第8話:水面下の侵食は静かに
トカゲが少女を抱えて表へ行方を眩ませた後の路地裏には、気味の悪い静けさだけが残されていた。音一つ出さず血の痕だけを主張するこの道は、先ほどナニカが繰り広げられたことを告げている。
そこへ、一人の男が現れた。足音もなくただ忍び寄るように現れた彼は、あたかも死神である。死神は道に残されている鮮烈な黒い光の筋を辿って、道で倒れ込む鞭の女のもとへ。
「やあ、メギラナ。随分なやられようじゃないか」
メギラナと呼ばれた鞭の女は苦痛に顔を歪ませながら、薄っすらと瞼を持ち上げた。
「……エバリス」
メギラナの目には自分と同じタイミングで別の任務を遂行していた男が映る。ここにいるということは、彼は己に課された任務を完了し、余裕があるということだろう。
自分が足を引っ張っている。頭では理解しているが、認めたくない。自尊心を引っ掻き回されたメギラナは、再び目を閉じて不貞腐れた。
「予想外の事故があっただけ。本来ならあんな小娘一人くらい……手こずるわけないわ」
「それは遊び人の言うセリフには思えないな」
男が苦笑を漏らす。敗北して醜態を晒す女の隣に行き、腰を下げた。同僚が起き上がるのを手伝うために、エバリスは軽く手を差し出す。
「予想外の事故とは、この場にあるぽっと出の奴のことかい?」
「そうだけど。でも話より先に、まずは休ませなさいよ。貴方、医者でしょう」
「それに関しては正直、時間も遅いからお断りしたいのだけど」
メギラナが右手でエバリスの手を取り、立ち上がる。左手は先ほど交戦相手に付けられた、忌むべき傷口に当てられていた。
「ギャアギャア喚かない。ソロモの瞳がこの街に逃げ込んだと分かってる以上、さっさと次に移りたいのよ」
「君が遊ばなければ全て綺麗に収まった話だと思うが……まあいいだろう」
エバリスの口から、二度目の苦笑。メギラナは睨みながら歩き出す。二人が去った後の路地には血の痕だけが残された。
♢ ♢ ♢
しばらく経った頃、二人はトリメルカ市内の風俗街、通称:《夜の箱庭》を歩いていた。
数々の男女で溢れる街角は大層賑やか。だが、裏ではエバリスの支配下に置かれ、容易く崩れ去りそうな脆さを孕んでいることは、この場のほとんどの人間は理解していない。
「君が遊んでいた間に、ここは制圧しておいた。パッと見た感じでは分からないだろうがね。しばらくはここを拠点として、蓄えを作るとしよう」
「あら、用意周到ね。でも風俗街を拠点にしようだなんて、既婚者というのに随分と趣味が悪いじゃない」
「合理的な判断を下したまでだ。人を餌にして活動するというのなら、人が突然消えても騒ぎにならない場所が好ましいだろう?」
風俗街では時折、人間が失踪する。それは裏とコネがある業界故に目を付けられるパターンもあれば、純粋に惹かれ合った男女が駆け落ちをするパターンもある。
トカゲが連れ去った少女を拉致する、という目的を持って極秘裏に組織的な活動をしているエバリスらにとって、風俗街というのは格好の隠れ蓑。
エバリスらが談話しながら歩く通りの反対側には男たちが群れ、今晩の店を決めかねている。そんな中を突っ切ったエバリスは、隣に傷を負った女を立たせながら、ある一人の客引きの女性に声を掛けた。
「そこの君、いいかい?」
「あ、は、はい。な、何で、しょうか?」
この女性はエバリスが《夜の箱庭》を制圧した際の暴力を目の当たりにしている。アニムという神話の力を持つ彼に逆らおうものなら、その命がどうなるかなどは考えるまでもない。怯えた彼女の脚は生まれたての小鹿の如くプルプルと震え、視線も合わなかった。
