序 章 火のないところに、炎を求めて
第一節 広島の町工場に灯る“夢の火種”
昭和三十年代の広島は、まだ戦後の埃が街角に残っていた。川面に映る工場の明かりはどこか頼りなく、復興の息吹と疲労が入り混じった独特の匂いが漂っていた。東洋工業の府中工場も例外ではない。鉄の焼ける匂いと、油にまみれた作業着の男たちの声が、毎朝のように薄暗い空気を震わせていた。
その一角、技術部の小さな会議室に、数人の若い技術者が集まっていた。机の上には、ドイツから届いたばかりの図面が広げられている。奇妙な三角形の回転体と、楕円のような外壁。誰も見たことのない“エンジンのようなもの”だった。
「なんじゃ、こりゃあ……」
若手の一人が、図面をひっくり返しながら呟いた。
「三角が回るんじゃと?そがぁなもん、すぐ摩耗して終わりじゃろうが」
別の者が笑う。だが、その笑い声の奥には、理解できないものへの警戒が滲んでいた。そのとき、会議室の扉が静かに開いた。
「摩耗するかどうかは、やってみんと分からん」
低く、よく通る声だった。
山本健一が姿を現した。白衣の袖をまくり、図面に目を落とすと、まるで古い友人に再会したかのように微笑んだ。
「このエンジン……世界を変えるかもしれんぞ」
技術者たちは顔を見合わせた。山本の目は、図面の向こうに未来を見ているようだった。
「山本さん、本気で言いよるんですか。こんなもん、回るだけで壊れますけぇ」
「壊れたら直せばええ。直らんかったら、また考えりゃええ」
山本は、図面を指で軽く叩いた。
「問題は、誰が“諦めんか”じゃ」
その言葉に、部屋の空気が変わった。技術者たちの胸の奥に、何か熱いものが灯るのを感じた。
山本は続けた。
「ドイツのNSUが開発しとる“バンケルエンジン”。世界中のメーカーが注目しとる。じゃが、どこも量産化には手を出しとらん。理由は簡単じゃ。難しすぎるけぇ」
「そりゃあ……そうでしょうね」
「じゃけぇ、やる価値があるんじゃ」
山本は、図面を丁寧に巻きながら言った。
「広島の町工場が、世界で初めて“夢のエンジン”を回したら……面白かろうが」
その瞬間、若手の一人が思わず笑った。
「山本さん、また無茶を言いんさる」
「無茶じゃない。夢じゃ」
山本は静かに言い切った。
「夢は、無茶の顔をしとるもんじゃけぇ」
会議室に沈黙が落ちた。だがその沈黙は、諦めのそれではなく、挑戦の前に訪れる静かな高揚だった。
外では、工場のサイレンが昼を告げていた。広島の空はまだ灰色だったが、技術者たちの胸の内には、確かに小さな火が灯っていた。
——この火が、やがて“ロータリー47士”の炎となり、世界を揺るがすことになるとは、誰もまだ知らなかった。
第二節 NSUとの出会いと、運命の渡独
昭和三十六年の初夏、広島の空はどこかざわついていた。東洋工業の本社に、ドイツ・NSU社からの正式な技術提携の知らせが届いたのだ。会議室では、重役たちが難しい顔で書類をめくっていたが、ただ一人、山本健一だけは少年のように目を輝かせていた。
「山本君、ドイツは遠いぞ。言葉も文化も違う。向こうの技術者は手厳しい。覚悟はあるかね」
重役の問いに、山本は迷いなく答えた。
「覚悟なら、とっくにできとります。あとは、やるだけですけぇ」
その声には、広島弁特有の柔らかさと、技術者としての鋼の意志が同居していた。
こうして山本は、数名の若手技術者を連れてドイツへ渡ることになった。飛行機の窓から見える雲海を眺めながら、若手の一人が不安げに言った。
「山本さん……ほんまに、わしらで通用しますかね」
「通用せんかったら、通用するまでやりゃええ」
山本は笑った。
「技術は国境を越える。越えんのは、人の気持ちだけじゃ」
その言葉に、若手たちは胸を張った。
ドイツ・ネッカーズルムのNSU本社は、広島とはまるで別世界だった。白い壁、整然と並ぶ機械、無駄のない動きの技術者たち。山本たちは歓迎を受けたものの、どこか試されているような空気を感じた。
初日の技術会議。NSUの主任技師が、ロータリーエンジンの模型を前に言った。
「このエンジンは、理論上は素晴らしい。しかし、アペックスシールの摩耗が致命的だ。われわれも何年も挑戦しているが、量産化は不可能だ」
その言葉に、若手の一人が思わず息を呑んだ。だが山本は、静かに問い返した。
「不可能、とは……どこまでやって、そう言いんさったんですか」
主任技師は少し驚いたように眉を上げた。
「もちろん、われわれの持てる技術のすべてを尽くした。しかし、摩耗は止められない。だからこそ言うのだ。これは“夢のエンジン”ではなく、“夢で終わるエンジン”だと」
山本は、模型にそっと手を置いた。
「夢で終わるかどうかは、やった者が決めることですけぇ」
通訳がその言葉を伝えると、会議室に微妙な沈黙が落ちた。挑戦とも、無謀とも取れる言葉。しかし、山本の目は揺らいでいなかった。
滞在中、山本たちはNSUの技術を徹底的に学んだ。夜遅くまで図面を写し、試験機の音を聞き、ドイツの技術者と議論を重ねた。ある夜、若手が疲れ果てて言った。
「山本さん……向こうの技術はすごいですわ。わしら、勝てるんですかね」
「勝つ必要はない。学べばええ。学んで、広島で越えりゃええ」
山本は窓の外の夜空を見上げた。
「このエンジンは、まだ誰のものでもない。じゃけぇ、わしらが掴めばええんじゃ」
帰国後、山本はすぐに動いた。技術部の中から、腕の立つ者、癖の強い者、諦めの悪い者ばかりを選び抜いた。
「今日から、お前らは“ロータリー47士”じゃ」
突然の宣言に、技術者たちは目を丸くした。
「47人で、世界が諦めたエンジンを量産化する。無茶じゃと思うか?」
誰も答えなかった。だが、山本は笑った。
「無茶じゃけぇ、やる価値があるんじゃ」
こうして、広島の小さな町工場で、世界を変える戦いが静かに始まった。




