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YOUR LAST SEEN 『ユア・ラスト・ログイン』  作者:
ARC 4 : OFFLINE ・ FOREVER

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第46章 カーテンを引く日

 今朝の中央線の車内を満たす空気の密度は、昨日までのそれとは決定的に異なっていた。数十分前に自室で引き剥がした炭色の布地は、現実に生きる俺の五感を頑なに隠蔽いんぺいしていた分厚い障壁をも、同時に引き抜いていったかのようだった。周囲に座る見知らぬ乗客たちは、もう液晶の底で行き交う顔のない灰色のピクセルデータの塊には見えなかった。隣に座る中年男の、浅く重い吐息の波形がリアルな振動となって鼓膜に届く。直哉は、車両の硝子ガラス窓に乱反射する太陽の光線が、東京の単調な運行表スケジュールに追いつめられた生身の人間たちの疲弊した横顔を、白々しく洗っていく景色をただ見つめていた。


 首元にパッシブ(受動的)に引っ掛けられた、過剰なスペックのヘッドフォンに指先を這わせる。通電はしていない。スマートフォンへ繋がる細い導線ケーブルも、何処どこのインターフェースにもハンドシェイクを交わしてはいなかった。けれど、その冷たい鉄の筐体きょうたいが皮膚に触れている手応えだけが、今の俺にとっては確かな防壁のように感じられた。あの電子の海の底の記憶を忘却の彼方へデリート(消去)するのではなく、 な記憶のアンカーとして胸の真ん中に抱えたまま、このリアルな地平を共に歩調を進めているのだという、静かな証明。


 新宿の 駅に滑り込んだ列車が、寸分の狂いもなく緩慢な制動の金属音を響かせた。改札口から吐き出される膨大な他人の濁流に押し流されながら、九時四十五分。照りつける太陽の熱線を吸って急速に温度を上げ始めていた舗装路を、直哉は一歩ずつ踏みしめていった。キャンパスまでは、ここから歩幅を合わせて十分の距離。以前の彼なら、割れたスマートフォンの液晶の底だけを睨みつけ、季節の推移も群衆の顔の輪郭もすべては意識の死角へとパージ(排除)して、盲目に歩いていただろう。しかし、今日の直哉は、こうべを真っ直ぐに起こしていた。新宿のビル群の隙間に切り取られた空の関数は、あまりにも一本の青色を鮮やかに維持していた。それは清潔でありながら、あのドットの箱庭の初期街にあった、雲ひとつない完璧な絵空事のグラフィックとは決定的に異なっていた。現実の世界の上では、極細の巻雲が風の運行に従って不規則にその形状をスライドさせ、熱を帯びたアスファルトの臭いと朝露の残渣ざんさを孕んで、ゆっくりと流れていく。


 舗装路の突き当たりに、大学のメインゲートが見えてきた。いくつかの学生のアカウントがグループを成して歩き、他愛のない笑い声を弾けさせながら、夏休みの予定や肉薄する中間試験の数値を語り合っている。直哉はその群れの間を、これまで自分が頑なに敷設し続けていた目に見えない排他的な境界線を、静かに踏み外しながら前進していった。窓際に座席を固定され、グループワークのカラムには一度として登録されず、極限の寝不足で網膜を赤く染めて液晶を睨み続けるだけの、ただの「奇妙なストレンジャー」。それが、昨日までのこの肉体のスペックだった。

「一ノ瀬?」

 本校舎のロビーの手前で、突如として投げかけられた音声パルス。直哉はゆっくりと視線の座標を巡らせた。そこに立っていたのは、しわの寄ったフランネルのチェックシャツを着込み、数冊の講義資料を小脇に抱えた一人の青年。高橋。去年のゼミナールという名のプロトコルで一度だけ同じ班になり、名前の文字列すら暗記の死角に埋もれかけていた男。

「……ああ。高橋、か」

 喉の奥から出力された声音は、酷く掠れて見知らぬ他人のように響いた。生身の人間とリアルタイムの対話を交わさなくなってから、あまりにも長い時間が消費されていたからだ。

「今日、来れたんだな。先週みたいにまた自動でログアウト(欠席)するのかと思ってたよ」

 高橋は怪訝そうな視線の関数をこちらに向け、直哉の首元のヘッドフォンのグラフィックへと一度視線を滑らせてから、再び瞳のピントを戻した。

「顔色、マシになったな。先週のお前、マジで生けるゾンビのアバターみたいだったぞ」

 直哉は唇の端を、自嘲ではなく、ひどく静かな形を伴ってほんの少しだけ綻ばせた。

「昨夜は……ようやく、早い時間に入力を終了(就寝)できたから」

「そりゃ良かった。遠藤教授がお前の卒論のネームについて昨日訊ねてたぞ。三階の指導セクションはあと十分で開始される。ファイル、インプットしてあるんだろ?」

 直哉はバックパックの小さなポケットに手を滑らせ、その感触を確かめた。銀色のフラッシュメモリの内部、極小のセクタのなかに保存されているのは、あの『Node 2026』のエントロピー暗号が同期を待つ長い遅延ラグの隙間に、手癖の動作だけで書き進めていた課題のデータ。

「ああ。持ってきてing」

「よし、じゃあ上がろうぜ。他の連中もとっくにログインしてる」

 高橋は反転し、ロビーの硝子の自動ドアを潜って先行していった。


 直哉はその背中に歩幅を合わせ、三階へと続く冷え切ったコンクリートの階段を一段ずつ踏みしめていった。一歩ずつの重量が、確かな現実として肉体に帰還していく。リノリウムの床と靴底が擦り合う摩擦音、消毒液の漂う匂い、隣の教室のカラムから漏れ聞こえる見知らぬ講義の雑音。このリアルの世界は騒々しく、不規則で、プログラムの生コードでは到底予測することのできないバグ(不確定要素)に満ちあふれている。しかし、三階の廊下に敷設された巨大な窓の硝子にピントを合わせ、高橋の隣を真っ直ぐに歩行していく自分のシルエットの残像を網膜に収めた、その刹那。俺は、もうこの喧騒けんそうのノイズに対して、恐怖の関数を起動させることはなかった。灯りの消えた暗室のカーテンは引き剥がされ、たとえ隣の座標を共に歩いてくれる少女の姿がここにはなくとも、彼女が俺に「そのままレールを進んでほしい」と言い遺したあの五文字の遺言パルスだけは、厳然として胸の真ん中に滞留し続けているのだから。自室で冷たく暗転している液晶の壁の向こう側で、新しく構築されるべきタイムラインが、俺の手で完結されるその瞬間を静かに待ち焦がれていた。


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