096.懇 願
「私が父の暴挙を聞いて駆け付けた時には、母は全身に深手を負い、どんなに呼びかけても意識は戻らなかった……。イブリンは泣きわめくばかりで……」
グレアムの沈痛な面持ちと語られる内容に、彼がなぜここに来たのか、その理由は容易に推し量られた。
「それで私の祖母を人質に、母君の治療をさせようと……」
「私は白魔法が使えない。医者には手を尽くさせたが傷は深く、王宮魔法使いであっても手に負えないと見た。母を救えるのは、おまえしか考えられなかった……」
「…………」
結論が出たところで、友好関係にないアナベルに助けてくれ、とは言い難かったのだろう。
その気持ちはわからないでもないが、余計なことをせず素直に依頼にくればいいものを、とは思う。
「……私が母の傍にいれば、あのような酷いことは許さなかった。家が断絶するのは父と私に原因のあることだ。マーヴェリット公爵に盾突いていない母が、父に殺される理由などないのだ。助けてほしい……」
祖母を人質に取るのは不可能というのは、二時間も窓を磨かされればさすがに理解できたようだ。
ここでは悪態をつくこともなく、グレアムは頭を下げてきた。
母親を大事に思っているのは、その姿からよくわかる。重傷を負わされたターナー侯爵夫人を気の毒にも思う。だが……。
「セインに容赦なく即死魔法を撃って殺そうとした人間が、自分の母親が重傷を負えば助けてほしいと言ってくる。勝手なものね」
「アナベル……」
冷淡に返したアナベルに、祖母が咎める目をして小さく首を振る。それでも、アナベルは自身の言葉を撤回しようとは思わなかった。
「人質も取れないとあれば、私におまえを自由に動かすことは出来ない。最後の手段として、おまえのために何でもすると誓う。だから頼む……」
グレアムは席を立ち、アナベルの足元に跪こうとした。
「陛下に対する誓いを軽く扱ってきたあなたの誓いなど、何の意味もないわ。そんなものは結構よ」
アナベルは軽く手をあげてグレアムの動きを止めると、そのまま席に着かせておいた。
「違えれば死ぬ呪いを魂にかけて誓う」
きっぱりと言い切ったグレアムに、アナベルは苦笑する。
「その愛情を母親と妹以外にも向けることができれば、あなたは王宮魔法使いとして、生涯ベリルの民の敬意を受けて、光溢れる世界を生きられたでしょうに……」
「私は、母と妹以外はどうでもいい」
「そう……」
ここまではっきりと言われては、乾いた笑みしか浮かばない。
「民の敬意など欲しいとは思わない。魔法を使って好きに暮らせれば、そこがベリルでなかろうと構わない」
「どうして治療者に私を頼るの? あなたの父君は、本当に少しも母君を落としたことを悔いていないの? 治癒魔法をかけるべきは父君ではないの?」
問い質したアナベルに、グレアムは苦笑した。
「父は、以前から年老い容色の衰えた母を毛嫌いしている。おこないを悔いての助けなど期待できない。これで若い妻を迎えられると言い放って部屋を出て行ったそうだ。ラッセル侯爵に助けてもらうのだと……」
「なに、それ……」
アナベルは、前長官の暴言に、全身の毛が逆立ちそうなほどの怒りを感じた。
魔獣の角で王宮魔法使いを操り、奴隷を愛人にする人間らしい言動と言えば、そうなのかもしれない。が、アナベルが最も好きになれない人間だ……。
「私は父の気持ちもわからなくもない。女の価値は若さと美貌。余計なことを言わぬ愛想よしに限るからな。それでも、愛情が冷めていたとしても妻だ。いくら気が立っていたからと、あれほどの手傷を負わせる必要はないと思う」
「女は男に従順で、価値は若さと美貌……。聞いていて物凄く不愉快なのだけど。ここで私を怒らせても、得になることは何もないと思うわよ」
眉間に皺を寄せてアナベルが不満を口にすると、グレアムは少し意地悪く笑った。
「得はないな……だが、女も同じだろう? 男の価値を家柄と財産で計って結婚を決めるではないか。だから男は女の容姿で価値を計る。それの何が悪いのだ? 怒るというなら、その理由を教えてくれないか?」
冗談の入る余地のない、真面目な口調で問い返される。
アナベルはテーブルに肘をつき、少し身を乗り出すと、グレアムの目を見据えた。
