第32章 指先の狂い
カタ、カタ。
プラスチックのペン先が液晶タブレットの硝子面を叩く音は、時間の経過と共に目に見えてその規則性を失っていた。
視界のいくつかの座標が、歪にぼやけ始めている。原稿キャンバスの一点に網膜のピントを合わせようと試みるたび、発光するモニター全体が、まるで泥の海のようにゆっくりと左右へ揺れ動くような錯覚。
時計の針は――二二時四十五分。
肉体はとうに安全領域の数値を逸脱し、限界を超えて稼働を続けていた。脳細胞を侵食する濃密な睡魔と、マグカップの底で冷え切った安物のインスタント珈琲がもたらす鈍い吐き気の混濁。
視線の座標を、右側のセカンドスクリーンへとずらす。
電子の箱庭のウィンドウは、ゆっくりと夜のグラデーションに侵食されていくデジタルな街並みを映し出していた。時折、他のプレイヤーのアカウントが異常な速度で画面を横切っていくが、広場の片隅、ピクセルで描写された 歩道の縁に座り込んだままの私のアバターには、誰も関心を持とうとはしなかった。
――チリーン。
フレンドリストの最上段、あの特定の四文字が、再び色の世界へと帰還した。
――Naoya - Online
レイは乾いたまぶたを数回瞬かせ、脳髄を麻痺させようとする睡魔のパルスを無理やり 掻き消した。ゲームウィンドウをアクティブにし、いつも通りの軽い符牒をタイピングしようとする。
㠪し、冷え切った自室の空気のせいで、指先の筋肉は石のように強張り、キーボードを叩く手つきはひどく 鈍っていた。指と指の隙間を、深夜の冷気が冷たく 抉るようにして通り抜けていく。
『待って、ちょと』
エンターキーを強く叩いた刹那、私は自分がしでかした些細な文字の欠落に気づいた。
『ちょと』。
ため息を吐き出し、次のカラムでそれを修正しようとした矢先、液晶の底からナオヤの応答が異常な速さで出力された。
『ちょっと、か?』
㠪発光する硝子板を見つめる。
今度の彼のパルスは、ミリ秒刻みの遅延すら経ず、完璧なリアルタイムのテンポを刻んでいた。まるで、二〇二六年の私の暗室と二〇二七年の彼の地平を繋ぐ時間軸の裂け目が、この一瞬だけ完全に融解し、二つの端末をダイレクトに同期させたかのように。
『うん』
短い一文字の残滓を送信し、私はすぐに両手をキーボードから引き剥がして、己の太腿の上へと落とした。
不快な重低音を立てて速度を上げ始めた心臓の搏動を、無理やり抑え込むための仕草。
㠪は文字を打ち間違えたことへの焦燥ではない。液晶の壁の向こう側で、ナオヤというIDの背後にいるナニカが、今、こちらの指先の動きを恐ろしいほどに鋭利な視線で睨みつけているのではないかという、底冷えする予感。
㠪たかも、私がしでかしたその微小なエラーコードこそが、彼が長い時間の深淵の底で、ずっと喉を乾かせながら待ち焦がれていた巨大な手がかり(キークラス)であるかのように。
画面の向こう、彼のアバターがこちらに歩調を合わせ、正確に隣の座標に滑り込んできて静止した。
㠪は再び離席(AFK)のモードに入り、タイムラインは数分間の過酷な静寂に沈んだ。
「なんで、また黙っちゃうの……?」
無機質に点滅を繰り返す一本の白いカーソルを睨みつけながら、細い呟きが部屋の隅に沈んでいく。
画面の隅、二〇二七年からのパケットの混入を示す『timestamp mismatch』のエラーログは、一定の周期で明滅を繰り返していた。レイは椅子の冷たい背もたれに深く頭を預けた。
圧倒的な疲弊は、もう私の脳細胞から、このアノマリー(違和感)の背後にある科学的な理線の数式を組み立てる気力すら奪い去っていた。
ただ、ここに座っていたかった。
㠪の液晶のなかに、彼のアバターが確かに実在している景色を、ただ網膜に焼き付けていたかった。
なぜなら、この部屋の外側にあるリアル、狂った速度で回転を続ける東京の喧騒のなかには――こんな私の遅くて、いつも間違いばかりを繰り返す指先が文字列を紡ぎ終えるのを、黙って待ってくれる人間など、ただの一人も存在しないのだから。
――チリーン。
ログのカラムの最下部に、新しい文字列が滑り込んできた。深夜の暗室に横たわっていた沈黙を、冷たく切り裂くようなパルス。
『俺の返信が遅い時は、先に落ちていいからな』
指先が、完全に凍りついた。
あまりにもありふれた、単純な一言。
なのに、どうしてだろう。その十一文字のインクを目に収めた瞬間、俺の、いや私の胸の真ん中が、底冷えするような息苦しさで 竦み上がった。
㠪たかも彼は、ひどく軽い足取りを装いながら……その実、こちらの領域の何事かを、冷徹に値踏みしているかのような響き。
『先に落ちていいからな』
冷酷な拒絶の台詞ではない。こちらを追い出そうとするエラーコードでもない。
けれど、その言葉の持つ温度が「普通」であればあるほど、私の内の違和感の棘は、より鋭利な形状を伴って脳髄を 抉った。
私の返答の遅延が、彼の時間軸において、奇妙なバグとして描写され始めているのだろうか。
あるいは――私がこの対話の隙間で、あまりにも頻繁に操作を放棄している事実に、彼は気づきつつあるのか。
『なんで?』
理性のフィルターを通さず、棘を含んだ問いのパルスを送信した。胃の腑の底から侵食してくる不快な焦燥感。
彼の次の出力を、喉を乾かせながら待った。
㠪し、世界の数式はやはり歪んでおり、光回線のエントロピー暗号は、彼の言語の波形を長い沈黙の底へと繋ぎ止め続けた。
数分という名の引き延ばされた時間の後、ようやく液晶が更新される。
『なんでもない』
落ちてきた短い肯定(拒絶)は、胸の真ん中の息苦しさを何ひとつとして融解してはくれなかった。
むしろ、その削ぎ落とされた四文字は、未来の彼が、こちらの世界へこれ以上の介入を阻むために、静かに、そして完全に目の前の扉を閉ざしたかのような、乾いた寂寞の響きを帯びていた。




