第3話 静寂な跫音
大気を司る女神レイシャルが夜風と共に地表に降り立つ。
そこは神々が全能神によって造られた地。ウェルムの古代森。
ここでは、神聖な精霊たちが息をするように生まれる森でもある。
星の循環は、この森の脈動とともにあった。
銀色に輝く大雉の姿のレイシャルは、森の中を低空飛行していた。
翼にかかる木々の枝は不思議なことに風が通り抜けただけのようだ。
音を司る女神ピューニャの個人所有の神殿は、ウェルムの古代森にある大木の根元の虚の中。
ピューニャは1番樹齢の長い大木の根元の虚の中に、勝手に住みついていた。
ウェルムの古代森には近くに住む人間から"決して近寄ってはならない神域"と太古の昔から言い伝えられている。
人間による伝文だけでなく、精霊が生まれている環境保護のため、その太古の森の領域は動植物たちから守られ続けていた。
方角を失った旅人以外近寄るものはない。
濃い霧と低い気温。
全能神と共に何度も訪れた森だ。大気の女神レイシャルは導かれるように、するすると森を通る。
やがてこの森の中心的な存在の大霊樹にたどり着いた。
大霊樹はまるで空から隠すように樹冠をうんと伸ばし、光さえ遮るほどの厚みで天井を作っている。
大きな幹が、すべての生命エネルギーの通り道を体現しており、外界を隔てた神聖な姿がただずっとそこに健在していた。
虚の入口は地面を軽く掘っただけでレイシャルの上半身さえ入らないほど小さく、中も1人暮らし用の大きさの虚。
天然の1枚板でできた大きな作業台と、そこにつまれた厚みのある羊皮紙の束たち。
家具と呼べる食事用の机と椅子と干し草のベッドは1人用だ。
客人をもてなす気はまったくない。
レイシャルが入口に身をかがめると大きな作業台に向かっていくつもの腕を動かし、羊皮紙にインクを垂らしている少女がいた。
ピンク色のウェーブがかかった髪。青りんごのように大きな瞳。
年端もいかない発育途中の甘さを残した指先で少女が羽ペンを握っている。
しかし、そんな可愛らしい体の背中から伸びる多腕は、異形の姿をしていた。
骨と皮だけの青白い肌でできている歪な腕と細長い指は、うっすらと木目が浮かんでいる。
可憐な少女の姿との、アンバランスさが際立っていた。
来訪者のレイシャルに、女神ピューニャは冷酷なまでに美しくほほ笑む。
「世界の終わりにこんばんは、レイシャル」
「……ピューニャ」
ピューニャと呼ばれた少女は羽ペンを置いて、退屈そうに足をフラフラと遊ばせていた。
机の後ろにもある羊皮紙の束はすでに何かが綴られているようだが、人間が使うような言語で書かれていない。
「あなたが世界中を飛び回るおかげで私の耳が爆発しそうよ」
「減らず口だな。あのお方が消えてしまったというのに」
凍えた風の伊吹が大樹の虚に入り込む。
レイシャルの鋭い睨みに、少女の姿のピューニャは一歩たりとも引かなかった。
「そうね。」
森の霧が、世界を閉じ込めるように濃くなる。
「いかに全能といえど、死という現象は避けられないものだったようね」
音の女神の客観的で冷徹な言葉に、レイシャルは面食らってしまった。
「現象だと……? 貴様、それでもあのお方にお仕えする神か? 今の言葉は聞き捨てならない」
内から湧き出る怒りがレイシャルの感情を揺るがす。
ピューニャが黙ってレイシャルを観察していると、2人の女神の間に重い静けさだけが残った。
「レイシャル、ひどい顔をしているわよ」
「どんな顔だ?」
「怒っている顔、後悔してる顔、今にも泣きそうな顔」
レイシャルは顔をしかめてピューニャをさらに睨む。
「忠告はしたわ。この星の寿命を短くしたくないのなら、大気の運用の仕方を考えるべきね」
ピューニャは、軽やかに木の椅子から立ち上がる。
背後から生える多腕の1本が、入口を塞いでいたレイシャルを煙を払うように押しのける。
レイシャルが刺すような視線を向けても、ピューニャは無視を決め込む。
ピューニャは、外を出て裸足で散歩に出かけようとしていた。
「貴様は、」
冷めきれぬ感情的な声色になってしまったことに、レイシャルは言葉をつまらせた。
ピューニャは立ち止まり、多腕の1本がピクリと反応する。
「ピューニャ、あのお方は死んだと思うか。音は拾えているか」
言い直しても焦りは隠しきれなかった。
それでも真実が知りたいと、レイシャルはピューニャの背中を見つめる。
