035.赤いリボンの少女
令嬢たちが、アナベルをセインの婚約者であると気づいて敵意を向けているなら睨み返せる。
だが、これは違う。
言葉にできない異様な気配を向けられるのが嫌で、アナベルは思わず一歩下がってしまった。
店の扉に背がついてしまう。
同時に令嬢たちから声が飛んできた。
「私にぜひとも美しい髪を!」
「私には艶やかな肌を!」
「シミとそばかすを取って頂戴!」
「目をぱっちりと大きくして! 口元も可愛くふっくらと!」
「美しい声を!」
「長い手足の細くて素晴らしい身体を!」
次々と寄せられる要望に、アナベルはめまいがした。
「無茶を言わないでください。魔法はすべてを叶える万能の道具ではないのです!」
冗談を言っている様子のまるでない令嬢たちに、アナベルも真面目な顔をして説いた。
彼女たちの要望を叶えるというのは、人間を作り直すに等しいとんでもないものだ。
とはいえ、やろうと思えばできないことはない。
とても難しい魔法であることを伝え、尋常でない料金を請求したとしても、この状況から鑑みるに払いに応じる令嬢はいるだろう。
金の儲かる良い商売になるのは想像に難くない。が、女性の美に対する執着を利用した商売は拙いほうへ転がる予感がする。
アナベルは己のその直感を信じ、請け負う気にはなれなかった。
「でも、彼女たちの髪は魔法でつやつやになっていたわ!」
「自慢されてどれほど悔しかったことか!」
必死の形相で言い返してきた令嬢に、アナベルは苦笑した。
「それくらいならば可能ですので。……一度にお集まりの皆様すべてとはまいりませんが、お代さえいただければ祖母ではなく私がお受けいたします。ですが、お顔や体型を変化させるようなことは不可能です」
髪つやつや魔法に関しては、彼女たちならば無理に魔法に頼らなくとも充分なお金をかけて使用人に整えさせればなんとでもなるものだ。
現に自分の栗色の髪も、セルマとロージーの上質な技術のおかげでとても艶やかに光り輝いている。
なので、人間の技術の及ぶ範囲の美容魔法であるなら、さほど害はないだろうとアナベルは令嬢たちに微笑んだ。
ここで何もかも不可能ですと突っぱねれば、令嬢たちは不満を蓄積するばかりでこの場から離れず騒ぎ続けるのが目に見えている。
そんな事になれば祖母がゆっくり休めない。
「では、髪がつやつやになる魔法を私にかけて!」
一人の叫びがあがると、我も我もとその場にいる令嬢すべてが声をあげた。
「かしこまりました。……祖母が十名にかけたのと同じく、私も一日十名でお願いします。本日はとりあえずお戻りになってお嬢様たちで順番を話し合ってください。そして、十名ずつ明日の午後からいらしてください。お待ちしております」
アナベルから目を離さない令嬢たちを全員見渡すようにして話をする。
三十人を少し超えるくらいいそうなので、四日の仕事だ。
アナベルの一日にかけられる髪つやつや魔法の限界は五十名ほどである。
だから、その気になればこの場で全員にかけてしまえるのだが、セインに何かあった場合と、いつ何時、王の許へ行くことになるかわからないので、不用意に限界まで魔法力を使う気にはなれなかった。
「順番を決めて参りますわ」
「はい。お待ちしております」
アナベルが返事をすると令嬢たちは立ち上がった。
誰の家で順番を決めるのかと話をしながら、表通りに向かって去って行く。
本当は肌つやつやがいい……などと言った不満げな声がいくつか聞こえたが、聞こえないふりをして見送った。
ここは裏通りの中でも道が細く、令嬢たちの馬車をまとめて停められるような広場はない。
令嬢たちは祖母を訪ねるため、おそらく表通りに馬車を停めてここまで歩いてきたのだろう。
魔法使い自身がその貴族に仕えると契約しているならまだしも、祖母は個人と専属契約を結ばない魔法屋として生きている。
ゆえに、どのような大家の貴族といえど強引に自身の屋敷に呼びつけることはできない。
それを無視した貴族は国法により厳しく罰せられる。それほど、魔法使いとは貴重な存在としてベリルでは厚遇されているのだ。
ただし、ベリルを統治支配する絶対命令権を持つ国王は別である。
王の呼び出しであれば、たとえその用件がどのようなものであれ御前に出なければならない。
騒がしい一団のお帰りにほっと一息つきかけたその時、最後尾を行く令嬢が躓いた。
裏通りとはいえ、石の道は滑らかに整えられている。躓くような突起物など出ていないはずなのだが、令嬢はアナベルが目を見張るほど派手に転んでいた。
「きゃあっ、痛い!」