その態度を見て、エバリスは苛立ちを覚える。わざとらしく睨みつけると、低く声を出した。
「受け答えがなってないな。早く案内するように」
「も、申し訳ありません! いま、今ご案内いたしますので!」
震える手が店の扉に伸び、開いた隙間からは華やかで妖艶な光が漏れ出す。女性は二人を店に招き入れた。
他の店員たちは来店者を察知すると代わる代わる挨拶をしようとしたが、その声は男の顔を見るなり萎みゆく。
「一体何をしたらここまで怖がられるわけ? 支部に目を付けられても困るんだから、出来る限り穏便に済ませなさいよ」
「口封じが出来ればその必要はない。情報さえ漏れなければそれで……だろう?」
店員と思わしき人々が開けた道を通って、二人は店の奥へと進んでいく。
やがて案内役を務めていた女性が口を開いた。
「ど、どうぞ。こちらです」
招かれたのは店の地下室。鬱蒼としており、まだ造られて日が浅いのか、仄かに土の匂いがする。部屋中を舐めるように観察しても内装らしい内装も少なく、質素。
だが、殺風景な部屋の中にも目を見張るものがある。それは人やクマを軽く収容可能な大きさをした、金属製の檻だった。部屋には幾つものそれが置かれており、中には堕魂が拘束されていた。
自由を奪われた堕魂は見慣れない女性を見つけると『ガガガガ』と唸り、威嚇、捕食の準備をする。それだけで女性の恐怖心は限界まで肥大化していた。
「ご苦労だった。下がれ」
エバリスが目もくれずに言い放つ。女性は反射で深々と頭を下げると、即座に踵を返した。
女性は安堵していた。ようやくこの男と堕魂の恐怖から解放されるのだ、と。だが、現実はそう甘くない。
――ガチャン。
部屋の中で湧き上がる悲鳴と、生命が食い荒らされる音が同時に響く。部屋の中に安置されていた檻の一つが開錠されたのだった。
鍵を開けたのは医者の男だったが、当の本人は女性の断末魔など気にも留めずに平然としている。
「あら、なんて惨いことするのかしら」
「君もやっていることだけで言えば、似たようなものだよ」
二人は女性が助けを乞うのを嘲笑うように、冷ややかな目で見届ける。その死体が跡形もなく喰い尽くされて、消え去る頃。
「退出時は足音を立てず、静かに立ち去るべきだ。あそこで礼儀を弁えていれば、見逃してやったものを」
エバリスは床に散らばった肉片を足で払うと、部屋の片隅にある棚から包帯を取り出し、メギラナのもとへ足を運んだ。
「さて、遅くなってしまったが、処置といこう」
メギラナを椅子に座らせ、男は深く刻み込まれた裂傷を観察する。傷口には通常では見ない――何かと混ざっているような、黒い霊力。
「これは厄介だな。治りが遅いかもしれない」
男は淡々と女の傷口に包帯を巻く。
一、二分して包帯を巻き終えるとエバリスは包帯を棚に戻し、そのまま地上へと繋がる通路へ向き直った。
「その傷ではしばらく安静にした方がいいだろう。私が敵を排除してくる。君は代わりに堕魂の世話を」
「言われなくてもそのつもりよ」
一つの影が闇に溶けていく。メギラナは男がいなくなってから一息つき、鞭を片手に持つと檻へと近づいていった。
「さて、可愛い子たち。これから大事に育ててあげるから、共にソロモの瞳を奪いましょう。全ては、あのお方のためにね」
支部という治安維持を兼ねた組織が取り仕切るトリメルカは一見平和に見えた。だが、それは儚い幻想。街は既に静かに、そして確実に、魔の手に堕ち始めていた。
【今日の一言】
実際のところ、メギラナは本気で戦えばトカゲを圧倒できるだけの実力があります。再戦の機会があればよいのですが、しばらく楽しみにしていてください。




