幕間 大江戸の産声
幕間のため短めです。
慶長五年(一六〇〇年)七月――下野国・小山陣所。
会津の上杉景勝を討つべく江戸を出陣した徳川軍であったが、ここ下野国・小山の陣にて、大坂の石田三成挙兵という天変地異のごとき急報に見舞われていた。
豊臣恩顧の武将たちを集めた「小山評定」を翌日に控え、軍営全体が息をのむような緊迫感に包まれる中、徳川秀忠の陣所に本多正信がそっと姿を現した。
囲炉裏の炭火が静かに爆ぜる音だけが響く室内で、正信は温かい茶を差し出し、どこか慈しむような目で秀忠を見つめた。
「……若。江戸を出陣いたします直前のことを、覚えておられますか?」
「直前のこと……?」
秀忠が問い返すと、正信は深く首を頷かせた。
「左様。出陣の引き締めのため、内府(家康)様と土井利勝殿が江戸城で一番高い富士見櫓の上に登られ、眼下の城下町を眺めておられました。わたくしもまた、その背後にお控えしておりました」
正信の言葉に、秀忠は出陣直前の江戸城の熱気を思い出していた。
「……富士見櫓の欄干から、西日に映える大江戸の街並みを見下ろしながら、内府様は利勝殿相手に感慨深げに語っておられたのです。『利勝よ。九年前、小田原を終えて初めてこの江戸に入った日のことを覚えておるか』と」
正信の口を通して語られる家康の述懐に、秀忠もかつての記憶を反芻するように目を細めた。
「……忘れるはずもございませぬ。九年前の江戸は、道灌公の旧城が荒れ果て、大手門の先まで潮が差し込む葦原……雑木林と泥の海が広がるばかりの田舎町に過ぎませんでした」
「酷い有様でしたな」と正信は微笑んだ。
「秀吉公は内府様を関八州の荒野に押し込め、骨抜きにしようと企んだ。……だが、内府様は利勝様にこう仰られたのです。『見よ、利勝。たった九年で、わしと秀忠が創り上げたこの江戸の萌芽を』とな」
正信の語る情景が、秀忠の脳裏に鮮やかに浮かび上がる。
行徳の塩田と江戸を最短で結ぶために削掘された『小名木川』の運河を、大量の米や塩を積んだ高瀬舟が縦横無尽に行き交い、かつて潮の香る湿地であった城の足元には、確実に人と物資が集い始めていた。神田から樋を通わせた上水が城下に清流をもたらし、荒野は着実に「都市」としての鼓動を打っている。
「内府様は、富士見櫓の上から眼下に広がる広大な『日比谷入江』と、その背後にそびえる『神田山』を指差し、利勝様にこう諭されたそうでございます」
正信は家康の声色を真似るように、重々しく言葉を紡いだ。
『利勝よ。大坂の諸大名どもは、未だに武力と金銀の輝きだけで天下を誇っておる。……だが、国を真に支配するのは「黄金」ではない。「水」と「道」と「人」を集める仕組みなのだ。
わしがこの地に下った時から、我が「天下の構想」は始まっておった。……この戦を制した暁には、あの神田山を崩して日比谷の海を埋め立てる。そこへ武家邸宅と町人地を網の目のように配置し、大坂を遥かに凌ぐ天下第一の消費地を創り上げるのだ。……我が天下構想の仕上げは、これからなのだ』……とな。
秀忠はじっと正信の言葉に耳を傾けていたが、やがて静かに胸を張った。
「……父上が利勝にそこまで語られたか。利勝もまた、徳川の次世代を担う者として、その言葉の重みを噛みしめたであろうな」
「ははっ。利勝様は感極まったご様子で、ただ平伏しておられました。そして内府様は最後に『この江戸の礎と仕組みを完璧に理解し、動かせるのは秀忠だけだ。この戦が去った後、あの者がこの江戸を天下の府へと昇華させる』とお漏らしになられました」
正信の報告に、秀忠の胸の奥で熱い覚悟が湧き上がった。
大坂の石田三成や奉行どもは、徳川を「東の田舎大名」と高を括り、武力で押し潰そうと企んでいる。だが、家康と秀忠、そして利勝ら側近たちが九年間かけて耕してきたのは、単なる城下町ではなく「日本最大の経済と物流の中心」となる設計図であった。
「佐渡……父上の想い、そして江戸の力を無駄にはせぬ」
秀忠は力強い目で正信を見つめた。
「三成らがどれほど武力や豊臣の威光を振りかざそうと、我が徳川にはこの九年で築き上げた『仕組みと都市の力』がある。明日からの戦、武力で勝つのみならず、この江戸の力を背景にして豊臣の時代を完全に終わらせてみせる。そして勝利の後に……我が手で神田山を崩し、この江戸を日本一の都へと変えてみせる」
正信は満足そうに深く頭を下げた。
出陣直前、江戸城の富士見櫓で家康が利勝に語った「天下の構想」は、小山の陣所で正信を通じて秀忠へと確かに継承された。
天下分かれ目の決戦を前に、武力のみならず「都市と経済の仕組み」をもって西軍を圧倒し、未来の江戸を創り上げるという揺るぎない確信を胸に、秀忠は歴史を動かす大一番へと足を踏み出すのであった。
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