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月輪に巡るセレナーデ  作者: 笹サーモン
第一章 トリメルカ編
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第7話:パンから零れた涙

 部屋に入るなり、トカゲは丁寧に少女をベッドに下ろした。少女の重みと共に、緊張も肩から降りる。

 一見、外傷は見当たらない。顔色はあまり良くないが、呼吸は深く、穏やか。少女の命に別状はなさそうである。


 改めて部屋中を見渡す。

 ベッドが二台、机を挟んで向かい合わせの二つの椅子。部屋の入口付近には手洗い場と狭い脱衣所、そして小さな浴室。最低限の生活行動が出来そうなものは揃っている。以前生活していた日本でいうところの、ビジネスホテル程度だろうか。


 トカゲは少女の横に腰掛けると、静かに息を吐く。

 少女はクマも酷く、それでいて何日も風呂に入っていないのか汚れていた。だが、それを差し引いても分かる。とても端正な顔立ちをしていた。特筆すべきは、初めて見た時にも自然と目が離せなくなった、クセ一つないストレートの長い金髪。


「……お人形さんみたい、だね」


 少女の容姿に目を奪われる数秒間。

 すると唐突に場の雰囲気を乱すかの如く、腹の虫が鳴いた。戦闘と逃亡のダブルパンチの緊張が抜け、トカゲは空腹だったことを思い出す。


「そういえば、結局まだ何も食べてないや」


 呟きながらベッドから立ち上がり、寝ている少女に目をやる。


「ちょっと外行ってくるから、ここで待ってて」


 返事はない。けれど、(うな)されているような様子もない。

 トカゲは軽く頷くと、少女を起こさぬように静かに部屋を出た。



   ♢  ♢  ♢



 夜の街に入ると、先の戦闘の音が遠い記憶のように人々の平和な活気で街が色づいている。トカゲは和気あいあいとしている人々の隙間を縫うようにして進むと、広場の方へと歩を向けた。


 広場の近くまで来ると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。焼ける肉の音、スパイスの刺激的な香り。それから少しだけ酒とタバコの匂いも混ざっている。支部を離れた後に訪れた時と、全く同じ匂い。

 トカゲは欲に駆られるまま、(おの)ずと最寄りの店のドアノブに手をかけた。しかしドアを引こうとした瞬間に、少女の顔が浮かぶ。


 ――このまま一人で食べてもいいのか。あの子を置いてけぼりにしたまま、長時間放浪していいのか。


 結局のところトカゲは葛藤の末に、唇を噛み、誘惑を断ったように歩き出した。


 通りを進むと、小さなパン屋がまだ明かりを灯しているのが見えた。


 ここで軽食を買って部屋で食べれば少女から目を離さずに済む。それに、帰るまでにそんなに時間はかからないだろう。そう判断してドアを開ける。

 中に入ると鈴の音が軽快にチリンと鳴り、来訪者を告げた。ふわりと吹いた店内の風には、パンの甘いバターの香りが漂っている。


「いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞー」


 日も暮れているのに元気よく接待してくれる店員の女性。明るい声に迎えられ、少し肩の力が抜ける。


「ご注文が決まりましたらお知らせください」


 店員の人の背後にある商品棚の中には、一目で判別のつくクロワッサン、フランスパンのような長いパン、何やら丸っこいパンなどが列を成して並べられている。時間も時間であるため随所に空白が目立つが、まだ在庫は残っている。


