第62話:金の動きは噓を吐かない
インクとカビの匂いが充満する資料室にシルバとアヤメが入ってから数時間が経つ。彼女らが入室してからというもの、部屋中には常にどちらかが紙を捲る音が絶え間なく響いていた。
部屋の隅。『漁師』か『半堕種』のいずれかに属する者の帳簿が固めて置かれている。漁師は確かに多いが、それでも三桁は超えない。半堕種は純種との衝突を避けるために独自の生存圏を確立していることが多いため、オルグリスのような都市部には大して定住していない。
棚を漁る時間に対して収穫は少ないため、純粋に疲労が溜まる。部屋をぐるりと見渡せば、未だ手付かずの棚が腐るほど目に入り、精神的にも堪える。
「……チッ」
単純作業に飽きたシルバは首をゴキゴキと鳴らしながら天を仰いだ。目を閉じ、大きく息を吐く。
その時に彼女の脳裏に浮かんでいたのは何も事件の関係者だけではない。それは彼女の本来の目的である、妹の顔だった。街の住民の帳簿を調べたら妹の名が出てくるかもしれない。そんな浅はかで淡い期待を抱いていたシルバだったが、ティアメルタ姓を冠する名はこれまで一切見つからなかった。
やがて目を開き、シルバはアヤメ側の方を向く。
アヤメは言葉一つ発さず、ただ黙々と帳簿と睨み合っている。朝から引き続き、先日野外での残滓調査をした時のように張っているような様子はない。
――それは人目がねぇからか、それとも――。
アヤメの首もと、ぶら下げられた白い貝殻。それを渡したのはトカゲだと言う。御守りなどとほざき、口説いたのだとか。しかも受け取った本人が、それを大切にし、心の拠り所にしている。
「……バカもバカなりに考えてんだな」
負けたような気がする。普段から冗談ばかり言って、口を開けば五月蠅くて生意気なクソガキに。張り合っていたわけではないが、シルバはどこか歯痒さを噛みしめていた。
「……ん? 何のこと?」
「あー、何でもねぇ何でもねぇ。あたしの独り言だ。適当に聞き流しとけ」
「ふーん。そっか」
軽く答えたアヤメはすぐに視線を手元に戻す。棚に手を伸ばしては帳簿を取り、帳簿を開いては棚に戻す。黙って延々、その繰り返し。
凄まじい集中力だ、とシルバが感心し、自身も職務に戻ろうとした時だった。
「ねえ、シルバちゃんの方は何か気になるの見つかった?」
「見つかるって何だ? 今の作業はただの仕分けだろ。特別なもんが見つかるわけじゃねぇと思うが」
「うーん、だよね。分かった。ありがとう」
眉をひそめたまま、アヤメが会話を切り上げる。何かを思い詰めるような表情は変わらない。気になったシルバは手にしていた帳簿を棚に差し込んだ後に、アヤメのもとへ歩み寄った。アヤメの手元を覗き込み、軽く溜息を吐く。
「どうしたって? 何がそんなに気になる?」
「あ……ありがとう。これなんだけど」
アヤメが帳簿に指を落とす。彼女の指が示す先。一人の半堕種の女性が支部や国に納めた税の額が記載されている。平均月収が十九万ルクであるのに対し、納税額は五万強。シルバにとっては何の変哲もない、よく見る普遍的な数字の集合。
「これの何が気になるって?」
「なんか、この人だけじゃないんだけど、ハンダシュ? の人だけ税金が高くないかなって思って。ほら」
それまで握っていた帳簿を置き、アヤメは二つ、別の帳簿を手に取る。
一冊目は半堕種の個人情報。月収は二十二万弱、納税額は七万と少し。
二冊目は純種の個人情報。月収は三十万弱、納税額は一万強。
「あー、そういうことか……」
薄っぺらい紙に記された情報は、世界の『種族』に対する価値感が滲んでいる。純種と半堕種とでは平均月収、税率、納税額、どれをとっても大きな差がある。アヤメはそれを知らずに生きてきて、今日この場で初めて現実を目の当たりにした。シルバはどのように説明するべきかと、腕を組んで考えた。
「そうだな……作業を始める前にも言ったと思うが、半堕種ってのは、まあ……言っちまえば半分は堕魂だろ? 生まれた時から半分死んでんだよ。死んでるヤツがもっかい死ぬ、ってのは難しい話だ。だから寿命は長ぇし、滅多なことじゃ死にもしねぇ」