「私は、男性の価値は心根と志にあると思う。美醜や家柄、財産で結婚相手を探したりなどしない。結婚相手にも私の心を好きになってほしいわ」
「……ああ、おまえは例外だったな。あの公爵に嬉しそうに寄り添う姿に打算はなかった。おまえは、もし公爵が地位を失っても気にしないのだろうな。世間の常識に当てはまらない、風変わりな人間だ」
「風変わりな人間……」
納得してくれたように思うが、どこかけなされていると感じるのは、気のせいだろうか……。
「少なくとも我が両親は、おまえと公爵のように笑い合うことはなかった。母は、領地も財産もない没落した男爵家の娘だった。ただ、社交界で噂になるほど美しく……それをどこかの夜会で見初めた父が、渋るのを強引に説き伏せて妻に迎えた。将来有望な魔法使いとの結婚を母の実家は喜んだが、平気で愛人を数多く侍らせる父を、母は嫌悪した……」
「あなたの母君にとっては、真っ暗な結婚というわけね」
聞いていると、肩のあたりが重くなってきそうな内容だった。
「金には不自由しないが冷え切った結婚生活に、母はいつも実家の押しに負けて承諾してしまったことを後悔していた。挙句父は、女は若いに限る、と言って屋敷に寄り付かなくなり、母の顔を見ることはなくなった」
「心が酸っぱくなるわ……」
自身が強引に娶っておきながら、妻が年を取ればどうでもよくなり、若い女のほうがいいなど、どうあっても納得できない。
自分が年を取るのは棚上げですか!
アナベルはもしも目の前に前長官がいたなら、正座させてしばらく説教したくなるほど胸の内がもやもやした。
やはり、変身魔法は蛙ではなく女性にしておけばよかった……。
「父のことは、高度な白魔法の使い手として敬うところもある……が、買い物で気鬱を晴らそうとする母をより哀れに思う」
「では取引しましょう」
寂しげな面持ちで苦笑したグレアムに、アナベルは持ちかけた。
「取引?」
「母君の治療を引き受ける代わりとして……財産没収の際、あなたの父君とラッセル侯爵が組んでおこなっていた、奴隷買いの確たる証も素直に陛下に渡してちょうだい。絶対に隠蔽しないと約束して。父君よりも母君を思うあなたの気持ちが本物であるなら、約束できるはずよ」
「奴隷買い……」
はっきりと要求を突き付けたアナベルに、グレアムはその言葉を復唱するように口に乗せるも、驚いた様子は見せなかった。
「大陸中の国で禁じられていることを父親がしたと言っても、驚きも否定もしないのね」
「私は奴隷買いをさほど悪いこととは思わないが……公では禁じられていることだったな。陛下もマーヴェリット公爵も奴隷反対派である以上……どの道、ラッセル侯爵の誘いに乗った父は地位を追われ、侯爵家も断絶の道を辿ったのか……」
しみじみとして語るグレアムに、アナベルは口許がひくりと震えた。
「悪いこととは思わない? それって、あなたは常に奴隷を買うほうの立場で、自身が奴隷にされるとは思っていないから、言えることよね?」
「魔法使いの私が奴隷にされるなどありえないからな」
アナベルの怒りに震える問いを、グレアムはあっさりと肯定した。
「あなたは魔法という特別があるから……オリヴィア嬢は立派な身分と財産があるから……ごく当たり前に、奴隷となるのは他人と決めつけているのね」
「文明の進んだ国で禁じられているぶん、国力がない国に生まれた、知恵や取り柄のない者がなると相場が決まっているからな。それを綺麗ごとばかりのマーヴェリット公爵が、奴隷廃止の姿勢を崩さないものだから、父は公爵に知られてはならぬと常にそわそわしていたな……。イブリンとの婚約が成立しなかった後は、生かしておいてはまずいとそればかり言っていたが、結局はこちらが排除されたわけだ」
つまらなそうに語ったグレアムに、アナベルはこめかみのあたりが猛烈にぴくぴくする。
「あなたの中でどんな決まりがあっても……奴隷売買というものがこの世のどこかに残っていれば、いつ何時立場が逆転して、自身が奴隷とされる可能性はあるのよ。魔法が使えるからなんだと言うの。私が今ここで、今後一切使えないように闇の最上級黒魔法で呪ってあげましょうか?」
「なっ!」
アナベルの本気が伝わったのだろう。グレアムがぎょっとし、怯えたように身を震わせた。
こちらを凝視する表情は強張り、その頬には冷や汗が流れていた。




