第9話:月の華を映し出す瞳
大きな布の擦れる音が静かな部屋に響いた。
トカゲはその音に気付き、重い瞼を持ち上げる。昨夜灯していた蝋燭の火は消えてしまっているが、窓から差し込む光で室内はそれなりに明るい。
音のした方へ視線を向けると、ベッドから身を起こした直後と思われる少女の背が見えた。
「……ぉはよ。いま、おきたとこ?」
寝起きで上手く呂律が回っていない声。しかし少女の耳にははっきりと聞こえた。
少女は背後から突然投げかけられた言葉に驚き、肩をビクつかせた。振り返るまでの間に、妙な数秒の間が空く。
「……そ、そうですけど。おはようございます」
「よく、ねむれた?」
「まあ、はい。おかげさまで」
「それは……よかった」
脳に十分な酸素が供給されていないのか、トカゲの声は途切れ途切れである。対して少女は昨晩の、怯えて何も話さなかった様子からは想像もつかないほど、ハキハキと話すようになっていた。
トカゲはようやく彼女の本来の声を聞けたのだと思うと、安心したためか再び布団に包まろうとした。けれども横になるよりも早く、その場で上体だけを起こしたまま睡眠の魔に取り憑かれる。
「あの……朝、弱いんですか?」
少女は昨晩と打って変わって頼りないクリーム髪の少年を見ると、気まずそうに問いかけた。
「うーん? うーん、どうかな? いや、とくべつ……よわいって、わけでもないんだけど……ね……」
トカゲは少女の問いに答えると、大きく息を吸った。吸った分以上の息を吐き出し、しぱしぱする目を開ける。その後気持ちを切り替え、ベッドから体を下ろした。
「さて、と。いろいろ……準備しないとね」
トカゲが朝一番の洗顔に向かおうとした時、少女が小さな深呼吸をし、真剣な声を向けてきた。
「……あの」
「ん?」
「少し、お話をさせていただいても、いいですか?」
「そんなに畏まっちゃって、どーし…………たん?」
トカゲは少女の話に向き合おうと体ごと彼女に向けたのだが、その時、にわかには信じがたい景色が瞳に映った。なんと、少女の瞳の色が昨晩とは全く異なっていたのである。
虹彩は孔雀が美しい翼を広げたような神秘的なグラデーションで彩られている。瞳の中心とも言える瞳孔には、銀色の花のような模様が刻まれていた。見つめればどこまでも吸い込まれそうになる。昨晩起きた瞳の色の変化と照らし合わせたら、恐らく生来のものだろう。
あまりの変貌具合にトカゲは驚きを隠せず、言葉を失った。話にも集中出来なくなっていた。
しかし少女は目の前の青年が絶句している理由などいざ知らず、そのまま話を展開する。
「昨夜は助けていただいて、ありがとうございました。その場だけでなく、食事も宿も恵んでくださって……。それで、そのお礼が言いたくて」
少女の言葉は、トカゲには半分聞こえていないも同然だった。生返事しか返せるものがない。
「え? あ、いいよ別に。そんなの気にしなくて。それよりもさ、その……」
「その?」
トカゲは彼女の瞳の異様な得体の知れなさに支配されていた。少女の声が次第に遠くなっていき、現行の話題などそっちのけで瞳について尋ねた。
「……その目、どうしたの?」
「…………目、ですか? 充血でもしてますか?」
少女が挙動不審なまでに、わざとらしく話を逸らす。しかしその程度ではトカゲに憑いた瞳の邪を祓うには、到底及ばない。
「いや、そうじゃなくて。君の目がさ、昨日と違うんだよ」
トカゲは少女に瞳を示すように、自らの眼球を指差した。
すると少女は一瞬にして顔を曇らせ、俯いた。その表情には不安と微かな恐怖が宿っている。
少女は数秒間の沈黙を貫いた後、弱々しい声を出した。
「……やっぱり、誤魔化せないですよね」
震える声を出しながら、両の手で破れた服の裾を握りしめる。
少女は自身に宿った瞳について告白するか否か、躊躇っていた。迂闊に瞳のことを口外しようものなら、次はどんな目に遭わされるか知ったものではない。
少女はまだトカゲを信じ切れていなかった。それは彼女に宿った瞳が『嘘と誠の境界』を浮き彫りにする目であり、彼の中には『嘘の境界』に入っていたものがあったことを見抜いてしまっていたからだった。
だが助けてもらった時に何か意図があって手が差し伸べられたわけではなかったことも、はっきりと分かる。今現在もこうして隣におり、しかも一晩も時間があって手を出してこなかったのだから、悪人ではないと判断しても良いはず。何よりも『悪意の境界』が見られないのが、安心材料だった。
少女は長い葛藤の末に揺らぐ心を抑えつけると、目の前の男を信用することにした。
「この目は……ソロモの瞳って言うんです」
静かに少女の言葉を待っていたトカゲに、爆弾が投下された。
――ソロモ?
