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リンドウと夢の中の動物たち

 それはこんな夢でした。


 まだ日も昇らない頃、鳥の声が聞こえた気がして目が覚めて、それでも窓の外は暗く、もう一度毛布を被ろうとしたところでドアが閉まる気配がしました。

 一瞬、黒いふさふさの尻尾が、ドアの隙間をうねるようにすり抜けていくのが見えました。

 しょぼしょぼする目を擦りながら床に足を下ろして、暗がりの中、足先の感触だけで靴を探します。

 靴を履き、寝間着のままコートを羽織って外に出ると、廊下には水の底みたいな冷たい空気がたっぷりと満たされていて、その中を泳ぐみたいに進んでいきます。

 三階から一階まで、階段を踏み外さないように気をつけながら降りると、ホールの扉がほっそりと開いていました。

 その隙間を両手で押して、少しだけ広げて外に出ると、日が昇る前の青白い世界の影が視界全体を覆っています。

 わたしはその暗がりの中に一歩踏み出しました。


「ヨイヤミちゃん?」


 わたしの呼びかけにはなんの答えもありません。

 確かにその尻尾を見たと思ったんですけど。

 仕方がないので屋敷の周りを散歩することにしました。

 一歩一歩足を踏み出すごとに、凝り固まっていた空気を切り崩していくような、不思議な肌触りを感じます。

 寒さを感じてコートのポケットに手を入れると、何か小さく堅い感触がありました。

 それはフクロウさんに譲ってもらったあの指輪でした。

 ツタの絡まるような文様の入った細い指輪を右手の薬指にはめると、なんだかぼうっと身体が温かくなった感じがします。

 ちょっとほっとしたので、あらためて暗闇の中を進んで行くことにしました。

 何回か角を曲がると、裏手にある犬舎にたどり着きました。

 ここではたくさんの犬さんたちが暮らしています。

 起こさないように、足音を殺して近づくと、数匹の犬さん達が歩き回る気配がしました。

 木の陰から様子を見ると、犬舎の中から次々と現れた犬さん達が柵の前に集まって、お行儀良く背筋を伸ばしてお座りしています。

 見える範囲いっぱいに犬さん達が並ぶと、犬舎の周りを囲う柵の上に何かがぴょんと飛び乗りました。


「イナリちゃん!」


 思わず声が出てしまいました。

 でも、この木の陰からは距離があるせいで、聞かれなかったみたいです。

 イナリちゃんは柵の上をゆっくりと歩いて、犬さん達の前に出ると、全体を見渡すように左右を見ました。


「キュッ」


 鋭くひと声鳴くと、犬さん達がわらわらと左右に捌けていきます。

 イナリちゃんはその中に軽い足取りで飛び降りました。

 ここからはその姿はもう見えませんが、犬さん達が避けていく動きでだいたいの位置はわかります。

 どうやら、イナリちゃんは犬舎の横の道に向かっているようです。

 わたしが犬舎の柵の方に進むと、犬さん達がイナリちゃんの後に続いて、行儀良く一列になって進んでいくのが見えました。

 