背の中ほどまである黒髪を縦に巻き、頭頂部にとても大きな赤いリボンをつけている令嬢は、悲鳴をあげて石畳の上にへたり込む。
が、誰も振り返って助けようとしない。
それどころか転んだ令嬢からどんどん離れて行くばかりで、雑貨店の横を曲がって全員見えなくなった。
その様子から、彼女が友人同士で訪ねていたのではなく一人きりで訪ねて来たのだとわかるも、転んだのを無視するなど酷いおこないだ。
アナベルは嫌な気持ちになるが、令嬢はよろけながらも立ち上がった。身長はアナベルの肩ほどであろうか。小柄な少女だった。
順番決めに置いて行かれないように、足を引き摺りつつも健気に駆け出そうとする。
そこまでして髪につやつや魔法をかけたいのかと思いながら眺めていると、令嬢は二歩進んだ先でまたもや転んだ。
ドレスの裾も大きく翻るが、きらりと輝く赤いリボンもよく揺れた。
「痛いです~!」
「…………」
躓くような石が路上にあるならわかるのだが、何もない。
何もない場所で二度も転ぶ人間……。
石畳の道に座り込んでべそをかいている姿に、アナベルは首を傾げつつも魔法を使った。
「きゃあ。身体が浮いたわ!」
悲鳴をあげる令嬢を自身の前まで浮揚魔法で運び、地に下ろした。
その叫びから察するに、この令嬢は店の中に強引に入り込むことはしていなかったようだ。
「足の具合が悪いの? 無理して訪ねてくれたのなら、話も聞かずに追い払うような真似をしてごめんなさい」
少し身を屈めるようにして謝る。
祖母に無理を強いていた令嬢たちに腹が立ったからと、纏めて追い払ったことには、商いをしようと考える身としては反省するばかりだ。
年老いて足腰が弱っているならわかるのだが、自分と同い年くらいに見える令嬢が連続して転ぶというのは、そんなふうにしか考えられなかった。
それに、病がちであるようにも見えない。令嬢の気配は溌剌としており、病の影はまったく窺えなかった。
「え? 足に悪いところなどありませんが……」
丸くて青い瞳がアナベルを見上げ、不思議そうに首を横に振った。
小顔であるが少しふっくらとして丸く、ぽやんとした憎めない表情をしている。
太っているとまでは言わないがぽっちゃりしていて柔らかそうな体型だ。
「…………」
令嬢に嘘を吐いている様子はない。
では、どこも悪くないのに走ると転ぶということか……それでは怪我ばかりの難儀な人生だとアナベルは令嬢を気の毒に思った。
赤くかわいい頬にも擦り傷が見える。きっと他の場所で転んだ際に傷を作ってしまったのだろう。
彼女を見ているとなんだかセインが脳裏に思い起こされる。アナベルはつい、手を伸ばすとその頬に軽く触れていた。
「な、なんでしょう……」
いきなり触られて、令嬢がきょとんとしつつも怯えたような目を向けてくる。が、アナベルは構いなく魔法を使った。
『水、集え。傷よ消え去れ、痛いのないない!』
令嬢の全身が治癒を促す青い光に包まれる。
「嘘。足が痛くない……それに、顔の傷もなくなってすべすべだわ。すごい、これが魔法……」
令嬢は座り込んだまま、己の頬を両手で包み込むようにするとその目を零れ落ちんばかりに見張った。
感動と驚きが綯い交ぜになった表情でアナベルを見上げている。
「骨が折れている様子はないから、家に帰って治療すればそれで問題ないとは思ったのだけど、それまで痛い思いをするのは可哀想だから。頬のほうは、時間が経てば綺麗に消えるでしょうけど、顔の傷は早く治った方が良いかと思って……」
余計なお世話だったかな、と思い苦笑した。
そうして、足の怪我が治っているのに立とうとしない令嬢と目線を合わせるように、アナベルはその前にしゃがみ込んだ。
同時に、馨しい香りが令嬢からふわりと寄越される。アナベルの鼻腔を心地良く擽った。
「いい香り……」
思わずうっとりしてしまう。
すっきりとした爽やかさと甘さを併せ持つ、これまで一度も嗅いだことのない素晴らしい香りだった。
市販品にこれほどの香水があるとは思えない。この令嬢は、とても腕の立つ調香師を抱える上級貴族の家の人間なのだろうか。
「香り? あ……これは、今朝ようやく咲いてくれた子のものです。お褒め頂きありがとうございます。苦労して咲かせた甲斐があります」
怪訝な声をあげた令嬢は、己の右腕を鼻に近づける。
軽く匂いをかぐようにすると、合点がいったようににっこりと微笑んだ。
こちらを見るその目は輝き、笑みを湛える口元も力強く自信に満ち溢れている。転んでべそをかいていた人間と同一人物とはとても思えなかった。




