閑話:届かぬ声、遠い空の下で
「頼みます……! 渡航費用も現地での手配も、全部俺個人の責任でやります! だから会社の手続きだけでも……家族を、妻と娘を日本へ連れてくる査証の発行だけでも進めさせてください!!」
「佐藤さん、落ち着いてください。先ほども言った通り、日本政府から退避勧告が出ているんです。外務省からの指導もあり、会社としてこれ以上現地関係者へのビザ発給保証を出すことは不可能です。万が一のことがあったら、誰が責任を取るんですか?」
「責任なら俺が取ります! 俺の命だってなんだって差し出しますから!!」
「……これ以上無理を言われるなら、本社としてもあなたの雇用契約を解除し、最悪の場合は現地への単独渡航を力ずくで阻止せざるを得ません。……申し訳ありませんが、これ以上のお話はできません」
ツッ、ツッ、ツッ……。
無機質な電子音が耳に響き、一方的に通話が断ち切られた。
受話器を握りしめたまま、俺——佐藤順平は、がっくりと両膝を床についた。
東京の文京区にある小さな賃貸マンション。深夜二時を回った室内で、パソコンの青白い光だけが、俺のやつれた顔を虚しく照らしている。
「くそっ……! くそくそくそっ!!」
俺は床を拳で何度も叩きつけた。爪が割れ、血が滲むのも気にならなかった。
俺がシリアから日本へ一時帰国したのは、四ヶ月前のことだった。
アレッポの老朽化した水道設備を改修する国家プロジェクト。その現場責任者として働いていた俺は、プロジェクトの予算増額と、日本の最新浄水技術を導入するための本社交渉のために、ほんの二週間の予定で日本へ戻ってきたのだ。
すぐにアレッポへ戻り、愛するファティマとレイラの元へ帰るはずだった。
だが、俺が日本に着いた直後、シリアの情勢は坂道を転げ落ちるように悪化した。
各地でデモ隊と治安維持部隊が衝突し、あっという間に激しい内戦へと発展。日本政府は速やかに危険情報レベルを引き上げ、シリア全土への渡航中止勧告を発令したのだ。
現地へ飛ぶ飛行機は次々と欠航になり、外務省からは渡航を強く制止された。
それでも俺は諦めきれず、渡航ルートを模索して隣国のトルコやレバノン経由での入国を試みようとした。だが、現地で日本人が拉致されたニュースが流れると、会社は俺のパスポートを事実上会社管理にし、「勝手な渡航をすれば即座に解雇し、現地警察や日本大使館に通報して強制送還させる」とまで通告してきたのだ。
俺はこの四ヶ月間、ただ指をくわえて待っていたわけじゃない。
外務省、国際人道支援団体、現地にコネを持つNGO、さらにはシリア大使館まで、毎日毎日、着の身着のままで走り回り、頭を下げて回った。
「家族を日本へ避難させてくれ」
「無理なら俺をアレッポへ戻してくれ」
だが、返ってくるのはいつも同じ、冷たい公式の答弁だけだった。
個人の愛や情熱など、巨大な国家の論理と戦争の狂気の前では、掠れ声一つ出すことも許されない無力な羽虫でしかなかった。
(俺が……俺が最初から二人を連れて日本に帰っていれば……! アンプランでも何でも、強引にでも連れ出していれば……!)
後悔で胸が張り裂けそうだった。
不器用で、アラビア語もカタコトだった俺に、太陽のような笑顔を向けてくれたファティマ。
そして、二人の間に生まれたレイラ。
褐色がかった肌に、俺に似て笑うと目尻が下がる目。その小さな身体を抱きしめた時の、あの腕の中の重みと温もりを、俺は一生忘れない。
レイラは、時々不思議な子だった。
幼い子供とは思えないほど、ふと大人びた淋しげな目をして遠くを見つめることがあった。まるで、自分の小さな胸の中に何か大きな秘密や不安を抱え込んでいるかのように。
『お父さん、レイラね、お母さんの可愛い女の子でいたいよ』
ある夜、アレッポのベッドの中でレイラが俺のシャツの裾を強く握りしめながら、消え入りそうな声で呟いたことがある。
『当たり前じゃないか。レイラは世界で一番可愛い、お父さんとお母さんの宝物だよ』
俺がそう言って頭を撫でると、レイラはどこか救われたような、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべたのだった。
(あの時、あの子は何に怯えていたんだろう……。どうして俺はもっと側にいて、抱きしめてやらなかったんだ……!)
デスクの上には、アレッポへ持っていくはずだったお土産が虚しく並んでいる。
日本の色鉛筆セット、ひらがなの絵本、そしてレイラが大好きだった甘いお菓子の箱。
『おとうさんへ。きょうはむさっかをたべます。早くかえってきてね』
レイラが拙いひらがなで書いてくれた手紙を、震える指先でなぞる。破れそうなほど大切に折りたたまれたその紙切れだけが、遠いシリアと俺を繋ぐ唯一の命綱だった。
その時、デスクの上のスマートフォンがけたたましく震えた。
画面に表示されたのは、現地の国際人道支援団体からの着信。
俺は弾かれたように端末を耳に押し当てた。
「もしもし!? ジュンペイ・サトウです! ファティマですか!? レイラですか!?」
『……サトウさんですか。落ち着いて聞いてください』
受話器の向こうの悲痛な声に、俺の全身の血が引いていく。
『……本日午後、ご家族が避難していた地区の近くで激しい砲撃がありました。……支援ルートの途中で、お宅のあったブロックが巻き込まれ……』
「……嘘だ」
『ファティマさんのご遺体と思われる女性が確認されました。ですが……』
「嘘だ!! 嘘だろファティマっ!! レイラは!? レイラはどうなったんだ!!?」
俺は受話器に向かって叫んでいた。膝が崩れ、フローリングの床に崩れ落ちる。
『……お嬢さんの姿は見つかっていません。瓦礫の下にも、負傷者のリストにも……。現地は混乱を極めており、これ以上の捜索は不可能に近いです……』
視界が真っ暗になった。
喉から絞り出されたのは、人間のものではないような惨めな嗚咽だった。
ファティマが死んだ?
あの温かくて、俺を愛してくれた妻が?
そして、レイラが行方不明……? 八歳の小さな女の子が、あの地獄のような戦火の中に、一人きりで取り残された……?
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!! レイラぁぁぁっ!!」
俺は床に突っ伏し、色鉛筆と絵本を抱きしめて泣き叫んだ。
手紙の中のサクラの絵。三人で手をつないで笑っていた、あの未来。
それが一瞬にして粉々に砕け散った。
だが——涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、俺は色鉛筆を強く握りしめた。
(……生きている。レイラは絶対に生きている)
遺体が見つかっていないなら、あの子はどこかで息をしているはずだ。
どれほど泥にまみれようと、どれほど絶望的な戦火の中であろうと、あの子は生きようとしているはずだ。
「待っていろ、レイラ……」
擦り切れた声で、俺は遠いシリアの空に向かって誓った。
会社を首になろうが、国賊と責められようが、どんな不法な手段を使ってでも、俺はシリアへ行く。
パスポートを奪われたならトルコの国境を越えてでも、潜り込んでみせる。
「お父さんが、必ずお前を見つけ出す。世界中のどこにいたって、どんな姿になっていたって、絶対に……絶対にお前を抱きしめに行くから……!」
文京区の狭い部屋に、朝焼けの冷たい光が差し込み始めていた。
愛する家族を奪われた男の胸の中に、消えることのない執念と不屈の炎が灯った。




