093.薔薇の精霊に愛される人
意識のないプリシラの頭にお気に入りのリボンはなく、血の滲む包帯が巻かれている。頬にも大きくガーゼが当てられ、シーツから外に出ている腕にも包帯が……。
この様子ではおそらく、シーツに隠され目にすることのない首から下も、たくさんの包帯が巻かれているのだろう。
プリシラの全身を、死の気配が色濃く覆っていた。
「あなた。どうやって入ってきたの? そのお嬢さんはいったい……」
床に膝をつき、プリシラの手に自身の手を置いて懸命に祈りを捧げていた女性が、アナベルと男性の入室に気がついて怪訝な声をあげた。
泣きはらした真っ赤な目と、プリシラに瓜二つと言ってよい面差しに、おそらく母親……レイン夫人だろうと思う。
「信じられない。さっきまで、確かに魔法屋の前にいたのに……」
レイン男爵が呆然としているのを横目に、アナベルも床に膝をつき女性と目線を同じくした。
「プリシラのお母さまですよね? 私はあなたの娘さんと親しくさせていただいている、アナベル・グローシアと申します。私も娘さんの手に触れてもよろしいでしょうか?」
「では……もしやあなたが、プリシラに理想の髪をくれた魔法使い? 夫が、治癒魔法をお縋りしてくると言った……」
名乗ったアナベルに、レイン夫人は一縷の希望を見出したのか、その瞳が輝いた。
急いで場を開け、アナベルがプリシラの手に触れやすいようにしてくれる。
「どうか、お願いします魔法使い様。娘をお助け下さい! お医者様は、別れを覚悟して見守るほかない、と……もう、何もしてくれません!」
男爵夫人の涙ながらの嘆きに、医者もその助手も病室にいない理由に合点が行った。
「冷たすぎる……」
そっと触れたプリシラの手は、氷のように冷たくなっていた。
「アナベルさん!」
涙声でレイン男爵に呼ばれたアナベルは、男爵夫妻それぞれの手を掴む。プリシラの手の上に置き、その上から自身の手を重ねた。
「死の気配が彼女の身体だけでなく、魂まで強く包み込んでいます。この状態では治癒魔法をかけても効果がありません。後わずかでプリシラの生命活動はすべて止まり、死の眠りについてしまうでしょう」
それがアナベルの読み取ったものだった。
「そんな……」
男爵夫妻が揃っていやいや、とばかりに首を横に振る。ますます強い眼差しでアナベルに縋ってくる二人に、小さく頷いた。
「彼女の死を拒むのであれば、プリシラをこの世で最も愛しているお二人が呼んでください。プリシラに黄泉の国ではなく、こちらの、生者の世界を見るようにと……。その声に彼女が応えて、彼女の魂を捕らえる死の力が緩めば、私の全力で治療をします」
最後の希望として真剣に頼むアナベルに、二人は不安げな顔をした。
「呼ぶなどどうやって? 私たちはあなたとは違います。魔法など使えません。ただの人間なのです」
「プリシラに向かって、ひたすらに生きてほしいと伝えてください。それがプリシラの生きる力となります。あなた方の声は、私が彼女の内なる意識に導きます」
「…………」
「どのような魔法使いであろうと、死者の蘇生はできません。時間がないのです。さあ目を閉じて……もう一度プリシラの笑顔が見たいなら、一心に彼女のことだけを想ってください」
男爵夫妻は固い表情ながらも、アナベルの言う通りに目を閉じた。
「私の愛しいプリシラ。おまえが何年もかけて改良した……丹精込めた薔薇がもうすぐ咲くよ」
プリシラの手を握るだけでなく、もう片方の手で額にも触れたレイン男爵が、そっと彼女の前髪を掻きあげるようにして撫でる。
「あの薔薇は、きっとおまえの頑張りに報いてくれる。素晴らしい輝きをおまえに見せてくれるよ。ベリル中の人間が、必ずおまえの名を知る作品となる。だから、こんなところで死んではいけない。おまえは生きてあの薔薇を見なければ……そして誰より幸せに……」
男爵が涙ぐみ、声を詰まらせながらも、想いを込めて切々と呼びかけ続けた。
「そうですよ。私のかわいいプリシラ。あの薔薇を見ずに死ぬなんて……絶対に心残りになるわ。母様は、あなたがあの薔薇の側で笑っている姿を見たい……見たいの……」
男爵夫人もプリシラと男爵の手をしっかりと握り、懸命に願いを伝える。
プリシラが助かるならば、代わりに自身の命を差し出しても構わない。
彼女の、今にも完全に閉ざされそうな内なる意識に声を届けるアナベルの意識にも、二人の手からそこまでの気持ちが伝わってくる。
危機的状況であるのに、両親の愛情を一身に受けるプリシラが羨ましくなって、アナベルは両親のいない自身が少し寂しく思えてしまう。
苦笑しかけたその時、窓が開いてもいないのに、病室に柔らかく馨しい風が吹いた。
色とりどりの気品ある輝きが、プリシラの全身を撫でるように取り巻き、そして消えた。
「薔薇の精霊……なの?」
まさかの存在の手助けに驚いた直後。生きたい……と、両親の呼びかけに応える、プリシラの魂の声が聞こえた。
「プリシラの魂が死の支配から逃れたわ! これなら助けられる!」
アナベルは会心の笑みを浮かべ、最上級魔法の重ねがけ呪文の詠唱に入った。
『光、集え! 水、集え! 我、上級白黒魔法使いたるアナベル・グローシアが求める。薔薇の精に愛されし人の完全治癒を。すべての傷を癒し、健やかなる身体と為せ。微かな命の灯に力を注げ。生命力も元ど~りっ!』
病室に黄金と青の光が爆発的に輝く。
そのすべての光がプリシラの全身に吸い込まれ、彼女を再度支配しようとしていた死の気配は、瞬く間に追い払われて消えた。
冷たく強張っていた手は一気にぬくもりを取り戻し、しっかりとした拍動も聞こえる。
青白かった顔色も、血の気が戻って薔薇色の頬を取り戻した。
「……父様? 母様も……え? アナベルまで……みんな、どうしたの? ここ、どこ?」
ゆっくりと目蓋を開けたプリシラが、かすれた声で不思議そうに言った。




