第58話:依存は根深く、呪いの如く
夕食を外で済ませたトカゲら一行は、宿へ来ていた。
一段上るごとにギシギシと軋む階段を上った先で、ガッツ、ハルヴァン、シルバが奥へ奥へと進んでいく。彼ら三人が自室へ入る一方で、トカゲとアヤメはまだ廊下に残っていた。向かい合わせの扉の前に立ち、見合う。トカゲが軽い調子で言った。
「じゃあ今日はここでお別れだけど、ちゃんと寝られる?」
トカゲが『心配』の面を被った甘い誘惑を持ちかける。だが、それが自分にとっては拒まなければならないものであることを、アヤメは認識していた。両手で壁を作り、やんわりと断る。
「うん。大丈夫。もう一人部屋借りちゃったし」
「そっか。ならここでおやすみだね。また明日、可愛いお嬢さん」
ひらひらと手を振ったトカゲがドアを開ける。何も気にしていなさそうな、能天気な彼の立振る舞いが羨ましい。ツキン、と胸の奥で刺さるような違和感を覚えるが、気にしないでアヤメもドアに手を伸ばす。
「また明日。おやすみ」
ぎこちない笑顔で夜の挨拶。トカゲがどんな顔をしていたかなど確認もせずに、アヤメは部屋の扉を閉めた。焦燥に呑まれた心臓が騒がしい。
二人で別れて寝よう。それは昼間に、泣いてまでアヤメから頼んだことである。だから、どれだけ苦しかろうとも今更撤回など出来ない。
扉に寄りかかると、勝手に全身の力が抜けていく。ドアに背を向けて体育座りをして、アヤメは目を閉じた。深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。自身を落ち着かせてから、言い聞かせるように独り言を呟く。
「大丈夫。きっと出来るから」
決意を再確認し、部屋の奥へ歩き出す。
狭い玄関を抜けると、真っ先に視界に入ったのはベッドだった。一人用のものが一台。普段なら二台あるはずが、今夜は違う。広い部屋は、トカゲと出会った日から見たことがない景色だった。
アヤメは浅くベッドに腰掛けた。だが、やることがない。トカゲがいればいつでもどこでも、所構わず冗談や軽口、ナンパ発言が飛んでくるため、『刺激が欲しい』などと思うことはなかった。
暇。退屈。そんな単語ばかりが頭に浮かんでくる。気を紛らわすため誰かに話し掛けようと右を見るが、目線の先には窓とそこから差す月光のみ。人の気配はない。
「あ……そうだった……」
口を突いて出ただけ。だが、頭の片隅にはずっとトカゲが居座っている。
このままではいけない。そう思った彼女は立ち上がると、風呂場に向かった。
♢ ♢ ♢
三十分ほど経って、アヤメは風呂場から出た。『アヤメちゃんの髪ってサラサラふわふわで可愛いよねー』とトカゲに褒められた金髪をタオルで拭き終え、部屋の奥に行く。アヤメは何の気なしに言った。
「トカゲさん、お風呂どうぞ」
しかし返事がない。あるはずもない。トカゲとは部屋を分けたのだから。
アヤメは気が付けばトカゲのことを考えている。それは慣れであり、同時に、彼女にかかった呪いのようなものでもあった。
「……だから、今日は私一人なんだってば」
誰に向けるでもなく、小声で漏らす。溜息を吐いた彼女は、そのままベッドに背を預けた。
真上を向けば、綺麗な直方体に切り分けられた灰色の石が見える。右を向けば、やはり窓と月だけ。
アヤメの風呂上り。普段ならば風呂場からトカゲの鼻歌が聞こえてくることもある。それを聞きながらぼんやりと過ごし、軽く眠気が出てきた頃にトカゲから話し掛けられる。それが彼女の日常だった。
だが今日はそれもない。鼻歌が聞こえず、暇を持て余した彼女は、天井を見上げた。倒れ込んだまま腕だけ伸ばし、視界を埋め尽くす石を数える。しかし四十を過ぎた辺りで飽きてしまい、アヤメは数えることを止めた。
時間の流れが遅い。一人では何をしても物足りない。時計の音だけが、やけに大きく不気味に響いた。
アヤメは部屋に明かりを灯している蝋燭も消さないまま、掛け布団に潜った。不安を和らげるために無意識のうちに布団を掴んでいることなど、彼女は自覚していない。静けさに包まれた部屋の中で、少女はそっと目を閉じた。
――コツ、コツ。
部屋の外、扉の奥から聞こえてくる誰かの足音。
――カッ、コッ、カッ、コッ。
時計の振り子が揺れる音。
アヤメはいつまで経っても、眠りに付けなかった。音で気が散って仕方がない。寝返りを打って寝やすい姿勢を探すも、無駄な抵抗である。
どれだけ時間が経っただろう。アヤメは体を起こし、時計を見た。
「え……」
時計の針は十分しか動いていない。アヤメは不思議に思いながらも、もう一度寝台に身を預けた。
だが、いつまで経っても眠れない。廊下で鳴っている足音。蝋燭の灯の僅かな揺らぎ。それらばかりに意識を奪われ、アヤメは寝付けなかった。
眠れないと頭を抱えるうち、やがて普段ならば『おやすみ』を言う時間になる。トカゲからの『おやすみ』が恋しくなったなど、口が裂けても言えない。
