幕間 泥の算盤
慶長八年(一六〇三年)秋 下総・関宿
夜明け前の空は、鉛のように重かった。
関宿の台地を切り裂いた長い掘割の縁に、関東郡代・伊奈忠次は立っていた。二年半。数千の人足と、幾万の鍬と、数えきれぬ夜を注ぎ込んだ堀が、朝霧の底に一筋の傷のように横たわっている。
今日は「試し水」の日であった。
本流の水を、細く、慎重に、この新しい堀へ引き入れる。来春の本通水を前に、水が思うとおり流れるかを確かめる大事な試験である。
「堰を、上げよ」
低く命じると、上流で杭が引き抜かれた。
濁った水が、堀へ流れ込む。人足たちが息を詰めて見守る中、水は掘割の底を舐めるように進み、台地の切り通しへ差しかかった。
――止まった。
「……忠次様」
普請組頭の吉兵衛が、かすれた声を出した。
水は切り通しの手前で膨らみ、澱み、そして逆巻き始めていた。
忠次は堀へ駆け下りた。膝まで泥に沈みながら壁面に手を当てる。関東の赤土――乾けば石のように固く、水を含めばたちまち崩れる関東ロームの壁が、じっとりと濡れて、指の下で崩れ落ちた。
崩れた土は、掘割の底を埋めていた。
「底が……上がっておる」
掘り下げた深さは、図面のとおりだった。だが水を入れた途端、壁が崩れ、自らの土で自らの道を塞いでしまう。台地の土の性を、見誤ったのだ。
来春の通水は、間に合わない。
一年。少なくとも一年分の遅れであった。
「組頭、堰を戻せ。試し水は中止だ。一刻も早く」
「へえ。……しかし忠次様、あの空を」
吉兵衛が、東の空を指した。
雲が、赤黒く濁っている。二百十日を過ぎたばかりの、嫌な色であった。
その夜
風が、唸りを上げていた。
野分である。
雨は横殴りに叩きつけ、昼間に戻し切れなかった堰の仮堤が、悲鳴のような音を立てて軋んでいる。
「土嚢を積め! 積めと言うておる!」
忠次の怒声も、風にちぎれた。人足たちが泥の中を駆け、肩に土嚢を担ぐ。だが積んだそばから、濁流が持っていく。
「忠次様、もう持ちませぬ!」
「あと少しだ、耐えよ、あと――」
轟音。
仮堤が、崩れた。
黒い水の塊が、闇の向こうの低地へ雪崩れ込んでいく。その先には、浅茅村の灯があった。
灯は、一つずつ、消えていった。
翌朝
雨は上がり、空は、皮肉なほど青かった。
浅茅村は、泥の底にあった。
流された家。折れた稲。屋根の上で震える犬。そして、筵をかけられて並べられた十七の亡骸。
忠次は、その前に膝をついた。
「……この忠次の、責めにござる」
村の名主、源右衛門は、痩せた背を伸ばして立っていた。その背後で、村人たちが石を握りしめている。人足たちも、無言で睨み返していた。あと一言で、血が流れる。
忠次は、腰の脇差を抜き、逆手に構えた。
「命をもって、お詫びを――」
「死んで、田が戻るか」
源右衛門の声は、静かであった。
「死んで、うちの倅が戻るか。あんたが腹を切れば、わしらの気は少しは晴れよう。だが、それだけじゃ」
「…………」
「死ぬなら、水を止めてから死ね」
脇差を握る忠次の手が、震えた。
死んで償える。そう信じていた。だが目の前の男は、命よりも重いものを、忠次に突きつけていた。
同じ頃 江戸城・勘定所
秀忠は、算盤を弾いていた。
一年の遅れ。復旧の費え。死者への見舞い。
珠が、乾いた音を立てる。
「……工期を延ばしても、収支は黒だ。損は米にして一万石ほど。新田の増分で、十年で取り返せる」
「若様」
正信が、干し柿のような顔から、笑みを消していた。
「この一件、大坂に知られれば、東遷は徳川の手に余ると笑われましょう。人死にも出ております。しばらくは、隠されるがよい」
「隠して、浅茅村が納得するか」
「村など――」
「正信」
秀忠は、算盤から顔を上げた。
「わしの算盤は、村の墓も数えられるか?」