この星のすべての音を聞くことができるピューニャならば、レイシャルが"大気"として感じた全能神の喪失を"音"として知っているはずだ。
世界を見渡しても、全能神はどこにもいなかった。
全能神を探すのなら――
ピューニャが真実に最も近い女神だ。
ピューニャは身を翻し、真剣な表情でレイシャルに向き合う。
「今現在、お父様の音は聞こえないわ。お父様は星の外に行くことができるお方だから、音が消えることは珍しくない。ふっと音が消えて、時間が経てば、いつものように戻ってくると信じてる。」
ピューニャは、いつからか全能神のことをお父様と形容していた。
親しみか、敬う心があるのか、ピューニャは全能神のことを畏れず、かなり気さくな態度を取っていた印象がある。
そんなピューニャは、書いた羊皮紙をかつての全能神にせがむ姿は、まるで年端もいかない少女のようだった。
全能神の前だと、ピューニャは幼い子供のように振る舞い、全能神の周りでぐるぐると回っていた。
「ただ例外なのは、あの神宣――ね」
「あの大気を震わせる言葉。大小問わず、この星の生命に聞こえているようだった」
レイシャルはうなずき答える。
"悲しいお知らせがあります――"
繰り返される、この世に生きる万物に届く神の御心。神宣。
ピューニャは、苦い顔をする。
ピューニャにとって全能神の生命に対する一斉放送は、身に重かっただろうとレイシャルはピューニャを見つめる。
「……この星の生命全てが、聞いていた現象よ」
ピューニャはそう言って思いつめたように笑った。
神々はそれぞれ全能神に仕事を与えられている。
音の女神ピューニャの仕事。それは、
《この世の全ての音を集めて書き留める》
女神ピューニャは音を羊皮紙に書き残すという仕事をもっていた。
なおのこと、今回の神宣は負荷が生じたことだろう。
薄暗い古代森ではピューニャの姿を照らす光が届かない。
「観測できる限りの事象と、あの神宣を踏まえると、お父様は本当に消えてしまった可能性が高い。」
全能神がそんな力を持っているのはレイシャルは知らなかった。
否。知らなかったが、全能神に不可能はないというべきか。
この世の全ての原初は全能神によって造られていることから、全能神の力というものは際限がない。
自身も造られ、新しい創造物の報告の仕事を持っているレイシャルでも、全能神の力を推し量れたことはないのだ。
レイシャルは言葉をまとめつつも俯いて、地面に茂る草を見つめた。
その草にふーっと息を吹きかける。
風がそよそよ吹き、草はサラサラと心地よく揺れる。
全能神がいなくなる前と変わらない、ただそこにある草と通り過ぎた風の風景。
古代の森は全能神の死の後も、世界から隔絶されたようにいつもの時間が過ぎているようだった。
レイシャルがウェルムの古代森に到着するまで、世界のあちこちで地底から爆発が起き、人々が逃げ惑い殺し合い、鳥や動物が怯えた目で逃げ場もないのに逃げていた。
草原で音もなく佇む少年の姿も、そこにある強い憎悪の感情はこの世界になってからレイシャルが観測したものだ。
レイシャルはこの世界を終末の風となって感じたすべてを振り返った。
その風の通り道を、ピューニャも音として共有していた。
だからこそ、ピューニャは全能神の不在、すなわち死の可能性を認めたのだ。
最初の人間の顛末をレイシャルは思い出した。
(……あの時のお言葉が、今の、消えてしまった事に繋がるのだとしたら)
すーっとレイシャルの体に風が集まる。感情的な力が抜け、決意のみがその身に宿る。
「私はあのお方の、全能神の死を真実かどうか確かめたい」
古代森がレイシャルに呼応する。
大霊樹がレイシャルを迎え入れ、根が脈打つ。
神気が放出し、精霊がレイシャルの力の糧となる。
大気が動き、風が生まれる。
中心に立つレイシャルのまわりに風塵が舞い、霧を払う。
「確かめなければ――」
巻き上げた砂や葉は渦を巻いて空に飛んでいく。霧が移動し、月明かりが小さく差し込む。
レイシャルの力が収まると、代わりに優しい夜風がふわりと吹いた。
森が答えるように花の香りと、膨大な神気が森全体を運び届ける。
「そう。……そうね」
ピューニャは考え込んだ後、とびきり可憐な少女の微笑みをレイシャルに向ける。
「それならまずはやることがあるじゃない?」
どうしてピューニャは、大げさに思わせぶりな言葉でレイシャルをからかうのか。
レイシャルはピューニャという女神との問答を昔から苦手としていた。




