026.夢
この部屋はセインの寝室だったの?
アナベルは思いも寄らない事態に驚き慄く。
すると、セインのほうも動揺しているのが伝わってきた。
「まさか、ここに君を案内するとは……」
参ったな、と呟きながら彼は首筋を掻いた。
アナベルは多大な緊張に襲われながらも、寝台から少し離れた場所に置かれた柔らかそうな布張りのソファに目を留める。
横になって眠るのに充分な大きさがあった。
「わ、私はあちらのソファで寝ますので。セインはどうぞごゆっくりお休みください。眠りの邪魔など致しません」
伝える声はどうしても震えてしまう。
この家の者達は、恋人同士の婚約者なのだから同じ寝室のほうが良いと考えたのだろうか。
そうだとすると、別に部屋を用意してもらうというのは不自然だ。偽装婚約をきちんとやり遂げるためには同じ部屋で過ごさねばならない。
とはいえ、ひとつしかない寝台に上がって眠るというのはとんでもない話だ。
大人が十人くらいは横になれそうな大きな物なので、端っこの方で寝かせて貰うのであれば邪魔にはならないように思う。が、未婚の身で殿方と同じ寝台に眠るというのはだめに決まっている。
「待ってくれ。こちらに来て話をしてほしい。君が恐れるような真似など何もしないと誓う」
そそくさとソファへ移動しようとしたアナベルを、セインがそう言って止めた。
「!」
恐れるような真似、という言葉にあれこれ妄想の翼が羽ばたいてしまう。
殿方とお付き合いをしたことがなくとも、高等学院ではその手の話が良く飛び交っており、アナベルはすっかり耳年増だった。
高等学院は淑女となるべく厳しい教育の施される場所である。が、婚約者持ちや有望な殿方との婚約を望む貴族令嬢が学生の大半を占めており、そうした話に興味を持つ者が数多く存在したのだ。
アナベルはセインの言葉に余計に緊張が増し、全身が赤く染まるありさまとなった。
だが、こちらをじいっと見ているセインに、嫌ですとは言えない。
それを言ってしまうと、あなたのことを信用しないと言ったも同然だ。大切に思う人に、そんなひどい真似ができるわけがなかった。
アナベルは、胸の鼓動を忙しなくさせながらも、ゆっくりとセインの傍に近づくとその隣に腰を下ろした。
「すまないな。寝室を同じにされるなど、思っていなかったのだろう?」
「はい……」
小さく頷いた際、寝台の脇にあるテーブルに目が行った。
そこには籐で編まれた籠のような物が置いてある。ふかふかの絹のクッションが敷かれたそこで、きゅきゅが丸くなって眠っていた。
心地よさそうなその寝姿に気持ちが和み、緊張が多少解れた。
「私が皆に上手く言っておかねばならなかったな……」
申し訳なさそうな顔をしてこちらを見るセインに、アナベルは首を横に振った。
驚きの展開ではあるが、セインに謝ってもらいたいとは思わない。わざとやってアナベルを困らせて楽しんでいるならいざ知らず、セインにはそうした意図がまったく感じられないのだ。
ならばこれは不慮の事故である。怒るようなことではない。
「私はね……この年まで誰も娶らず、両親に子供の誕生を見せてあげられなかった。二人ともそれを案じながらこの世を去り……この家の者達は皆それを知っている。だから、君の存在が嬉しくてたまらないのだ。一日でも早く子が産まれればいいと思っているのだろうな……」
「セインも、両親を亡くされているのですよね。私と同じ……」
アナベルと結婚するとセインが知らせた際の、ダニエル達が見せた喜びようを思い出す。
魔法使いの血がマーヴェリット家に再び入ることと共に、ようやく結婚する気になってくださったのかと物凄い勢いで安堵していた。
だからこの状況は、一日でも早くセインの子供が見たいとのダニエル達の切なる願いゆえなのだろう。
貴族は家の存続を何より重んじており、その為には当主の後継者は必須である。
曲がりなりにも伯爵家の娘だったのだ。アナベルにはダニエル達の気持ちがよくわかる。なので、腹が立つようなことはないが、偽装婚約者には荷が重すぎる。
