第14話 泥沼の江戸と、落ちぶれし織田の巨星(?)
天正十八年(一五九〇年)八月。
小田原を開城せしめた豊臣秀吉は、その勢いのまま奥州(東北)の諸大名を平定すべく、北へと向かった。
そして――その先導役として連れ回されたのが、父・徳川家康であった。
秀吉の狙いは明白。「家康を本拠から引き離し、国替えの準備を遅らせて徳川を骨抜きにする」という意地悪い牽制である。
だが、秀吉は重大な計算違いをしていた。
留守を預かる徳川の「現場トップ」として江戸へ送り込まれたのは、弱冠十一歳――しかし中身は冷徹な現代的思考を持つ若君、徳川秀忠であったからだ。
「……これが、江戸城か」
八月一日(八朔)。
猛暑の中、馬を走らせてたどり着いた江戸城を見上げ、本多忠勝や榊原康政ら三河武士たちは絶句していた。
城とは名ばかり。石垣はなく、湿気で腐った萱葺の屋根、壁は落ち、城下は利根川が暴れ狂う底なしの泥沼。潮風が吹きつけ、井戸を掘れば塩水が湧き出るという、文字通りの「見捨てられた荒野」であった。
「……殿もおられぬというのに、こんな泥の城でどうやって生きていけというのだ……」
絶望に肩を落とす家臣たち。
だが、十一歳の秀忠だけは、瞳に怪しい光を宿してニヤリと笑った。
(完璧だ。まっさらなキャンバスと同じではないか)
「忠勝殿、康政殿、顔を上げられよ」
幼いながらも透き通った秀忠の声が、暗雲を払うように響く。
「水が悪ければ、上流からきれいな水を引く『神田上水』を掘ればよい。道が泥沼ならば、掘削した土で埋め立てて港を作ればよい。父上が関白様の目を惹きつけてくださっている今こそ、誰の邪魔も入らぬ『絶対都市』の基礎を固める好機にございます!」
秀忠はすぐさま、密かに回収していた「風魔」を解き放ち、関東一円の地質と水路情報を収集。代官頭の伊奈忠次を司令塔に据え、爆速で治水と区画整理の指示を出していった。
その圧倒的な手腕に、三河武士たちは「若神様か……!」と再び熱狂し、泥まみれになりながら工事に飛び込んでいった。
――そんな爆速開拓の最中、江戸城(ボロ屋敷)に「予想外の厄介者」が転がり込んできた。
かつて天下人・織田信長の後継者を気取りながらも、小田原征伐後に秀吉の国替え命令を拒否して一瞬で領地を全没収(改易)された男――織田信雄と、その娘の小姫である。
「うう……秀忠殿ぉ……! 秀吉の野郎、わしから尾張も伊勢も奪いおった! 鬼じゃ、あやつは大猿鬼じゃ……!」
豪華な着物を泥で汚し、十一歳の秀忠の裾にしがみついておいおい泣き叫ぶのは、三十代半ばの男・信雄であった。
秀吉から「お前の婚姻予定だった信雄の娘も、行き場のない信雄も、お主が好きに始末せよ」と押し付けられたのだ。
「……義父上(仮)、お立ちください。見苦しいですぞ」
秀忠は引きつった笑みを浮かべつつ、心の中で冷ややかに計算を弾いていた。
(……信雄殿が改易されることなど、小田原の時点で計算済みだ。信長公の威光に不釣り合いな自尊心が自滅を招くことなど目に見えていた)
史実ならば、娘の小姫は幼くして没し、信雄も各地を漂流するハメになる。
だが、秀忠はあえてこの二人を匿い、養うことを選んだ。情からではない。「計算」である。
「秀忠様……父がご迷惑をおかけして、申し訳ございません……」
小さく震えながら頭を下げるのは、幼い小姫であった。
「よいのです、小姫殿。あなたがたを捨てるつもりはありません」
秀忠は優しく小姫の頭を撫でた。
信雄という男はポンコツであり、政治的価値は暴落している。だが――「織田のブランド力」と「尾張・伊勢・熱田の経済人脈」は依然として生きているのだ。
「義父上。落ち込むことはありません。我が徳川のもとで食客として優雅に隠居なされよ。その代わり……」
秀忠は信雄の耳元に顔を近づけ、悪魔のような笑みを浮かべた。
「尾張や熱田の豪商、腕利きの職人や船引きたちに、手紙を書いていただきます。『信雄のために、江戸の街づくりに力を貸せ』とね」
「へ……? わ、わしの名で、商人どもが動くのか……?」
「動きますとも。『織田の看板』は、まだ腐っておりませぬ」
名目上は「哀れな織田家の生き残りを救う優しい若君」。
しかし裏では、秀吉に怪しまれることなく、信雄の名義を使って上方・尾張の巨大な物流網と経済人脈を江戸へ爆速で引き込むという、完璧な狂言であった。
「おおお! 息子よ! お前は天才だ! 命の恩人じゃ〜!」
信雄はころりと機嫌を直し、秀忠の手を握りしめた。
(やれやれ……威張らなくなったダメ人間だが、使い道はある。せいぜい長生きして、織田の看板として看板娘(野郎?)になってもらうとしよう)
そして八月下旬――。
秀吉の奥州仕置からヘトヘトになって江戸へ帰ってきた父・家康は、絶句することになる。
「……な、なんだこれは……!?」
ボロ城で苦しんでいると思いきや、そこには整然と区画整理が進み、きれいな水が湧き出る上水が掘られ、なぜか落ちぶれたはずの織田信雄が呑気に酒を飲み、我が子・秀忠が風魔と商人たちを顎で使って未来都市を築き上げている光景があった。
「父上、お帰りなさいませ。……あ、お腹空きました」
ぐぅ〜〜〜と、相変わらず盛大にお腹を鳴らして赤面する十一歳の我が子を見て、家康は頭を抱えた。
(……我が子ながら、恐ろしい。わしがいない一ヶ月で、何をやらかしたのだ……!?)
徳川の新たな本拠・江戸の歴史は、幼き天才の「計算」と「愛嬌」によって、爆速で動き始めたのであった。
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