018.ジャンの語る話
「セインはきゅきゅを救ってくれた君に心惹かれたと言っているが、君はなぜ今日会ったばかりのセインの求婚を受けたのだ? 地位や財産目当てというならわかりやすいが、そうは見えないのでね」
夜会がおこなわれるのは一階西にある大広間とのことで、アナベルは衣装の着付けをしていた二階の東から移動している。
隣を歩いて案内してくれるジャンは、セインの話をするのではなくそれを問うてきた。
アナベルの内面を探ろうとするかのように、冷たい光を宿す緑の瞳がこちらを見ていた。
「お話しさせて頂き、人間性に優れた立派な方だと思いましたので……」
そんな話ならばエスコートは断ると不平の声をあげ、人目のある廊下で揉めるのもみっともない。
アナベルは偽装という言葉は抜きにして、セインという人間に感じたことをそのまま伝えた。側近のジャンにならば真実を話しても良いように思うのだが、セインが語らない内は勝手なことをして不興は買いたくない。
「立派な方ねぇ……確かにセインは良くできた人間だ。もう少し他者より自分のことを優先すれば、楽に生きられるものをと思うばかりだよ。だが、君のセインに対する様子は、立派な方に恋い焦がれるというよりも、恩人に忠義を尽しているようにしか見えない」
「!」
廊下を行き来する家人たちが自分たちを見て頭を下げる。
ジャンはその男性たちには軽く目で頷く程度に応え、女性たちにはにこやかに片手をあげて応えながら、アナベルが咄嗟に返事の出来ない言葉を突きつけてきた。
「君がセインに好意を抱いていないとまでは言わない。だが、君のセインを見る目は婚約者に向けるものではなく、敬愛する主に仕える家臣の目だな」
「…………」
恩を返すための偽装婚約であると、何も言わなくても見抜かれているのだろうか。
なんと言って返せばいいのだろうと言葉に思い悩みながらジャンの瞳を見つめると、ジャンは軽く目蓋を伏せるようにした。
「悪かった。君を困らせるつもりはないのだ。私は君たちの婚約に反対しているわけではない。ただ、セインのほうは君に本気のようなのでね……」
「本気……」
ジャンの言葉はセインを案じるが故のものだとわかるも、本気というのは勘違いしている。
偽装を見抜いているのかと思ったが、幼馴染みの側近と言えどそれは不可能のようだ。
そう思うアナベルの心の内など知らぬジャンは、自信ありげな笑みを浮かべた。
「あんなに優しい顔をして女性に笑いかけるセインも、頬にキスされたくらいのことで舞い上がって顔を赤くしている姿も初めて見たのでね。あれは完全に君に参っているよ」
ジャンはそれまでの真率な目をくるりと変じ、面白そうに細めて見せた。
「舞い上がって……参っている?」
まさかの言葉を耳にし、アナベルは首を傾げた。
ジャンの気配に嘘を吐いている様子は感じない。ということは、アナベルがキスをした後セインの挙動がおかしかったのは、照れていたということなのだろうか。
照れるのは、嬉しいからだ。
セインのあの姿に、ジャンたちへ婚約を印象付けるための演技は感じられなかった。
では、セインはアナベルのキスを偽りなく嬉しいと思った……。
「!」
一気に首まで赤く染まるのが、見なくともわかった。
両手で頬を挟んで立ち尽くしてしまう。
偽装なのに、本気でアナベルのキスを喜ぶセインというのを知って、どうしてと疑問を抱くよりも強く喜びを感じて高揚した。
「おや? 婚約は何らかの恩を返すための義理立てで、君の方にはそれ以上の意味はなく、セインは虚しい思いをするのかと案じていたのだが違うのか」
胸の鼓動が忙しなくなり気持ちが落ち着かずにそわそわしてしまうアナベルに、ジャンが不思議そうな声をあげた後、何かに気付いたように会心の笑みを浮かべた。
「ああ、なるほどね! 君はまだ男に恋をしたことがないのだな。そんな状態で婚約などすれば、ああした態度も仕方がない。本当に余計なことを言ってすまなかった。ゆっくりでいいからセインに向かうその気持ちを、恋となるまで育ててくれ」
「恋……育てる……」
その単語に、頭から湯気まで出そうなほど熱くなった。
「君たちの婚約がセインにとっても君にとっても悪い結末とならないよう私は願っている」
「悪い結末は、ないと思います」
これまで側近を務めてきたジャンに比べれば話にならぬ新参者だが、それでもアナベルは、セインの幸せを守りたいと思って側にいるのだ。
