第5話 鎖の美風
同時刻。
ウェルムの古代森には、ひと際強力な力を持つ精霊がいる。
この森は精霊が生まれる地でもあり、濃密な神気が霧と交わっていた。
このように精霊が密に生息している地域には、聖獣と呼ばれる、精霊の上位種が聖霊を取りまとめている。
小川のせせらぎに、聖鹿が水を跳ねる。
瞳は湖のような深い青い色をしていて、穏やかな眼差しがこちらを全て見通しているかのようだ。
艶のある毛並みが流れている大きな体躯は、4本の力強い蹄で支えている。
全能神による神宣はこの聖鹿にも届いており、世界中の均衡が崩れてしまった。
膨れ上がる地面や地震によって、樹木が倒壊しこの森も世界中と同じく被害を受けている。
しかし、音の女神の神殿がある大霊樹の周りは、不気味なほど異常が起こっていなかった。
女神の加護か、あるいは大霊樹の神域か。
聖鹿は、神殿のある方向に生き物たちを非難するよう、指揮系統下にある鳥の精霊を遣わせていた。
この森の長である聖鹿は、動物たちの避難の全体指揮を取っているのである。
偵察に遣わしていた鳥が戻ってくると、嘴を聖鹿にこすりつける。
しばらくそうしていたが情報共有が終わると、小鳥は飛び立っていった。
受けた情報を整理し終わり、聖鹿は歩き始める。
「これで助けられた者は最後ですね」
女神ピューニャの神殿がある西側とは対照的に東側は壊滅状態だ。
倒壊した木々から煙が立ち込め、そこから火の手が上がっている。
じきにここも火に包まれてしまうであろう。
最終誘導の確認を終え、聖鹿も神殿の方へ向かい出した。
精獣同士は気配や意志の伝達が際限なく共有できたのに、神の宣告後は何も出来なくなっていた。
靄でもかかったような感覚だ。異常事態のなにものでもない。
聖鹿は、避難誘導を行った後、各地に散らばる聖獣の動向を察知しようと試みた。
音信不通。何らかの感覚すら掴めない。
万が一にも聖獣である彼らならきっと自身と同じような行動を取っていることだろう。
次に、聖鹿は思考を巡らせる。
聖獣はそれぞれの神に仕えている。
聖鹿の主は大気を司る女神レイシャルだ。
レイシャルがこのウェルムの古代森に訪れている気配を感じ、緊急避難を終えたらレイシャルの元へ駆けようと考えた。
やがてこの星の母たる存在である大霊樹までたどり着く。
大霊樹を見上げると、葉がサラサラと落ちてきていた。
それも大量に。
やがて葉は地に落ち、周りの草花をぶわりと成長させ、そして一緒に枯れて腐りおちる。
これまでに見たことがない光景だ。
周りの木々もいつもより生気がない。
(なんだこれは)
否。生気がないよりも状況が悪い。
根が熟したように柔らかく、枝は軽い風が吹いただけでぽきりと折れてしまいそうになっていた。
「大霊樹が枯れようとしている……!」
異常事態なのはこの森だけでなく、この星の寿命そのものだった。
星から供給される精霊の力が、いつものように脈動を感じないことに気づいた。
「これはいったい……。何が起こっているのでしょうか」
未曾有の天災に世界中から悲鳴が上がっている。
その悲鳴が風に乗って、このウェルムの森の大霊樹に集まっていた。
ふと逃げ遅れていた野兎の家族が足元に寄る。
森の異変は生き物たちの心にも伝染していた。
聖鹿は口元を兎たちに近づけて、軽く触れる。
精霊でない生命を持つ動物ですら、この星の終末を感じ取っている。聖鹿はそう感じた。
精霊である聖鹿もまた、この野兎のようにただ何かから逃げることしかできない。
「大丈夫。何も心配することなどありません。必ず、必ず神々が我々を救ってくださることでしょう」
優しい目をした兎はそれでもブルブルと震えて、聖鹿のそばでうずくまる。
「大丈夫、大丈夫です」
言い聞かせるように、聖鹿は唱えていた。
避難先にいた森の生物たちが1つの場所を目指して歩き出す。
その先には神の気配がする。
聖鹿もまた、生き物にならって小道をゆく。