その名を耳にした瞬間に彼の脳裏に浮かんだのはあのソロモだった。
彼が死んだ時にこの世界に誘い、目の前の少女を救う時にも協力してくれた、あの奇妙な背恰好の人物。
トカゲはソロモの瞳とソロモに何らかの関連性があるものと考え、少女にソロモについて知っているのかを尋ねようとした。
「え!? ソロモって、あの――」
ところが本題に入るよりも前に、彼の心臓が猛烈な痛みを伴って軋んだ。何者かに握り潰されるような感覚、或いは心臓の鼓動が突然極端に遅くなったかのようだった。そのせいで言いかけた言葉が宙に沈んでいく。
「私が追われている理由もきっとこれだと思うんです。でもこの瞳に何があるのか、私も知らなくて」
ソロモとソロモの瞳。その二つを結び付けようとした時の心臓の痛み。どれも繋がりそうなのに、微妙にどこにも繋がらない。
トカゲは三つの事柄を結びつけるのに躍起になり、少女の言葉が聞こえなくなっていた。
一方で完全に動きが停止した彼を見て、少女は不安に駆られた。やはり伝えるべきではなかったのか、この男もまた自分を狙う何者かなのか、と。
少女は恐怖から自身を守るため、現実を確かめに移った。
「……トカゲさん? 大丈夫です、か……?」
少女は恐る恐る少年の顔を屈んで覗き込み、声を掛ける。程なくして、トカゲは現実に引き戻された。
「え? あ、あーえっと、ちょっと考え事してて。ごめんね」
少女は瞳を通して、今ほど放たれた言葉の真意を探る。嘘ではなかったようだったが、この瞳はあくまでも『境界』を測れるというだけで、『境界の中身』までは見抜くことが出来ない。
少女の不安は多少軽減されたとはいえ、完全には拭い切れないままだった。
トカゲは怯える顔をした少女を見て、話題を変えることにした。このまま瞳について話していては彼女の不安を増大させるだけだ、と考えたためである。
「そうだ。それよりもさ、君はどうする? ボクはこの後何も予定はないんだけど、君はどうなのか気になって」
「私は……逃げようと思います。また別の人が追ってくるでしょうから」
少女の返事はトカゲの予想通りだった。そして彼女の言葉も真実だろう。
裏社会で生きていた彼からしたら、昨晩のあの女は同類そのものであり、簡単に諦めてくれそうにはない。加えて、武力行使で手中に収めようとするのなら、昨日の女が単独犯とは考えにくい。
トカゲは裏社会の経験とは別に憐みの情もあってか、提案を持ち掛けようとした。
「じゃあ――」
ところがその時、騒音が彼の言葉に重なった。ドンドン、ドン、と部屋の扉を力任せに叩く音がする。
少女は音を聞くなり、反射的に身構えた。
「噂をすれば、か。隠れてて」
トカゲは少女に身を守るよう促すと、部屋の入口へと向かった。
歩きながら左手を一度振る。左手にはカードが握られ、戦闘態勢が整う。どうも昨夜の力は継続して使えるらしい。
「お相手さんも随分と暇みたいで」
皮肉を垂れながら、徐々に扉に近づく。
扉の外からは再び叩く音が鳴り響き、そこへ今回は怒鳴り声も上乗せされる。
「出てこい! さもなければ突撃する!」
「いきなり何の用? 迷惑なんだけど!?」
トカゲの声を受けた扉の奥では、何やら二人の男の話し声がする。トカゲは不機嫌になって声を大にした。
「っていうか、押し掛けたんならまずは名乗るのがマナーでしょうが」
「お? そうだな。これは失礼。では改めて、俺は保安協会のガッツ・ライン――」
「ガッツ!?」
聞き覚えのある名前に反応して扉を開けると、そこには見慣れた顔があった。
赤い鎧の大男と目が合い、向こうも驚いた表情を見せる。
「トカゲ!? 何故お前がこんなところに?」
「それはこっちのセリフだよ。どーゆー風の吹き回しなのさ? ……ま、何か用があるんでしょ? 取り敢えずは入りなよ」
トカゲは突然の客人を部屋に招き入れ、事情を伺うことにした。
今日の一言:ソロモの瞳は非常に鋭敏化された第六感のようなものです。直接視界で『境界』が見えるわけではありません。でないと情報過多で死んでしまうので。
本日はこの後10分おきに4話投稿します。次の投稿は16:40ですので、少々お待ちください。