そして一度トカゲのことを考えれば、思考は全て彼で染まっていく。アヤメは特に意識もせず、小言を漏らした。
「トカゲさん、何してるんだろう? ……あ」
自分の声で失態に気付く。アヤメは己に失望して、顔を隠した。
そのまま時間だけが進んでいく。けれども一向に眠くならない。眠いと思えない。
時計を見れば、既に短針は十一を回っている。
早く寝ないと明日も倒れてしまうかもしれない。倒れてしまったら、またみんなに迷惑をかけてしまうかもしれない。
焦って色々考えるほど、眠れなくなっていく。早く寝なければ。強迫観念の末に、アヤメはベッドを抜け出した。
――少しだけ。少しだけだから。少しでも話せたら、ちゃんと寝るから。
依存とは簡単には拭えぬものである。アヤメは自分に言い訳をしながら、トカゲを求めて部屋を出た。
♢ ♢ ♢
トカゲの部屋の前。廊下。定期的に宿の管理人の男性が歩いているくらいで、他の人の気配はない。
アヤメは正面の扉に手を伸ばした。しかし一瞬だけ顔を覗かせた理性が、逡巡を巡らせる。
――トカゲさんはもう寝てるかな? 寝てたら起こすのは申し訳ないよね。
中途半端に右手だけが宙に浮く。だが一度瞬きをした時には、アヤメはドアをノックしていた。
――もし起きてたら少しだけ話したい。寝てたら素直に帰るだけだから。
醜い欲を抱え、扉の前で反応を待つ。出てきてほしいという願望と、出てきてほしくないという願望がせめぎあっていた。
数秒後。結果。
――ガチャ。
扉が開き、クリーム色の頭が見えた。
会えて嬉しい。結局会ってしまった。相反する二つの感情で板挟みになったアヤメは口を利けなかった。
扉を開けた先で無言で立ち尽くしている少女を見て、トカゲは目をパチクリさせた。
「アヤメちゃんじゃん。おはよ。随分早起きしたね」
「……いや、まあ……うん。早起き、っていうか……」
罪悪感が次第に強くなってきてか、アヤメの言葉がぎこちない。しかし相手はトカゲである。今この世で最もアヤメを知っている男と言っても過言ではない。そんな彼がアヤメの言いたいことを見抜けないはずもなかった。
「あー、もしかして寂しくなっちゃった?」
認めたくはない。けれども認めざるを得ない。アヤメは沈黙を貫いたまま、小さく頷いた。
「そっかー。いやー、照れちゃうね。こんなに可愛い女の子に、こんなに溺愛されちゃうなんてさ」
部屋から完全に出てきたトカゲが軽口を叩く。文面通りに受け取れば『黙れ』と言いたくなる内容だが、アヤメにとっては安心する文言だった。
顔が緩んだアヤメに視線を合わせるため、トカゲが少し前傾姿勢になる。
「それで、どうしよっか? ちょっとだけ部屋来る?」
アヤメは横に首を振った。
「……ダメ。それは、多分一緒に寝ちゃうから」
「あら、そう。じゃあ……どーしよっか?」
トカゲが腕を組む。二人の間、無音。しかしそれだけでも、同じ場所に居られたらアヤメはそれで満足である。無言でさえ心地よかった。反面、トカゲを頼ってしまったことに落ち込むアヤメがいるのも事実だが。
思考をトカゲに預けていると、不意に彼が右手の人指し指を立てた。
「あ! そうだ! じゃあさ、ちょっとだけ悪いことでもする?」
トカゲが冗談めかして言う『悪いこと』は大体見当がつく。アヤメは模範解答を突き付けた。
「悪いこと?」
「あちゃー、バレちゃったか。やるね」
トカゲがニヤニヤする。
「でもさ、一回やってみたかったんだよね。アヤメちゃんと二人っきりで、夜にお散歩するの。オルグリスもまだまだ知らない土地だし、ネタ話でもしながら、一回デートしてみるのはどう?」
取って付けたように『外の風浴びたら寝られるかもしれないし』と言って、トカゲが黙る。
夜の悪いことだの、デートだの。トカゲの口は誤解を生むようなことしか言わない。でも不思議と嫌な気はしない。アヤメは呆れたように返事をした。
「まあ、トカゲさんとなら」
「よし! じゃあ決まりね」
喜んだようにトカゲが手を差し出す。それが本心なのか、はたまた仮面なのかは分からない。だがトカゲならば悪いことはしてこないはず。そう信用して、アヤメも手を差し出した。
「デートプランはボクに任せてよ。このボクが完璧にエスコートしてあげるからさ、アヤメちゃんはついてきて」
ニコニコしているトカゲを見て、胸が苦しい。頼らないと決めたのに、一人で寝ると決めたのに、結局助けを乞うてしまった。それだけでアヤメの自己嫌悪は臨界点に達していた。
――やっぱり、私はずっとトカゲさんに頼り続けるのかな?
嬉しいとも悲しいとも割り切れない。複雑な思いを整理出来ぬまま、アヤメはトカゲに手を引かれていった。――向かう先がどこになるのか、いつまでかかるのかといった疑問すらトカゲに預けて。
【今日の一言】
これまでのトカゲとアヤメですが、風呂の順番はいつもアヤメが先でした。アヤメがいつ寝落ちしてもいいように、とトカゲが提案した末に習慣と化したものです。