正信は、返す言葉を見つけられなかった。
秀忠は立ち上がり、羽織を脱いだ。
「馬を出せ。供は五人でよい。わしが行く」
二日後 浅茅村
泥の村に、五騎が現れた。
「……若様!?」
忠次が、目を剥いた。
秀忠は馬を降り、無言で人足たちの列へ歩み寄った。泥だらけの土嚢の山から、一つを軽々と肩に担ぐ。
「若様、お手が汚れまする!」
「汚れるために来た」
秀忠は、崩れた堤へ向かい、他の人足に混じって土嚢を積み始めた。羽織も脱ぎ、袴の裾は泥に染まり、額から汗が滴る。
最初は誰も、動けなかった。
やがて人足の一人が、恐る恐る土嚢を担いで隣に並んだ。二人、五人、二十人。石を握っていた村人の中からも、一人、また一人と、黙って手を貸す者が出た。
日が傾く頃、堤の穴は塞がっていた。
秀忠は、泥にまみれた手を拭いもせず、源右衛門の前へ立った。
「名主殿。この村を沈めたのは、我らだ」
「……お若いの。あんたの算盤は、村の墓も数えるのか」
問いは、刃のようだった。
「数えぬ」
秀忠は、はっきり言った。
「数えられぬものは、数えぬまま抱えるのが公儀の務めだ。だが、償いは数える。三つ、約束する」
泥に濡れた指を、一本ずつ立てる。
「一つ。この村に、新田の割当を優先する。二つ。三年の間、年貢を免ずる。三つ。水に浸かった墓を、高台へ移す。費えはすべて公儀が持つ」
「口では、何とでも言える」
「ならば、墓の移し替え、わしが最初の一鍬を入れる」
源右衛門は、秀忠の泥だらけの顔を、しばし見つめた。
「……もう一つ、聞かせてくれ。この堀は、いつ終わる」
秀忠は、一瞬だけ、目を伏せた。
(ここで偽れば、二度と村は信じぬ)
「二十年」
ざわめきが起こった。
「二十年かかる。それも、わしの代では終わらぬ。子の代、孫の代までかかるやもしれぬ。だが、必ずやり遂げる」
秀忠は、傍らで硬直している忠次へ、振り向いた。
「忠次。腹を切るな」
「若様……」
「腹を切って償えるのは、お前の顔だけだ。お前の腕と頭は、この川に要る」
忠次の手から、脇差が滑り落ちた。膝が崩れ、泥の中へ両手をつく。声は、出なかった。
源右衛門は、長い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「……そんなことを正直に言う公儀は、初めてじゃ」
その夜、秀忠は、泥のついた手を桶の水で洗っていた。
(わしは、間違えた)
台地の土の性を見誤ったのは忠次だけではない。彼の報告を、数字だけで受け取っていた自分もまた、誤っていたのだ。
(算盤は、現場の泥を知らぬ)
桶の水が、赤茶色に濁っていく。
右の親指の古い傷が、水に沁みた。
冬を越し、慶長九年(一六〇四年)春
台地の切り通しは、赤土を焼き固め、杭と石で壁を補強して掘り直された。
忠次は、帳面の束を息子の忠政に託した。
「これが、掘割の図面と、土の性の覚書だ。……赤土は、水に弱い。だが、赤土を知れば、水を導ける。書き足す者が、続けばよい」
「父上の代では、終わらぬと」
「終わらぬ。お前の代でも、終わらぬかもしれぬ」
忠次は、静かに笑った。
「それでよいのだ。終わらぬものを、正直に引き継ぐ。それが、あの方が教えてくださったことだ」
堰が、上がった。
細い、本当に細い一筋の水が、掘割の底を這うように進んでいく。太い川の流れを東へ向け直す大事業からすれば、あまりにも小さな水であった。
水は、切り通しを越えた。
崩れなかった。
対岸で、源右衛門と村人たちが、黙ってその流れを見つめていた。誰も喝采はしなかった。ただ、老いた名主だけが、泥に汚れた手で、そっと目頭を押さえた。
高台には、真新しい墓標が十七、朝日を浴びて並んでいた。
後に関東の母なる大河と呼ばれる流れの、それが最初の一筋であった。