「元々母は身体の弱い人で、医師や魔法使いにどれほど診せても芳しい成果は得られなかった。それでも父は一目見て恋をした母とどうしても添い遂げたいと思ったそうで……結婚は体力的に無理があると渋る王家に対し……あらゆる手を使って降嫁にこぎつけたそうだ。父は、母が自分の手を取ってくれたあの時ほど、己がマーヴェリット公爵であるのを嬉しいと思ったことはないと真顔で言うような人だった」
苦笑しつつもどこか楽しげに父親の話をするセインに、アナベルも口許が綻んだ。
「父君様は、一途な方だったのですね」
自分の父と似ていると思い、気持ちがほっこりする。
同じ部屋で休むなどどうしようと気が焦ってならなかったかが、こうして話していると落ち着いてきた。
それと共に自覚する。貴族の令嬢たちとの結婚を断るための体の良い弾除け役の自分に、セインが何をすると言うのだ。
それどころか、今は二人きりでゆっくりとセインの話が聞ける良い時間である。自分は今とても得をしているのだ。
アナベルは、あれこれ余計なことを考えてしまった己の意識過剰を反省した。
「そのとおりだ。母は結局私一人を産むのが限界で……それでも父は、愛人を側に置き他の子供を求めるような真似は一切しなかった。母が王女であったから遠慮したのではない。母しか好きになれないのだと、これまた真顔で言っていた。そんな父を母もこよなく愛したのだが、無情にも寿命は尽きてしまい私が二十九の時に亡くなってしまった……」
心持ち項垂れたセインの背を、アナベルは自然と手を伸ばし、そっと撫でていた。
「私の父と同じですね。母は男の子を生むことができませんでしたので、その死後、父には数多くの再婚話が来ました。ですが軒並み断って独り身を貫き亡くなりました。それもあって私はブルーノと結婚を決められていたのですが……ブルーノは嫌いでも、父が他の女性を娶って子供を作ってくれていたら、とは思わないのです」
アナベルは母だけを一途に愛しきった父が好きなのだ。
自分も、愛する人にそのように愛されたいと思う……。
「君もご両親を亡くされていたのだったな……」
今度はセインがアナベルの頭を撫でてくれる。優しいそれが、とてもあったかくて心地いい。
「……あの、セインは三十歳の時に公爵になられたとお聞きしたのですが……もしや、父君様は母君様が亡くなられてすぐにお亡くなりになられたのですか?」
二十九の時に亡くなったというのを聞いて、そこに引っ掛かりを覚えたのだ。
「そうだよ。父は、母の死に心が耐え切れなかったのだ。まるで後を追うかのように、その一年後に亡くなった。母が迎えに来たのではないかと思うくらいで……羨ましいほど、私の両親は一途な愛で結ばれていたのでね」
しみじみと語るセインにアナベルは、心が死すことで身体も死んでしまうというのを初めて知った。
代わりの人など見つからない愛。
それは、人によっては重いと感じるものかもしれない。でも、アナベルはそうした愛の形を美しいと感じた。
「一途な愛……」
呟きを口に乗せると、ジャンが語ってくれたセインの夢というのに思い至った。
「うん?」
「ジャンが、セインは女性に夢を見ていると言っていました。結婚に消極的なのは、陛下にお子がいらっしゃらない以上に、その夢が関係しているのだと……」
「あの男、余計なことを……」
セインがしかめっ面をする。ぶつぶつジャンに文句を言う姿が妙に可愛らしくて、アナベルはくすりと笑った。
「ご両親様のお話を聞いてその夢とは、セインを一途に想う心を持つ女性なのではないかと思いました」
両親のことを心底羨ましいと思っているのが、セインの雰囲気からとてもよく伝わってくるのだ。
だからアナベルは、セインが女性に求めるのは一途な愛だろうと推測した。
でも、セインに一途な愛を捧げる女性というならたくさんいそうだ。
これを夢とまで言うのは大げさなようにも思う。
調子に乗っていらないことを言ってしまったのだろうか……。
己の浅はかな言動を後悔するアナベルに、セインは怒るでなく笑って頷いた。
「当たりだよ。私の夢は、私にマーヴェリット公爵家を見ない女性がほしいのだ」
「えぇっ?!」
思わぬ言葉に、アナベルは頓狂な声をあげてしまった。
セインは当たりと言ったが、それは一途とは大幅に違うように思う。
