終話 檻の中の王
慶長十一年、春。江戸城。
大広間には、論功行賞のため、諸将が居並んでいた。
「松平忠輝」
秀忠の声に、末席近くから一人の若者が進み出る。まだ少年の面影を残しながら、その背筋は、広間の誰よりも真っ直ぐに伸びていた。
「大坂城に最初に槍を入れ、淀殿と千姫を保護した功、まことに大なり。相応の加増をもって報いる」
「ありがたき幸せ」
忠輝は深く頭を下げ、顔を上げた。その口元には、功を誇る若者の笑みがあった。
「上様。次の戦も、この忠輝にお任せあれ」
広間が、わずかにざわめいた。
「……次の戦など、起こさぬための仕置きであったのだがな」
秀忠は静かに返した。忠輝は「は」と短く答えたが、笑みは消えなかった。
秀忠は、長安から聞いた話を思い出していた。大坂城で、忠輝は淀殿を追い詰める言葉を一つも添えなかった。家臣に問われ、「これで十分だ」と言ったという。
(あの判断は、算盤では測れぬ。……あれは、あれの才だ)
その才が、徳川の薬となるか、毒となるか。秀忠にも、まだ分からなかった。
列席する伊達政宗が、独眼を細めて、忠輝と秀忠を交互に見ていた。値踏みするようなその視線に、秀忠は気づいていた。気づいた上で、何も言わなかった。
算盤の玉を、懐の中で一つ、指先で弾いた。
◇
同じ頃。大坂城。
蔵から、黄金が運び出されていた。太閤の遺した金銀が、公儀の役人の手で次々と帳面に記され、荷駄に積まれていく。蔵入地二百二十万石の検地も、すでに始まっていた。
秀頼は、二の丸の窓から、その様子を静かに眺めていた。
「……出ていくな」
呟きに、答える者はない。幸村はなく、昌幸は死に、治長は追放された。傍らには、もう誰も控えていなかった。
その時、城門に、一挺の輿が着いた。
降り立ったのは、幼い少女であった。徳川秀忠の娘、千姫である。
「秀頼さま」
千姫は、幼いながらに、きちんと膝をついて挨拶をした。供の侍が差し出した書状は、秀忠からのものであった。
『娘を、貴殿に預ける。檻の中に娘を置く以上、貴殿もわしも、軽挙はできぬ。……その檻を、居心地の良い場所にするか、地獄にするかは、貴殿次第だ』
秀頼は、書状を読み終えると、ふっと笑った。
「人質、か。……それとも、絆か」
どちらでもあるのだろう。そしてそれは、生かさず殺さずという仕置きの、最も巧みな一手でもあった。
「よう戻られた、千姫」
秀頼が言うと、千姫は、不思議そうに首をかしげた。
「秀頼さまは、おこっておられませんか」
「いや。……怒るには、少し、面白すぎる」
千姫には、その意味が分からなかった。秀頼は、少女の頭に、そっと手を置いた。
◇
奥御殿の一角。幽閉された淀殿の部屋の前には、見張りの兵が立っていた。
秀頼は、その間を通され、障子を開けた。
「母上」
痩せた淀殿が、ゆっくりと顔を上げた。
「……秀頼」
「ご無事で何よりにございます」
「わらわは……城を、守れなんだ」
「いいえ」
秀頼は、母の前に膝をついた。
「母上が刃を抜いてまで、城と私を守ろうとされたと、聞き及んでおります。……そのおかげで、私は、まだ生きております」
淀殿は、しばし息子を見つめた。そして、不意に、かすかに笑った。
「秀頼。そなた、変わったな」
「変わりましたか」
「父上……太閤殿下に、よう似てきた。あの、人の悪い笑い方」
秀頼は、虚を突かれたように目を瞬かせ、やがて、声を出して笑った。母の前で笑うのは、久しぶりのことであった。
◇
夜。
秀頼は、一人、自室に戻った。机の上には、『史記』が置かれている。
かつて、この書の『項羽本紀』を開き、四面楚歌の絶望に涙した夜があった。秀頼は、その頁を閉じ、別の巻を開いた。『高祖本紀』。
項羽は、戦に勝ち続け、最後の一度だけ負けて死んだ。劉邦は、負け続け、最後の一度だけ勝った。
「……面白い男だ」
劉邦という男は、武もなく、才もなく、ただ人に愛され、人を使い、生き延びた。そして最後に、天下を取った。
窓の外から、遠くの風に乗って、音が聞こえた気がした。
パチリ、パチリ。
江戸の空の下で、誰かが算盤を弾いている。かつては、その音が、死の宣告のように聞こえた。今は、不思議と、心地よく響いた。
秀頼は、障子の向こうの夜空を見上げた。
「……徳川の檻、か」
口元に浮かんだのは、諦めの笑みではなかった。
「存外、居心地の良い檻になるやもしれぬな」
檻の中でも、人は訪ねてくる。北政所も、福島も、黒田も、借りを作った者も、恩を受けた者も、いずれ門を叩くだろう。太閤は、そうやって天下を取った。
秀頼は、『高祖本紀』の頁を、静かにめくった。
夜は、まだ長かった。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。
関ヶ原以降は悩みながら進めてきて、或いは思っていたものと違うという方もいらっしゃるでしょう。
ただまずは完走出来たことを喜びつつ、ここまで一緒にこれたことに感謝申し上げます。
拙い文章にも関わらず、ご覧頂きありがとうございました。
新作 開始致しました。
旭日を纏いし魔童 ~豊臣秀頼、関ヶ原に立つ~
今度は秀頼が主人公です。是非合わせてご覧頂けると幸いです。
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