雪の中の迷子
かすかに動物の鳴き声が聞こえる。
最初は右耳から、少し経って左耳から。
ふんわりとした感触が肌をくすぐる。
わずかに獣の匂いがする。
身体がすごく冷たい。
わたしはがんばって目を開ける。
「クルッ」
赤茶色の毛皮が頬をこすっている。
ああ、あの時のフェレットだ、と思った。
いや、フェレットって何?
フェレットはフェレットだ。
そうじゃなくって、細長栗鼠だよね。
たまに森で見かけるけど、初めて見たのは本当に幼い頃だ。
あの頃はお母さんがまだ生きていて、わたしを抱きかかえて庭の外れまで連れて行ってくれて、大きな針葉樹の上で巣を作っている細長栗鼠の親子を見せてくれた。
身体の弱いお母さんの後を、心配げな顔で侍女のサラがいつもついてきていた。
領主一家とはいっても地方の郷士みたいなもので、敷地だけは広いけど、そんなに大きくもない城館暮らしで、あのあとすぐにリンドウが生まれて。
お母さんが死んだとき、お姉ちゃんは泣かなかった。
妹はまだ赤ん坊で、でもその頃からおとなしい子で、葬儀の間もお姉ちゃんの腕の中でおとなしくしていた。
わたしはどうしていただろうか。
泣いていた、ような記憶がある。
雪が降っていたのを憶えている。
でも、この細長栗鼠はあのときのフェレットだ。
意識がはっきりしてきて、わたしは手をついて身体を起こした。
足がしびれていてまだ立てない。
でも、身体に熱が戻っていた。
「ここ、どこ?」
「クルッ!」
暗闇の中に白い木が生えている。
いや、そうじゃなくて雪が積もって白く見えるだけだ。
心が落ち着いてきて、やっと状況が飲み込めてきた。
わたし、御幸かなえは、あの時、メダルを取り逃してゲームに負けた。
だから生き返れなかった。
たぶんメダルをゲットできたリカは、そのまま生き返ったんじゃないかな。
それから、わたしは生まれ変わった。
すべてを忘れてカナエ・マゴットとして、新しい生を受けた。
しかも、ここはわたしの知っている日本じゃないし、そもそも地球ですらないみたいだ。
どういうわけか、異世界に生まれ直して、それから十年経っていた。
いわゆる前世のことなんか完全に忘れてたけど、そのことを急に思い出した。そういうことだ。
赤茶色の細長栗鼠はわたしの肩に乗ると、そのままマフラーみたいに首に巻き付いた。
ふわふわした毛並みですごく暖かい。
わたしは森で迷子になっていたのだった。
コートの雪を手で払い落とす。
城館の明かりを探そうと登った木の枝から、足を滑らせたのを思い出した。
凍えた身体には、まだ立ち上がる力が戻らない。
雪は小降りになっていた。
すっかり冷静になった。
さっきまで、わたしは十歳の子供だったけど、今はアラサーだった頃の記憶がある。
つまり、中身は大人だ。だから、大人の判断ができるはずだ。
いつものように、俯瞰で考えてみよう。
このまま闇雲に歩き回っても体力を消耗するだけだ。
どこかでかまくらでも作って、朝を待とう。
そうすれば明るくなるし、多少は気温も上がる。
わたしは手袋を外して細長栗鼠の首筋に手を当てる。
フェレットみたいな生き物が、目を細めてわたしの手のひらに頬をこすりつけてきた。
この子はなぜかものすごくわたしに懐いている。
顎の下あたりをくすぐるように撫でてやる。
その手の中で硬い感触がした。
何か金属のようなものを咥えていたらしい。
小さな円盤状の、それは一枚のメダルだった。
間違いなく、あの時のフェレットが咥えていたメダルだ。
「ねえ、もしかしてわたし、生き返れるの?」
「クルッ」
つぶらな瞳でわたしを見たまま、ちいさく首を傾げる。
なんとなく「ちがうよ」って言っている気がした。
まあ、今更生き返れるって言われても、ちょっと判断に困る。
わたしにはわたしの新しい人生がある。
もう十年も生きて、大切な家族もいる。
リカに会えないのは残念だけど、あいつはあいつで強く生きているに違いない。