公爵その人に対してマーヴェリット公爵家を見ないなど、そんなことができるものか。
『セイン・マーヴェリットです』 と名乗られれば、あのマーヴェリット公爵家ゆかりの方なのね、と思うのはごく普通のことだ。
実際アナベルとて名を聞いた折、公爵で宰相閣下なのかと慄いた。
それが駄目となれば、セインに自己紹介された女性は一体何を考えればいいのだ。これは、理想が高すぎるとか夢というのではすまないのではないだろうか。
セインには生涯独り身、という結末もあり得るかもしれない。
アナベルには理解できない夢の持ち主であったセインに呆然となっていると、セインは寂しげに目蓋を伏せた。
「馬鹿なことを言っていると思うかい?」
「い、いえ、あの……でも、その……」
苦笑交じりの問いに、返答がしどろもどろになってしまう。
はいと言ってしまえばセインを傷つけてしまう。
だが、いいえとも言い難いのだ。
困惑するアナベルにセインは機嫌を損ねた様子はなかったが、暗い気配を纏って肩を落とすと言葉を続けた。
「そうだね。世間を知らない幼女でもない限り、そんなことは無茶な話だと私自身も思うよ。もちろん、私の代で我が家を没落させるなど、そんな無能を晒すつもりはない。だがね、つい……私が公爵でなくなって領地も財産も失い、国政からも遠く弾かれ、どこかの田舎で細々と暮らす身になっても、愛していると言ってくれる人がいないものかと考えてしまうのだよ。諦めきれないのだ」
そう言いながらも、とても悲しげなその声音にセインが己の夢を諦めているのがわかる。
だが、アナベルはその夢ならばあきらめる必要はないと思った。
「それなら、いらっしゃるかと……」
セインが言葉を切ったと同時に、アナベルはぽつりと零していた。
なんだ。セインにマーヴェリット公爵家を見るなというのは、セインが地位も権勢も財産もすべてを失くしても愛せるかということだったのだ。
だったら最初にそうと言ってくれればいいのにと拍子抜けした。
そうであれば、あのように驚いておかしな態度を晒さなくて済んだわけで……アナベルはそれを少し不満に思いつつセインを見つめた。
そんなアナベルに、今度はセインの方が途轍もなく驚いた顔をしていた。ぽかんとして、少し口まであいている。
「それなら、いらっしゃる?」
「はい。セインのおっしゃるマーヴェリット公爵家を見るなと言うのは、何も持たないセインでも夫とできるかということなのですよね?」
「そうだ。無理な話だろう……」
翳りを帯びた面持ちで口元だけを少し笑ませたセインに、アナベルは反論した。
「無理ではありません。私はてっきり、あなた様がセイン・マーヴェリットであると名乗っても、耳にした方は公爵様で宰相閣下であると認識してはいけないと言っているのかと思い、そんな無茶なと驚いてしまったわけです。ですが、公爵でなくとも夫として愛せるかという意味なのでしたら、少なくとも私は気にしません。ですから、探せば他にもたくさん見つかると思いますよ」
やはり、夢、などと大げさに言わなくともいいと思う。
ましてや肩を落とし、この世の終わりのような悲壮感漂う悲しげな風情で言う必要はまったくない。
そうとは知らず間抜けな声をあげてしまったことを詫びるアナベルの両の肩に、セインがそっと手を置いた。
体重をかけないようにしてくれているのがわかって、その優しさには嬉しくなる。
だが、あまり触られているとドキドキしすぎて再び落ち着かない気持ちになりそうだ。
「では、君は……私が何も持たないセイン・マーヴェリットとなってもがっかりしないと言うのか?」
期待と緊張が綯い交ぜになったような視線を向けてくるセインに、アナベルは脳裏に想像の絵を描きなら微笑んだ。
「地位も財もすべて失くして……おでぶさんのセインだけが残る……それは、いいですね」
非礼を忘れ、ぽろっと思ったことをそのまま口にしていた。
このような大きなお城ではなく、アナベルとセインときゅきゅの三人だけが暮らす家。
そこで機嫌よくお菓子を食べて寛いでいるセインを想像し、ふふ、と笑ってしまったアナベルを、その人が呆然とした様子で凝視していた。