その為に自分にできることなら何でもする。
セインが安心して結婚できる未来を手繰り寄せるのだ。悪い結末など、絶対に寄せ付けない。
気合を込めて応えたアナベルに、ジャンは満足そうに笑んだ。
「そうかい。それを聞いて安心した。……あいつは世間では、善良な振りをして陛下の後継の座を虎視眈々と狙う宰相と思われているだろうが、そんな気持ちは一ミリも持っていない人間であると知っていてほしい」
「はい」
もちろん知っている。
だからこそ、この偽装婚約の契約が結ばれたのだ。
「セインは心より陛下を大切に思っている。互いに兄弟の居ない二人は、従兄というより兄弟のような間柄なのだ」
「ご兄弟のような……」
セインと国王の関係は、そんなに親しいのかと心がほっこりする。
それを表情に出していたアナベルに、ジャンが苦笑した。
「だが、陛下は幼少時よりお身体が弱くてね。特にこれという病に罹っているわけではないのだが、すぐに疲れて熱を出してしまうのだ。逆にセインはとても健康で……今の姿しか知らぬ君には信じられないかと思うが、運動神経は良く剣も上級武官並みに使えるのだ。しかも頭もよくてな、父君の前公様は大層満足されていた」
「…………」
頭がいいのはわかっていたが、運動神経も良かったのだ。
初めて知る事実に胸の内で吃驚する。
そのような人がバランスを崩して土手を転がり落ちる……。太りすぎというのはやはり大変だ、と改めて思うアナベルだった。
でも、自分の知らないセインの話が聞けるのは楽しい。
ジャンに付いて来て正解だったと口元をほころばせながら、続く言葉を待った。
「それで、成人として認められた二十歳より、前公様はセインを自身の補佐としてすぐ側で働かせた。セインはその役目を見事に果たし、公爵家の才知に溢れた後継者として名は上がる一方となった。だが、二十七歳であられた陛下の方は……その頃は王太子殿下であるのだが、寝たり起きたりを繰り返すばかりで、三人の妃を迎えても一向に子ができる様子はなく……子を持たぬまま亡くなられるのではないかと王宮では囁かれるようになった」
重苦しい気配を纏い声も小さなものとなっているジャンに、アナベルは表情を改めた。
この先に待っているのは楽しい話ではないと嫌でも察せられた。
「そのことに最も危機感を抱かれたのは、当人の王太子殿下ではなく、殿下の母君である王妃だった。王妃には殿下お一人しか子がなく、他の妃も子に恵まれなかったのだ。このままでは直系の血が途絶え、王家の外戚であるセインが王位に就くことを期待する者が出る。そのように考えられて、マーヴェリット家に玉座を奪われてなるものかとセインを憎まれるようになったのだ」
「憎む……」
セインがいくら玉座を望んでいないと示そうと、王妃は王太子が病弱である限りそれを信じることができないのだ。
人の気持ちばかりは自由にできないものであるが、悲しいことだ……。
「とはいえ、国一番の名門であり王の妹君が降嫁している……しかも当主が、その王の信頼篤い宰相でもあるマーヴェリット公爵家には、王妃といえどそう容易く批判めいたことは口にできない。潰そうなどと画策を試みても逆に自身の方が追い詰められる。王妃はそれも理解していた。そこで極近しい者にのみマーヴェリット家に対する不満を口にする程度で、公には何事もなく済んでいたのだが……セインが二十五となった時、前公様は公爵家の執務に関する補佐だけでなく、宰相の政務に関わる補佐もセインに任せるとお決めになられた」
「それでは、王妃様はますます気持ちが落ち着かなくなったのでは……」
セインが国政のほうにまで出てくる。
そこでさらに名が高まれば、貴族だけでなく一般の民の内にも、子の出来ぬいつ亡くなるかわからない病弱な王子よりも、健康で文武に秀でたその従弟に王位をと望み始めるかもしれない。
王妃がそれを危惧しないとは考えられなかった。
「そのとおり。セインはそれがわかっていたから国政のほうに関わるのはかなり渋っていた。そこを説得されたのは王太子殿下だ。将来は自分を助ける宰相となってほしいから頼むと言ってね……王妃にも何も言わせないともおっしゃってくださったのだが、何事もなくとはいかなかった」
そこでジャンは、はあ、と大きなため息を吐いた。
そして、アナベルの耳元に口を寄せ、傍を通る者が聞き耳を立てたとしても聞こえないような声でそっと囁いた。
「王妃は魔法を使ってセインを呪うようになったのだ」




