第55章 企業の壁の向こう側
――チリッ。
セカンドスクリーンのピクセルが完全な描画を完了するより早く、メインモニターの左隅に極小の通知ウィンドウが弾けた。個人メールのアカウントに滑り込んできた、一通の新しいパルス。発信元のカラムに刻まれていたのは、暗記してしまっている既知の文字列だった。――no-reply_development@ex-net-game.jp。
㠪直哉は黒いマウスの筐体から指先を引き剥がし、作業椅子の冷たい背もたれに身体を硬直させたまま預けた。港区の高層ビルに自閉する中央開発チームからの返信が、引き延ばされた遅延を経て、ついにこの四畳半の暗室へと着陸したのだ。普段なら定型のエラー報告や決済の不具合にしか冷淡な自動応答を返さない巨大な企業の壁が、今、その防衛プロitの向こう側から、生身のエンジニアの手によって書き下ろされた二進数の配列を出力していた。
――Click.
㠪承認ボタンを叩く。メインモニターの液晶全体に、ビジネス用のフォーマルな日本語の関数で構築された文字列が開帳された。
『ユーザーアカウントID:Naoya 様
本書簡は、貴殿より我が社のインフラ管理部へとインプットされた、旧メモリエリア[Node 2026]に関する生データログへの公式な回答となります。我が社のネットワーク解析チームが精査した結果、貴殿より提供されたセクタ14-Mの仕様は、確かに厳然たる確定コードであることが検証されました』
㠪直哉は喉の奥で呼吸のテンポを静止させた。壁の柱時計の刻む等速の秒針が、不自然なほどに緩慢な速度へとスライドしていく錯覚。
『昼の解体プロトコルの執行直前まで、我が社が旧データベース内部のトランジットメモリを調査したところ、該当セクタの底に、永久に状態をロック(凍結)された歪な暗号化アノマリーが残留している事実が確認されました。
㠪は過去三百六十五日もの間、中央サーバーへの最終確定コード(コミット)を出力できぬまま、通信中途の位相で宙吊りになっていた、一枚の未完のデジタルイラストデータです』
㠪三行目の段落のカラムを網膜の裏へと写し取った瞬間、目頭の奥が熱い質量を伴って 抉開けられた。
『我が社の管理部は、該当ユーザーの登録履歴の照合、および一年前の地方ニュースにおける橘レイ氏の物故に関する実態を厳粛に受け止め、社内審議を執行いたしました。その結果、我が社は該当ファイルをシステムから永久消去せぬことを決定いたしました。
㠪夜のバージョン5.0への大規模移行に際し、橘レイ氏の遺した最後のネーム原稿の波形は、公式な永久記念資産[Memorial Archive]として、電脳のリポジトリ[CLOUD_ASSET_RESERVE_09]の底へ正規に登録されました』
㠪電子書簡の最下部、コーポレートの定型テンプレートという名の規則性の枠外に、ただ一行の、剥き出しの短い符牒がインクで書き添えられていた。
『我が社のネットワークの網のなかに、このシグナルを、私たちが肉眼で見届けるその瞬間まで繋ぎ止めておいてくれたことに、深く感謝いたします。この言葉の運行表は、ようやく、正しい終着点へと辿り着きました』
㠪直哉は強く、両のまぶたを閉じた。
㠪い胸の空気が、長い安堵の凪ぎとなって喉の奥から漏れ聞こえていく。
㠪のメッセージは、もう世界を壊すための不法なペイロード(バグ)ではない。橘レイという一人の人間の生きていた仕様は、防衛アルゴリズムに排除されるべき悪質な脆弱性の歴史などでは決してなかった。
㠪巨大な企業の防壁が、その鉄の門を静かに抉開け、彼女の最期の独白を、電脳世界の正当な公式の歴史の一部としてハンドシェイク(承認)したのだ。
㠪ゆっくりと目を開けた。右側のセカンドモニターの液晶が、濁りのない白一色のクリーンなバックライトを、深夜の暗室の真ん中へと放射し始めていた。
㠪ファイヤーウォールの監視網が、俺の指先を襲う気配はもう何処にもない。
㠪しい秩序はすべての波形を調和させ、俺の目の前で、あの完結した因果律の結末をスポーン(実体化)させるための正しい描画プロトコルを開始していた。