 どれも焼き加減が程よく、空腹を刺激した。

 しかしトカゲが選んだのは焼き加減とは比較的縁の遠いものだった。


「うーん、じゃあサンドイッチを二つ」


 手をピースにして示す。その時、またも少女の顔が浮かんだ。


「あ……あと、変なこと伺うんですけど、寝起きに食べやすいのとか、あります?」


「寝起き、ですか」


 女性店員がトングを持ったのとは反対の手を顎に当てて考える。少しすると、答えが返って来た。


「クロワッサンでしたら、軽くていいと思いますよ」


「じゃあ、それも一つ追加で」


 店員がトングでパンを掴んでいく。その後を目で追っていると、ふと一つのパンが目に留まった。商品棚の端の端にあるパン。

 そのパンは上下に切り分けられ、間にクリームが挟まれていた。


 女性はトカゲの視線に気付くと、軽めに声を掛けた。


「気になります? これ、『ブリオッシュ』っていうんですよ」


「ブリオッシュ?」


「ええ、うちのは少し甘さが強めで、女性に人気なんですよ。でも珍しいですね。こんな時間まで残ってるなんてこと、滅多にないのに」


 ()()()()()。その言葉に小さく反応し、商品棚と睨み合うトカゲの脳内には少女の影がチラつく。


「いかがですか?」


「……それも、お願いします」


 会計を済ませ、パンが入った紙袋を受け取る。紙袋からは少しだけ匂いが漏れ、今すぐにでもかぶりつきたかった。そこをグッと堪えて軽く会釈をし、トカゲは店を出た。

 夜風がほんのり冷たく、天を見上げれば数多の星が健気に輝いている。



   ♢  ♢  ♢



 宿に戻ると、月明かりに照らされた影の形が変わっていた。人型の影がトカゲの足元まで伸びている。

 少女は目を覚ましていた。ベッドに腰掛け、窓の遠い奥をぼんやりと眺めている。直前の出来事を加味して見れば、軽い放心状態に見えなくもない。


「こんばんは。起きてたんだ」


 カーキの衣の少年は少女を長い間一人にさせたことを悪いと思いながら、優しく声を掛けた。

 しかしまだ刺激が強かったようである。少女が肩をびくりと震わせ、後ろを振り向く。彼女が怯えているのは、もはや言うまでもない。

 トカゲは少女の恐怖心を取り除くためにも自己紹介をした。


「ごめんね。ボクは――」


 名前が出る直前で、喉が詰まる。本来ならばこのような場面では本名を名乗るべきなのだろう。しかし捨てた名を口にすることには強い抵抗感があった。


 ――そうだ、もうあの世界じゃないんだ。なら、()()()()はもう要らない。


 割り切ったトカゲは、本名を告げることを避け、コードネームのまま話を進めることにした。


「ボクはトカゲ。君に何かしたり、追いかけたりしないから。……驚かせるつもりはなかったんだけど、ごめんね」


 コードネームとはいえ軽く自己紹介をすると、少女の目が変わった。それも物理的な意味も含んで。ほんの一瞬だが、トカゲの目には彼女の瞳の色が青から緑になったように映った。

 そのことに気を取られつつも、話題を振る。


「そうだ、これからボクは遅い夕ご飯にしようと思うんだけど、君も何か食べる?」


 警戒させぬよう、音を殺すように丁寧に紙袋を開ける。


「まあ、そうは言っても種類はそんなにないんだけど。……これなんてどう?」


 多少緊張の解けた少女に、紙袋から取り出したクロワッサンを見せる。

 しかし少女は一目見ただけで、特別興味を示さない。


「じゃあ、これは?」


 次に掴んだのはサンドイッチ。だが、これも反応は乏しい。ならば()()の出番。

 トカゲはとっておきを手にすると、少女の前に差し出した。


「これはどう?」


 すると今までは石像のように固まっていた少女の表情筋が、僅かに動きを見せた。


「ブリオッシュって言うんだって。甘くて人気なんだってさ。食べる?」


 少女は黙って小さく頷いた。少女はトカゲの手からブリオッシュを、恐る恐る両手で受け取った。


「それのことはボクも今日初めて知ったんだけどね。もし良ければ、食べた後に感想教えてよ」


 トカゲは自分のサンドイッチを取り出して、『いただきます』と言う。その声に釣られるように、少女がワンテンポ遅れて、小さく呟くように言った。


「……いただきます」


 トカゲは彼女の声を聞いて安心した。


 食べ進めていくうち、部屋の中にすすり泣く声が反響していく。

 トカゲは音を確認すると食べるのを止め、少女の方を向いた。


「……口に合わなかったら、無理して食べなくていいから。ね?」


 少女は一筋の雫を流しながら、首を横に振る。


「……こんな、しっかりしたもの……食べるの……久しぶりで……」


 トカゲは何も言わなかった。いや、何も言えなかった。気の利いた言葉の一言も出ず、嗚咽を漏らす少女の姿をただ見守ることしか出来ない。

 少女は静かに涙を拭いながら、最後まで食べ切った。



   ♢  ♢  ♢



 食後、トカゲは風呂を沸かした。自身が疲れていたことも理由の一つなのだが、それ以上に少女が長らく風呂に入れていないのが明白だったからである。この世界の生活水準や文化を知らずとも、それでも異常だと分かってしまうのだった。


「お風呂沸かしたけど、入る?」


 風呂場からベッドに向かって語り掛ける。しかしいくら待っても返事は帰ってこなかった。


 仕方なくトカゲが先に入浴し、出てくる。彼はもう一度問いかけようとベッドに向かった。

 ベッドの元に着くと、少女は窓の方角を向いたまま横になっていた。寝ていると考えるのが妥当だが、トカゲは一応是非を問う。


「どうする? お風呂」


 案の定、返答はない。


「……まあ、無理もないか」


 呟いたトカゲは少女が風邪をひかぬよう布団をかけると、再度浴室に赴き、浴槽の栓を抜いた。

 その後自分も後を追うようにすぐに布団に潜る。


 トカゲは激動の一日を振り返ると同時に翌日の活動方針を考え、深い眠りについた。

今日の一言:ブリオッシュは重要なアイテムになるから、今後再登場する可能性があるかも。いつかは未定ですが。


次の投稿は18:20で、本日最終となります。

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