第56話:自分の足で立つために
アヤメが過度な緊張の果てに失神し、約一時間後。仰向けに寝かせられていた彼女は、ゆっくりと目を覚ました。
灰色の石で建てられた天井。その縁をなぞるように付けられた木の柱。端の方に映る、ゆらゆら揺らめく蝋燭の灯。見慣れたカーキ色。
アヤメはカーキ色の正体を確かめるため、顔だけ右に向けた。その正体は勿論、彼女がずっと求めていたもの。体を起こし、完全には呂律の回らない舌で、ベッドのすぐ横の椅子に座っている男の名を呼ぶ。
「……とかげさん?」
彼女の声で、クリーム色の髪の少年がピクリと動いた。トカゲが振り返る。二人で目が合うと、彼は一瞬固まった後に、普段通りの笑顔になった。
「おはよーお姫様。結構お疲れだったみたいだけど、気分はいかが?」
口調も丁寧。アヤメが起き上がるのを支える手も、必要最低限の力しか篭っておらず、無理に動かすような真似もしない。
――ああ、やっぱりこの人は、ここは怖くない。
トカゲの姿を目にし、直前まで死んでいたアヤメの心が息を吹き返した。嗚咽を飲み込み、堪えようとする。だがそれは無駄な足掻きに過ぎない。今にも胸が爆発しそうだったアヤメは、理性も思考も体裁も恥も。何もかも捨て去って、トカゲの胸に顔を押し付けた。
トカゲは一切言葉を発さなかった。黙ったまま、アヤメの頭を優しく押さえる。ポンポンと背を叩く。それは、アヤメにとって最上級の鎮痛剤。
胸の奥でざわめいていたものが、溶けるように消えていく。アヤメは本能に身を委ね、本能のままに『安堵』を貪った。その姿はまるで、親に泣きついて甘える幼子のよう。
「……ごめん。ありがとう」
極限の疲弊から回復したばかりの頭では、文章を紡ぐことさえままならない。数秒トカゲを堪能した後、単語を並べただけの会話を経て、アヤメは離れた。
「落ち着いた?」
「……うん」
「ならよし。今日は無理させちゃったね。でも、おかげでボクもちょっとは強くなれた気がするし、ありがと」
アヤメの頭を撫で、トカゲが席を立つ。少女の視界から消える前に、トカゲは早めの保険をかける。
「ちょっとルバ姉呼んでくるね。ルバ姉さ、アヤメちゃんのこと、ここまで運んでくれたんだ。結構気に掛けてくれてたみたいだし、すこーしだけ顔見せてあげてよ」
「分かった」
トカゲが部屋から消える。数秒と満たない、それだけの僅かな空白。アヤメの脳内はまたもや騒がしくなった。少しでも平静を保つため、自分の腕を掴む。
アヤメがトカゲの辿った跡を眺めていると、すぐに足音が二つ耳に入って来た。この短時間で部屋に入ってくるあたり、シルバは部屋の前でずっと待機していたのだろう。
「と、いうことでー。ゲストのごとーじょー!」
分かりやすく大声を出し、部屋の左手からトカゲが見えてくる。見え透いた軽薄さは、いつもと同じ彼の定番の気遣い形式。それに対して毒を吐く銀髪も、出会った瞬間から変わらない。
「おいバカ。病人の前で大声出すな」
「そー言わないでよー。ルバ姉ってばずっとおっかない顔してんだし、これくらいやんないと怖いんだって」
「あ゛? レディーに向かって何て口聞きやがる。絞められたいのかテメェこの野郎?」
騒々しい喧嘩をしながら、ふてぶてしい顔のシルバが参入。首を傾げ、ゴキゴキ鳴らす。小柄な体格ながら、上から睨みつける。威圧的な態度を取ったシルバは、淡々と尋ねた。
「もう元気か?」
「……多分」
「あっそ」
興味がないのかと勘繰りたくなるほど、必要最小限のやり取り。無駄話は一切ない。
「じゃあ、あたしは帰る。しっかり休んどけ」
アヤメが返答するなり、シルバが反対を向く。彼女の体が百八十度回転した時、アヤメは言葉を詰まらせた。
シルバの左腕。グルグルに巻かれた包帯。彼女は骨折した人間のような、仰々しい恰好をしていた。その原因は言わずもがな、アヤメの失神である。
強烈な罪悪感に襲われたアヤメは、痛々しい彼女の腕を指差した。
「ねえ、シルバちゃん」
「……あ?」
変な間を置き、シルバが反応する。違和感のある一拍は、傷を見たアヤメが自分を責めるのを防ぐため見せまいとしていた配慮から来るものであった。それが却ってアヤメの自責の念を加速させていく。
「それって……私のせい?」
「違う」
即答だった。大袈裟なまでに首を横に振る彼女の仕草は『これは嘘だ』と自白しているも同然。ソロモの瞳に頼るまでもなく、アヤメは納得しなかった。
「でも、私を支えて……」
「うるせぇな。違うって言ってんだよ。聞こえねぇのかこんチクショー?」
「……」
「時期が悪かっただけだ。そもそもアンタをそこのバカから引き剝がそうとしたのはあたしとハルヴァンだし、この傷だって根本的な原因は昨日の無茶だ」
シルバは面倒くさそうに頭を掻いた。
「だから、別にアンタのせいとかじゃねぇよ。気にすんな」
「……」
「こんだけ喋れるんだから、それなりに回復してんだろ。そんだけで十分だっつーの」
シルバがアヤメの顔になど目もくれず、歩いていく。去り際、彼女は一つ命令した。
「トカゲ。あたしは男どものとこに行って、アヤメが無事だったことだけ伝えて来る。ソイツ看とけ」
「はいはーい」
シルバが去り、部屋が静かになる。トカゲと二人きりで取り残されたアヤメだったが、彼女はシルバの左腕が目に焼きついて離れなかった。同時に朝から今に至るまで、今日一日を振り返る。
トカゲさんから離れるのを怖がった。トカゲさんと約束をして、外に出た。足手まといになりたくなくて、必死で堪えた。でも結局、耐え切れなかった。シルバちゃんが怪我をした。トカゲさんも特訓を中断せざるを得なくなった。挙句、二人には不要な気遣いさえさせてしまった。
そもそもの話。トカゲさんの嘘も元はと言えば、自分を安心させるためのものだったかもしれない。自分が不安になった時、怖がった時、トカゲさんはいつだって馬鹿な振りをして場を取り繕っていた。
――何が、トカゲさんに抱きしめられて嬉しいだなんて。どの口が言ってるの?