「それだとどうなるの?」
「あー。それはな……」
アヤメの穢れを知らない視線が、シルバの瞳に突き刺さる。ここまで純粋に生きてきた彼女に、醜い世界の現実を教えてもいいものか。
答えは否である。言えない。死なないから多少強引に搾取しても問題ない、などとは口が裂けても言えない。日頃から彼らを危険視し、『穢人』と蔑称で呼ぶシルバであったが、今回ばかりは躊躇が生まれる。
数秒黙った後、シルバは静かに肩を落とした。
「まあ、ネンコウジョレツ制だな」
嘘。どこまでも見え透いた、特大の嘘。苦渋の決断の末に彼女が選んだのは、アヤメには何も教えない、という選択だった。それがソロモの瞳を持つアヤメからしたら、すぐに見抜けてしまうものだとも知らずに。
「ほら、ここを見てみろ」
シルバは帳簿の年齢の欄を指す。半堕種側は七百二十歳。対して、純種は四十五歳。
「歳にだいぶ差があるだろ? 年食った野郎どもが社会に居座たって生産性がねぇ。だから、年老いた連中どもは若い連中を支えるために、沢山金払えってこった」
アヤメは何も言わない。ただシルバの瞳の奥を覗いたまま、じっと静止している。
孔雀が羽を広げたような模様のアヤメの瞳で見つめられては、どこかそこはかとない恐怖と圧を感じる。神話の代物と呼ばれる所以、ここにあり。
「……そうなんだ……」
小さな声で答えたアヤメが身を引いていく。シルバは悪いことをした、と罪悪感に苛まれながらその姿を見ていた。納得しきっていないアヤメが次の帳簿を取ったのを見送って、シルバも己の持ち場に戻る。
♢ ♢ ♢
数時間後。暮れなずむ空で、街が橙に染まる頃。二人は未だに仕分けの作業をしていた。棚の四分の三の分別が終わった程度の進捗具合である。それまで特に異常のなかった作業の途中で、突然新たな風が吹いた。
一つの帳簿を手の平に乗せたまま、アヤメが数字と睨み合う。そこに書かれていたのは、一人の半堕種の男の情報。月収は――。
「え、七十万……?」
明らかに多い。これまで見てきた半堕種の収入と比較して、明確な外れ値である。アヤメはバッと勢いよく顔を上げると、静寂に包まれた部屋の中で声を大にした。
「し、シルバちゃん!」
「あ? んだ、いきなり?」
少し離れたところから、気の抜けた声がする。アヤメは声の方角へ、帳簿を持って駆け足で移動していった。通路に出たところでシルバと対面し、アヤメは大急ぎで帳簿を突きつける。
「アンタさぁ、いきなり騒ぐなよ」
「ごめん。でも、これ見て」
「はぁ? 何だってそんな……」
開かれた帳簿をシルバが覗く。彼女の目は数秒も経たぬうちに、大きく見開かれていった。納税額が四十万を超えている、その数字の異常性に気付いたようである。
「――は? コイツだけ、何で……」
『貸せ』と言ってアヤメの手から帳簿を奪い取り、シルバが隅から隅まで隈なく目を滑らせる。見間違いを疑って種族の欄を見るも、やはり『半堕種』の文字。職業はその実、歴百年を超える――漁師。
「シルバちゃん、この人って……」
「ああ。あたしもそうだと思う。コイツ、コイツは――」
半堕種、漁師、発現者。宿すアニムは《ウォータ》、水を操る能力。
水の繋がりで潮の流れを操れるなら、魚の誘導も出来るだろうか。だとしたら漁師としては儲かるか。堕魂を操れる性質。一人だけ異常値を示す金の動き。百年余りの経験から成る、海と港の理解者。波、もとい水を掻き分けて侵攻してきた、あの日の堕魂たち。おかしい。おかしい。何かがおかしい。
様々な憶測と事実が飛び交う混乱の渦の中、シルバの脳が弾き出した答えは一つ。
――例の事件の犯人は、コイツだ。
【今日の一言】
半堕種の年齢について触れたので、こちらの枠で少し補足を。半堕種にもハーフ、クォーターのように『堕魂の血の濃さ』という概念が存在します。そのため、より堕魂の血が濃い者ほど『死に近い』こととなり、寿命が長くなります。半堕種の寿命は純種の十~五十倍とかなり振れ幅が大きいです。




