この火が、やがて“ロータリー47士”の炎となり、世界を揺るがすことになるとは、誰もまだ知らなかった。


第二節 NSUとの出会いと、運命の渡独


昭和三十六年の初夏、広島の空はどこかざわついていた。東洋工業の本社に、ドイツ・NSU社からの正式な技術提携の知らせが届いたのだ。会議室では、重役たちが難しい顔で書類をめくっていたが、ただ一人、山本健一だけは少年のように目を輝かせていた。

「山本君、ドイツは遠いぞ。言葉も文化も違う。向こうの技術者は手厳しい。覚悟はあるかね」

重役の問いに、山本は迷いなく答えた。

「覚悟なら、とっくにできとります。あとは、やるだけですけぇ」

その声には、広島弁特有の柔らかさと、技術者としての鋼の意志が同居していた。

こうして山本は、数名の若手技術者を連れてドイツへ渡ることになった。飛行機の窓から見える雲海を眺めながら、若手の一人が不安げに言った。

「山本さん……ほんまに、わしらで通用しますかね」

「通用せんかったら、通用するまでやりゃええ」

山本は笑った。

「技術は国境を越える。越えんのは、人の気持ちだけじゃ」

その言葉に、若手たちは胸を張った。

ドイツ・ネッカーズルムのNSU本社は、広島とはまるで別世界だった。白い壁、整然と並ぶ機械、無駄のない動きの技術者たち。山本たちは歓迎を受けたものの、どこか試されているような空気を感じた。

初日の技術会議。NSUの主任技師が、ロータリーエンジンの模型を前に言った。

「このエンジンは、理論上は素晴らしい。しかし、アペックスシールの摩耗が致命的だ。われわれも何年も挑戦しているが、量産化は不可能だ」

その言葉に、若手の一人が思わず息を呑んだ。だが山本は、静かに問い返した。

「不可能、とは……どこまでやって、そう言いんさったんですか」

主任技師は少し驚いたように眉を上げた。

「もちろん、われわれの持てる技術のすべてを尽くした。しかし、摩耗は止められない。だからこそ言うのだ。これは“夢のエンジン”ではなく、“夢で終わるエンジン”だと」

山本は、模型にそっと手を置いた。

「夢で終わるかどうかは、やった者が決めることですけぇ」

通訳がその言葉を伝えると、会議室に微妙な沈黙が落ちた。挑戦とも、無謀とも取れる言葉。しかし、山本の目は揺らいでいなかった。

滞在中、山本たちはNSUの技術を徹底的に学んだ。夜遅くまで図面を写し、試験機の音を聞き、ドイツの技術者と議論を重ねた。ある夜、若手が疲れ果てて言った。

「山本さん……向こうの技術はすごいですわ。わしら、勝てるんですかね」

「勝つ必要はない。学べばええ。学んで、広島で越えりゃええ」

山本は窓の外の夜空を見上げた。

「このエンジンは、まだ誰のものでもない。じゃけぇ、わしらが掴めばええんじゃ」

帰国後、山本はすぐに動いた。技術部の中から、腕の立つ者、癖の強い者、諦めの悪い者ばかりを選び抜いた。

「今日から、お前らは“ロータリー47士”じゃ」

突然の宣言に、技術者たちは目を丸くした。

「47人で、世界が諦めたエンジンを量産化する。無茶じゃと思うか?」

誰も答えなかった。だが、山本は笑った。

「無茶じゃけぇ、やる価値があるんじゃ」

こうして、広島の小さな町工場で、世界を変える戦いが静かに始まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。