最後のリカの必死な表情を思い出して、ちょっと申し訳ない気持ちになった。
まあ、大丈夫だろう。
こうと決めたら脇目も振らず突っ走るやつだけど、悪いやつじゃないし、私じゃない誰かが助けてくれるに違いない。
なんとか身体に熱が戻ってきて、わたしは細長栗鼠を胸に抱いて立ち上がった。
わからないことはわからない。
なんでこのメダルをこの細長栗鼠が咥えていたのかもわからないし、この細長栗鼠があのフェレットなのかもわからない。
なんで今こんなことが起こるのかも、誰がこんなことを起こしているのかも、どういう理由で起こるのかも、これからどうなるのかもわからない。
とりあえず考えるのは後にして、わたしはメダルをポケットに突っ込んだ。
細長栗鼠は小さな足でわたしの肩までよじ登ってきて、いつもの定位置とでもいった感じで長い身体をわたしの首に巻き付けてきて、毛皮のマフラーみたいになっている。
この寒さの中ではすごく心強い暖かさだ。
わたしはあたりの様子を確かめるために歩き出しながら、小さな頭に話しかけた。
「そうだ、一緒に来るんだったら、名前つけてあげようか?」
「クルッ」
「どんな名前がいい? 可愛い名前がいいよね。女の子みたいだし」
「クルッ」
「うんうん。じゃあね、『コンタ太』は?」
「クルッ」
「狐イメージなんだけど、いや? 確かに男の子っぽいか」
「クルッ」
「じゃあ『油揚げ』は? 狐の好物なんだよね?」
「クルッ」
「『稲荷寿司』は?」
「クルッ」
「お、稲荷寿司好き? やっぱり神様の眷属とかなのかな」
「クルッ」
「じゃあ『イナリ』にしよ?」
「クルッ!」
とりあえずイナリって名前をつけられて嬉しくなったのか、わたしの頬にしきりに頭をこすりつけてくる。
この子の名前が決定したあたりで、ざっと見て回っておおよその状況は確認できた。
雲の隙間から覗く月の高さから、まだそれほど夜は更けていないことがわかる。
この辺にはたまに熊が出るという話を聞いたことがあるけど、縄張りの印も足跡とかもないし、とりあえず危なそうな動物の気配はない。
食べ物は持ってないけど、腰の後ろに小刀が差してある。
いざとなったらこれでなんとかするしかない。
とりあえず、大きな木の根元に雪を固めてかまくらを作ることにした。
「火口箱でもあればよかったんだけどな」
「クルッ」
わたしの独り言に律儀にリアクションをくれるイナリに気持ちがほわっとする。
積もった雪を積み重ねて半球の雪山を作って、正面から手で穴を掘っていく。
革手袋の隙間から水が染み込み始めたところで、結構あっさりとおおよその形にはなった。
作業に熱中しているうちになんだか楽しくなってしまったのは、肉体年齢に精神が引っ張られたからだろうか。
わたしは雪山の内部に入って体育座りの姿勢を取った。
「ちょっと落ち着いたね」
「クルッ」
「風がないだけでもかなり助かるよ」
「クルッ」
わたしは湿った手袋を外して壁に立て掛け、イナリの両脇に手を入れた。
顔を覗き込むために両手を持ち上げると、予想以上に長い身体がだるんと垂れ下がった。
手元で毛皮がぬるっと引っ張られて、あんまり力を入れたら怪我をさせてしまいそうな感じがして、ちょっと不安になる。
小さな後ろ足で小刻みに中を掻いているので、私の胸に引き寄せると、お腹のあたりをしっかりと掴まれた。
木に登ったりするためなのか、足の指で何かを握ることが出来るような、そんな作りになっているらしい。
イナリが私の鼻に自分のちいさな鼻を擦りつけてくる。
鼻はちょっと冷たかったけど、身体のじんわりとした温もりが、わたしの胸のあたりから伝わってきた。
「これなら凍えずに済みそうだし、朝までちょっと休もうか」
「クル……キュッ」
いきなりイナリが身体をねじって、外の方を見た。
何かを警戒しているような感じだ。
外は暗闇が広がっていて、パラパラと雪が降り出していた。
身体を起こして、わたしもイナリが見ている方に目を凝らした。