「犬さん、犬さん。みんな集まってどうしたのですか?」


 わたしの問いかけに気づいて、毛の長い大きな犬さんがこちらを振り向きました。

 これはお嬢ちゃん、こんな夜中に何用ですかな。


「目が覚めてしまったので、散歩しているところなのです。それで、犬さん達は何をしていたんですか」


 犬さんは長い毛の隙間から覗く黒いつぶらな瞳をパチパチさせると、ちょっと考えるように空を見上げました。

 実は口外無用と言われておるのですな。


「そこをなんとか、教えてもらえませんか」


 お嬢ちゃんには沢山遊んでもらった恩がありますからな。

 よろしい、お教えしましょう。

 そう言って、犬さんは重々しく頷きました。


「それで、みなさんどんなあつまりだったんでしょう」


 点呼ですな。


「てんこ、ですか?」


 姫様は定期的にわしらを集めて、全員揃っているか、欠けている者はいないか、見知らぬ者はいないかを確認しているんですな。

 どうやら姫様というのはイナリちゃんのことのようです。


「えっと、なんで確認するんでしょう?」


 姫様には余人の及ばぬ深い考えがあるようですな。

 そう言って、ふさふさの毛の犬さんは誇らしげに胸を反らせました。


「それじゃあ、犬さん達はこれからどこに行くんですか?」


 もちろん、姫様のお供ですな。

 いつもはしつこくつけ回すと叱られますが、できれば常にお側でお役に立ちたいと皆考えておるのですな。

 確かに普段のイナリちゃんの様子を思い返してみると、元気な犬さん達を前にして、面倒くさそうに居眠りしてしまう姿をよく見る気がします。

 わたしは背中を屈めて、なるべく目立たないように気をつけながら、犬さん達の列に続きました。


「今日はこれからどこに行くんでしょうか」


 顔合わせらしいですな。

 犬さんはこちらを振り向いて、こっそり教えてくれたのでした。

 犬舎の間の細い道を抜け、いつのまにか開いていた柵の入口から外に出ると、細長栗鼠のイナリちゃんを先頭に犬さん達は列をなして、整然と進んで行きます。

 タシタシという沢山の犬さんたちの足音が、暗闇の中ぼんやりと光る地面にじんわりと染みこんで、その後ろをついて歩くわたしの足音をうまい具合に覆い隠してくれます。


「キュッ」


 普段は騎士さん達が訓練する場所になっている殺風景な広場に足を踏み入れると、随分前の方でイナリちゃんが鳴く声が聞こえました。

 すると犬さんの列が一斉に足を止めます。

 そのままお互いに顔を見合わせフンフンと匂いを嗅ぎ、何かに納得したのか列を崩してゆっくりと前に進んでいきます。

 ちょっと悩んでから、わたしもそれに続くことにしました。

 犬さんの隙間から前を見ると、イナリちゃんの前に何かキラリと光るものが見えました。

 ぱちぱちと光が瞬いて、それが黒い瞳であることに気がつきます。

 イナリちゃんの前にいるのは艶やかな黒い毛皮を持った黒い瞳の犬さんでした。


「ヨイヤミちゃんです」


 わたしの小さなつぶやきはどうやら二人には届かなかったみたいです。

 ヨイヤミちゃんは犬さん達をチラリと見てから、胸を張ってお行儀良くお座りしました。

 イナリちゃんは後ろを向くと一番近くにいた犬さんの背中に飛び乗ります。

 犬さんの方は何も言わずに、そのままヨイヤミちゃんの前に出ました。

 何をするのかと思って観察していると、フンフンと鼻を鳴らしながら、そのままぐるりとヨイヤミちゃんの周りを回ってまた正面に戻りました。


「クルッ」


 イナリちゃんはひと声鳴くと、別の犬さんに飛び移ります。

 すると先程の犬さんはのっそりとみんなの元に戻っていきました。

 そして、次の犬さんも同じようにフンフンと匂いを嗅ぎながらヨイヤミちゃんの周りを回ります。

 その間、ヨイヤミちゃんは全く動きません。

 感情を感じさせない冷静な視線を犬さんに送るだけです。

 そうやって、沢山の犬さんがヨイヤミちゃんの周りをぐるりと一周していきました。

 ずっとその動きを目で追っていたわたしは、何回も同じことを繰り返したせいかちょっと目が回ってきてしまいました。

 次はわしの番のようですな。

 そう言ってわたしの前にいた毛の長い犬さんが進み出ます。

 そして、背中にイナリちゃんをのせて、フンフンしながらぐるりとまわって、また帰ってきました。

 次はお嬢ちゃんの番ですな。

 気がつくと、犬さんの背中の上のイナリちゃんが目の前まで来ていました。


「キュッ」


 鋭い声でひと声鳴いて、イナリちゃんがわたしの頭の上に飛び乗りました。

 もしかしたら、勝手に付いてきたことを怒っているのかもしれません。

 わたしが一歩前に出ると、ヨイヤミちゃんと目が合いました。


「ワフ」


 いつものようにため息のような声で鳴きます。

 仕方がないので、そのまま黒い艶やかな毛並みの犬さんの前まで進みました。

 その間も視線はずっとこちらを向いていて、自然と見つめ合う形になります。


「クルッ」


 なんだかせかされた気がして、精一杯くんくんと匂いを嗅ぎながらヨイヤミちゃんのまわりを一周しました。

 ふさふさの尻尾が一度だけ左右にゆさっと揺れるのがわかりました。

 正面に戻るとわたしはどうして良いかわからなくなって、そのまま立ち止まってしまいました。

 すべての犬さんは既にこの奇妙な儀式をおわらせています。

 次に引き継ぐべき犬さんはもういないのです。

 立ち止まったわたしを、沢山の犬さん達とヨイヤミちゃんの黒い瞳が見詰めています。


「えっと、リンドウ・マゴットです。よろしくおねがいします」


 とりあえず挨拶してみました。


「挨拶はいらない」


 か細い女の子の声でヨイヤミちゃんが答えました。

 そして、くいっと首を伸ばすと、わたしの鼻に湿った鼻先を近づけてきます。


「名前も知っている」

「キュッ」


 イナリちゃんが咎めるように鳴いて、それでもヨイヤミちゃんは鼻先をさらに伸ばします。

 黒い毛皮と黒い瞳がわたしの視界いっぱいに広がり、夜明けが近いはずなのに、そこからは濃厚な夜の匂いがしました。

 そして湿った空気が辺りを満たし視界はさらに暗くなり、足下がすうっと冷たくなるような眠りがやってきます。

 犬さん達の足音も、ヨイヤミちゃんの吐息も遠のいて、飲み込んだ水の感触に苦しむようにもがくと、毛布がベッドからずり落ちて、その肌触りに目が覚めたのでした。


 息が詰まって苦しんだ後の、冷たい空気が肺を満たした感触。

 その心地よさに大きくため息をつきました。

 寝室はまだ暗いまま、夜は明けていません。

 それは不思議な夢でした。

 わたしはぼうっとした頭のまま眼を閉じます。

 まだ鼻先に、つめたく湿った感触が残っていました。

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