第31章 影響される描線
再び室内に夜の帳が下りてきても、灯りの消えた四畳半の温度は何ひとつ変わりはしなかった。
ただ、酷使され続けているモニターのバックライトが、疲弊したまぶたの奥で、先ほどよりも僅かに減光したかのように鈍く発光しているだけだった。
チリッ。
スマートフォンの液晶が、深夜の暗闇を白々しく切り裂いた。
視線の座標を、無造作にその矩形の端末へとずらす。
[編集・斎藤]
『橘さん、昼に届いた三ページ分のプリビューですが、マーケティング部での評価も上々です。この静謐な隔離の空気感をそのまま維持してください。もしこのまま期日通りに全頁が入稿されれば、年末の単行本化(コミックス化)の運行表に組み込める可能性が出てきました』
単行本化。
その文字列は、本来なら個人クリエイターの端くれとして、狂ったように歓喜のパルスを跳ね上げさせるだけの絶対的な価値を持っているはずだった。
けれど今夜の俺には、いや私には、斎藤の投げかけてきたその記号のすべてが、すでに接続を断たれた別の宇宙の出来事のようにしか感じられなかった。胸の真ん中を掠めていく、ひどく無機質な乾いた手触り。
メインモニターの原稿キャンバスへと向き直る。
右手の指先は、理線の命令を介さないまま、手癖の動作だけでスタイラスを滑らせていた。二十五ページのラフの削り出し。
だが、そのインクの軌道のなかに、自分でも気づかないうちに致命的なアノマリー(違和感)が混入し始めている事実に、私は息を詰めた。
キャンバスのなかで、主人公の少女とプロトコルを交わしている名もなき少年のシルエットが――ゆっくりと、ナオヤのアバターの意匠へと収束しつつあったのだ。
ファスナーを顎の境界線まで引き上げた、暗いフード付きのパーカー。
そして、その首元にパッシブ(受動的)に引っ掛けられた、過剰なスペックのヘッドフォン。
スタイラスの先端を硝子面に押し当てたまま、橘レイは完全に凍りついた。
「……なんで、この人の絵を描いてるんだろ」
細い呟きは、四畳半の沈黙に吸い込まれて消えた。
私はナオヤの现实の顔など一枚の画像データすら見たことがない。彼の身長の数値も、網膜の色を規定するカラーコードも、何ひとつとして知らない。
なのに、私の脳細胞の最も深い死角において、彼の存在という名のデータは、毎晩交わされる短いチャットログの網を潜って、あまりにも深く浸食していた。締め切りという名の過酷な重圧に精神の輪郭を溶かされそうになる私を、この現実の座標に辛うじて繋ぎ止めるための、唯一の冷たい錨。
――チリーン。
セカンドスクリーンの箱庭が、短いパルスを弾いて私の思考を強制終了させた。
ナオヤのIDの横にあるインジケーターが一度だけ明滅する。
離席(AFK)の硬直を解かれ、彼のアカウントがタイムラインの最前線へと帰還した合図。
俺は、いや私は原稿キャンバスの処理を放棄し、手癖のままゲームウィンドウをアクティブにした。
『やるよ』
液晶の底を見つめ、不自然に眉をひそめる。
やるよ――。
ディテールを完全に 隠蔽した、主語のない唐突な符牒。それは数分前の『今日、行けるか?』という問いの残響と噛み合いながら、タイムラインを垂直にせり上がってきた。あたかも、彼は私が今この瞬間に下すべき決定的な関数を、一方的に催促しているかのような響き。
『やるよ』
俺は、いや私はキーボードを叩き、寸分違わない同じ三文字を光回線へと流し込んだ。彼に「無視された」というエラーログを記録させたくはなかった。二〇二七年の未来から届いてしまうこの歪な波形を、私の暗室のなかにただ繋ぎ止めておきたかった。
㠪の夜の静寂は、酷く引き延ばされ、過酷な重量を伴ってレイの肉体を圧迫した。
インジケーターの数値は「150ms」の黄色いランプを点滅させている。回線の帯域に致命的なエラーはないはずなのに、彼のアカウントからの応答は、サーバー時間のエントロピー暗号の奥に頑なに繋ぎ止められているかのように、次の出力を拒絶し続けた。
やがて。
『了解』
㠪、ただ二文字の記号だけが落ちてきた。
それを最後に、画面の向こうのナオヤのアバターはゆっくりとその座標を反転させ、広場の噴水から離れて、街の転送門の方向へと歩調を進め始めた。
㠪の歩行モーションは、システムに規定された通りに酷く整然としており、昨夜のような位置データのブレを奔らせる気配は微塵もなかった。
サーバーシステムによるストリームアライメント(流体整列)の強制適用。
㠪の処理の成功(バグの修正)こそが、かえって私を、底冷えするような完全な隔離のなかへと突き落としていく。データの波形が平坦に安定すればするほど、二人の間に横たわる「一年」という時間の解離が、修復不可能な厳然たる現実として、冷たく立ち上がってくるからだ。
システムが古いチャットログを自動消去し、フェードアウトしていくカラムの最下部を、私は必要以上に長く見つめ続けた。
――Naoya: 『了解』
㠪は対話の完結を告げる、冷徹な終了コード(エンドマーク)のように思えてならなかった。まだ、その関数の全容を一頁すら咀嚼できていないというのに。
スタイラスをホルダーへと戻し、レイは 疲弊した上体を椅子の冷たい背もたれに深く沈めた。
「未来のあなたは……一体、何を用意しようとしてるの?」
発光する硝子板に向かって投げかけられた問いに、精密機械が答えを出力することはなかった。
ただ、朝から駆動し続けている冷却ファンが、単調な排気音の残響を深夜の暗室に排出し、行きあてのない熱だけを、灯りの消えた部屋の隅にぽつりと沈殿させていくだけだった。