――私が、こんなに弱くなかったら。
――私が、トカゲさんに頼らずに、自分の足で歩けたら。
考えれば考えるほど、アヤメは己の未熟さ、惨めさを痛感させられる。気付けば彼女は、手の平に爪痕が残るくらい、固く拳を握りしめていた。
黙って震えるアヤメを見たトカゲは、静かに尋ねた。
「……アヤメちゃん? 大丈夫? 具合悪い?」
「ううん」
アヤメが首を横に振る。俯いたまま、問いかけた。
「私、一人じゃダメなのかな?」
「どーしたの急に? 別にルバ姉は怪我なんか気にしてなかったし、そんなに気に病むことないって」
またもやトカゲが庇う素振りを見せる。しかしアヤメは肩に伸びて来るトカゲの手を払いのけ、とうとう声を大にした。平常心を保てなくなり、敬語が外れる。
「そうじゃないの!」
「え?」
「今日、私はトカゲさんがいなくて、動けなかった」
アヤメの手は力み過ぎて震えている。手だけではない。肩も、腕も、瞳も。全身が震えていた。
「それで、シルバちゃんにも、みんなにも迷惑かけて」
思考が整理される暇もない。アヤメの口からは次から次へと、呪詛のように言葉が溢れ出ていた。
「みんな、頑張ってたのに。私だけが、お荷物で……!」
悔しい。たったそれだけの感情がアヤメを満たしていた。
「ごめん。本当はとっくに分かってたし、もっと早く動かないとダメだったのに」
震える体をいなすように、スカートを力一杯握りしめる。スカートの上に、一つの雫が落ちた。
「私、自分で立てるようにならないとだよね。ずっとトカゲさんに甘えてばっかりで、一人じゃ何も出来ないんだから」
トカゲは息を詰まらせたまま、何も言わなかった。いや、何も言えなかった。トカゲも薄々気付いていながら、自分の存在意義のために黙っていたから。
アヤメの叫びが途切れ、部屋が再び静寂に包まれる。様々な感情が混ざり合う中で、アヤメはどうしたら自立出来るようになるかを考えていた。
やがて蝋燭の灯がひとりでに消える。すると、アヤメは小さく息を吐いた。
「ねえ、トカゲさん。そろそろ寝る部屋、分けない? 一人で過ごす練習がしたい」
「え?」
突然の提案にトカゲが混乱している。その様を見たアヤメも不安になる。しかし首を横に振り、胸の内で渦巻く『恐怖』という名の邪念を払った。
――ここでやらなかったら、私は一生、自分の足で立てなくなるんだから。
迷ったら死ぬ。だから迷うな。そう言いたげな真剣な目で、アヤメはトカゲを真っすぐ見つめた。芯のある瞳で貫かれたトカゲが、念のための確認。
「……アヤメちゃん、寝られるの? 大丈夫?」
――分からない。でもやるしかない。
覚悟を決める。アヤメは力強く頷いた。
「うん。大丈夫。やってみる」
唇を噛んでいる。瞼も腫れている。握り拳も、依然力んで赤くなったまま。けれども、そんな不格好な様でも、アヤメは顔を上げた。トカゲは目を閉じた。
「分かった。じゃあ、部屋分けよっか。分かってると思うけど、無理は駄目だよ?」
「うん。ありがとう」
アヤメが穏やかな顔になる。トカゲは彼女を応援するため、最後に一つ軽めの話を振った。
「よし。ところでさー、アヤメちゃん。お腹空いてない? 倒れちゃってたし、結構消耗はしてると思うんだよね。ボクもまだ食べてないしさ、みんな呼んで、ご飯食べに行こ」
アヤメが小さく頷く。ベッドから抜け出した彼女は、トカゲの背を追いかけ歩き出した。
【今日の一言】
お気付きの読者様もいらっしゃるかと思いますが、アヤメは感情が前に出てくると敬語が外れているんですよね。多分37話辺りからかな? まだ気付いてなかったよ、という方は是非ともそこから読み返してみてください。




