壱
あの人が出てきます。
神社でのお務めは、早朝の境内の掃き掃除から始まる。
前日の参拝客が散らした砂を掃いて集めたり、玉砂利を整えたり、稀に落ちている落ち葉を集めたりする。
ピチュリリ……。早朝特有の静かで澄んだ空気に、小鳥の歌声が流れる。
まだ肌寒さはあるけれど、冬とはやはり異なる。これからだんだん暖かくなる気配がする。
それはまるで、今の夕子の人生を示しているようだった。
およそひと月前、夕子が紙縒神社の巫女見習いになる前のこと。
夕子は、松林家で悲痛な日々を送っていた。
義母からは朝から晩まで雑用を押し付けられ、少しでも失敗すると、頭ごなしに怒鳴られた。夜ご飯を抜かれることも少なくない。義兄は夕子をいないものとした。人形が言葉を話すという夕子の発言を、気味悪がっていたのだ。
そうして一日が終わると、屋根裏の埃臭い部屋で一夜を明かしていた。夏は蒸し風呂のように暑く、冬は骨の髄まで凍えるほどに寒かった。
そんな日々を過ごしていたある日、宝石が盗まれたのだと義母が騒ぎ出した。その宝石は、元は夕子の母親のものだったのに。我が物顔で騒ぐ義母は、なんと見苦しかったことか。そしてあろうことか、夕子を犯人に仕立てあげようとしたのだ。
警察まで呼ばれ窮地に立たされた夕子を救ってくれたのは、神様だった。いや、語弊がある。紙縒神社の巫女である紙縒椿姫が、夕子の恩人だ。
神様だと思った。
だから夕子は、椿姫が渋っているのを分かりながら、ここに置いてもらえるよう無理やり頼み込んだ。あの柴という警察官が後押ししてくれたのも助けた。
椿姫は渋々ながらも、夕子を紙縒神社の巫女見習いとして雇うことを了承してくれた。衣食住は保証するが、給金は出さない。それが椿姫の出した条件だった。
そんなもの、全然構わなかった。お金目的ではない。お金なら、父が夕子にある程度残してくれていたからだ。
朝日も、施設に行くくらいなら椿姫の庇護下になった方がいいと言った。
でも、夕子はそんなことはどうでもよかった。ただ、椿姫の傍にいたいと思っただけだ。ある種の信仰に近いのかもしれない。
顔を上げると、社務所の窓から煙がたなびいている。朝餉の支度をしているのだ。
椿姫は依頼を受ける際、法外な金を要求するという。けれど、それを散財する様子はない。
社務所の中、生活スペースも質素なもので、とにかく物がなかった。ご飯も同じで、豪勢さはなく、一汁一菜といった具合だ。
依頼料はいったいどこへ消えているのか。
気にならないと言ったら嘘になるけれど、尋ねる気は毛頭ない。
夕子はただひたすらに、椿姫に恩を返すために働くだけだ。
そう意気込んで、境内の掃き掃除をしていたとき。
まだ参拝時間ではないというのに、男がひとり、参道を堂々と歩いてくるのが見えた。
鎖骨下まで伸びた濡羽色の髪をひとつに纏めて、前に流している。紫紺色の着流しに、黒い羽織を肩にひっかけ、はためかせながら悠然と夕子の方に向かってくる。
近くまで来てようやく、その男がずいぶん整った顔をしていることに気づいた。歳も椿姫と同じくらいだろうか。
どこか雰囲気も椿姫に似ている。
(――なんだろう)
なにが、椿姫に似ていると感じさせるのだろうか。
ついぼーっとしてしまっていたらしい。
謎の男は夕子の事など見向きもせず、真っ直ぐ社務所を目指している。
「えっ、あ、あのっ」
いけない。夕子は紙縒神社の巫女見習いだ。
参拝時間を無視した来客をそのまま通すなど、巫女見習いとして失格だろう。
慌てて声をかけるが、その男は、夕子の問いかけに答えない。
まるで聞こえていない、見えていないというように。夕子の存在など、ないというように。
脳裏に過ぎるのは、義母と義兄だ。
手が、足が震える。
それでも。
「お客さま、お待ちください。今は参拝時間前です。お参りでしたら、参拝時間の間にお越しいただくようお願いします」
そこで初めて、男が振り返った。
巫女服を着た夕子を見て、おやと片眉を上げる。
「あなたは?」
「紙縒神社の巫女見習いをしております、夕子と申します。先程もお伝えしたように、今は参拝時間前ですので――」
「紙縒神社の巫女見習い」
夕子の言葉を遮り、何かおかしな言葉でも聞いたと言いたげに、「巫女見習い」の単語を口に出す。
黒とも紫とも言い難い、不思議な虹彩をした瞳が、夕子をまじまじと見る。
「……なにか、おかしいですか」
「これは失礼。まさか本当に人間とは思わず。しかし、紙縒神社の巫女見習い……ですか。それはまた、突飛なことですねぇ。椿姫が許しましたか」
人間とは思わず。明らかに変な意味合いの言葉があったのに、唐突に椿姫の名前を出され、動揺する。
この男の正体も知らないのに、軽率に答えられない。
「あぁ、悪い意味ではないのですよ。今まで頑なに、傍に人を置こうとしなかったのに、一体どういう心境の変化かと。結構なことです」
「…………」
「わたしは参拝客ではありませんよ。矢神神社の禰宜、矢上理人と申します」
矢神神社の禰宜。
思わぬ身分に、夕子はぽかんと口を開けて、矢上を見上げる。
「椿姫とはそうですね……まあ、古い知り合いです。今日も彼女に用事がありましてね」
「……椿姫さまのお知り合いの方でしたか。大変失礼をしました」
「素直で礼儀正しい子は、嫌いじゃないですよ」
夕子がぺこりと頭を下げると、矢上は満足気に微笑んだ。
「そういうわけで、わたしは社務所に入らせてもらいますよ。参拝時間までは、先程のようにきちんと人払いをお願いしますね」
そう言って、矢上は夕子に背を向けた。
朝の光に霞むその背中を見て、唐突に思った。
矢上が椿姫に似ていると感じた理由。
彼もまた、神秘的でどこか神々しい雰囲気を纏っているのだ。
***
「お邪魔しますよ」
参拝時間前にも関わらず、社務所の扉が無遠慮に開かれる。堂々と社務所に入ってきた無遠慮の塊の男に、椿姫は眉を寄せた。
「まだ参拝時間前です。お帰りください」
「冷たいことを。わたしは参拝客ではありませんよ」
「では尚更、お帰りください」
神社に金を落とさぬ人間は、お呼びではないのだ。
矢上は笑みを浮かべたまま、やれやれと首を竦めた。「仕方ない子だな」とでも言いたげな仕草に、カチンとくる。
前からそうだ。この男を相手にすると、どうしても平常心でいられない。わざと、椿姫の神経を逆撫でようとしている風にも思えるが。
寒川が「いけ好かない」と評したのもよく分かる。
「面白い話を持ってきました。きっと椿姫も興味を抱くのではないかと思いましてね」
聞くとも言っていないのに、矢上は上がり框に腰をかけた。奥の柱にもたれかかっている朝日にちらりと目を向けたが、すぐに興味をなくし椿姫に視線を戻す。
「驚きました。先程境内で、巫女見習いを名乗る少女と話しましてね。まさか椿姫が人間を雇うなんて思わず、最初は化け狐か幽霊の類だと、か最初は無視してしまったのですが」
クスクスと声を漏らして笑う矢上に、椿姫の目はより一層剣呑になる。
この男は、本人も自覚しているように顔がいい。
性格はすこぶる悪いにも関わらず、矢上目的で矢神神社に訪れる参拝客と依頼客は後を耐えない。もちろん、女性が多い。
「面白い話を持ってきたのではないのですか? 用がないならお帰りください」
「あなた、先程からそればっかりですね。本題に入る前の雑談ですよ。わたしと椿姫の仲じゃないですか」
艶やかな黒髪をひと房、指にくるりと巻き付けながら、上目遣いで椿姫を見上げる。
矢上目当ての客であれば、泣いて喜びそうな状況である。
実際、依頼客のなかには、少しでも多く話そうと、なんとか引き伸ばす者も多いのだとか。
だが、長年の付き合いになる椿姫には、矢上の美貌も小細工も通じない。
「ただの昔馴染みというだけでしょう」
「冷たいことを。あなたはもっと、人間と関わるべきですよ。そういえば最近、紙縒神社に頻繁に出入りする警官服の人間がいるそうですね。わたしとしては非常に気に食いませんが、いい傾向ではないですか」
「……どうして、それを」
寒川と柴が紙縒神社に来るようになったのは、ごく最近だ。その間、矢上は紙縒神社を訪れていない。
いったいどこで、そんな情報を得るのか。気味の悪いものを見る目になってしまうのは仕方ないだろう。
「あれと接点を作ったのは、他でもないわたしですよ。動向を探るくらいするでしょう」
小野屋の振袖のことを言っているのだ。
そういえば、最初は矢神神社に持ってこられた案件だったか。矢上では対処できず、紙縒神社を紹介――もとい押し付けられたのだ。
椿姫の表情から、何を考えているのか読み取ったのだろう。矢上は苦い顔をする。
「矢神神社は魔祓いを司る神社ですよ。そもそも、悪霊や妖が原因ではなかったのだから、うちの管轄外です。紙縒神社を紹介して、正解だったでしょう」
「そうですね。そのせいで、彼らが頻繁に出入りするようになったのですし」
「…………わたしが元凶というわけですね」
そして自ら墓穴を掘った。
降参だと両手を上げる。
「分かりました。雑談はやめましょう」
「やっと本題に入る気になりましたか」
「ええそれはもう」
矢上は遠い目をしていた。自分から話し出しておいて、どうして被害者面をするのか。
「なんてことはない、いつも通り矢神神社に持ってこられた依頼なんですけどね。椿姫の力が必要になりそうなんですよ」




