017.支 度
モリーから最初に勧められたのは入浴だった。
浴室に足を踏み入れたアナベルは、そこで呆然と立ち尽くしてしまった。
「これは現実?」
思わずそんな呟きが零れるほど、大理石で組まれた浴室は白く輝く豪奢な物だった。
こんな物は見たことがない。
神や女神や動物を表現した美しい彫刻がたくさん飾られ、壁には黄金で緻密な模様が描かれている。そして、大人が二、三人同時に入っても余裕があるだろう円形の浴槽には、薔薇の花がたくさん浮かべられていた。
その浴槽には、女神が持つ壺のような物から途絶えることなく豊かなお湯が注がれている。
「彫刻を鑑賞しながら入るお風呂とは、恐れ入ったわ……」
丁寧に体を洗ってから湯船に浸かったアナベルは、肌に触れるお湯の心地良さにうっとりとして目を細めた。
「しかも薔薇のお風呂……」
このようなものを体験できるとは思わなかった。
色鮮やかな花びらたちは目に楽しく、鼻腔を擽る甘いのだが爽やかな香りもアナベルを魅了した。
充分に堪能させてもらってからあがると、淡い青色のドレスが用意されていた。
襟の部分がスクエアカットになっている、高価な絹であると教えられずともわかる着心地のよい品だった。
胸の下あたりに切り返しがあり、そこに大きな同色のリボンが飾られている。
そのリボンにはとても大きな真珠があしらわれており、自分が持っていた夜会用のドレスなど、相手にならない秀逸で可愛らしい品だ。
まさか、これほどの品を用意してもらっているとは思ってもおらず慄くも、モリーの発した言葉はアナベルの想像にないものだった。
「今宵の会が終了するのはおそらく日付が変わるころだと思います。会のさ中は、アナベル様にお食事のできる余裕はないかと思いますので、今の内に召しあがっておいてください」
「食事……」
言われてみれば確かに、アナベルは今宵の会の主役であるセインの婚約者として紹介されるのだ。多くの招待客たちに挨拶せねばならない。
おなかがすいても食事を優先するなど許されないだろう。
でも、おなかがすいてフラフラの状態でまともな挨拶などできるとは思えない。そんなことになれば、セインに恥を掻かせてしまう危険に繋がる。
アナベルはそれを回避するモリーの気遣いに礼を述べ、食事を摂らせてもらった。
その際、自分よりも少し年が上であろう二人の少女を紹介される。
「セルマとロージーでございます。この二人が、アナベル様の侍女となります。至らぬ点がありましたら、何なりと私の方にお知らせくださいませ」
「初めましてアナベル様。セルマと申します。よろしくお願いいたします」 「初めましてアナベル様。ロージーと申します。よろしくお願いいたします」
二人は、こちらに向かって丁寧に頭を下げた。
セルマと呼ばれた少女は、肩の辺りで真っ直ぐに切りそろえた茶色の髪に水色の瞳を持つ生真面目な雰囲気の持ち主だった。
そして、もう一人のロージーは、ウェーブのかかった白金の髪を綺麗に纏めた、くりっとした茶色の瞳が愛らしい少女だった。
二人とも、まっすぐな気質の善良な人間であることが、その身に纏う気配から察せられる。
モリーの言った通り、二人は気の良い働き者なのだろう。こちらを見ている好意的な目からも、充分にそれが窺えた。
「こちらこそ、よろしく……」
偽装の婚約者の面倒など見させてごめんなさい。
主の婚約者に懸命に仕えようとしている二人に、アナベルは心の内で詫びながら顔には笑みを浮かべた。
「では、アナベル様。お食事も終わりましたようですので、今宵のドレスの微調整に入らせて頂きたいと思います」
ロージーの言葉に、アナベルは小さく首を横に振った。
「調整はいらないわ。このドレスぴったりだもの」
二人の手を煩わせる必要はないと思い伝えるが、ロージーとセルマは不思議そうな顔をしてモリーを見た。
すると、モリーが苦笑して思わぬことをアナベルに言った。
「アナベル様に今宵の会でお召しいただく物は、そちらではございません。そちらは、この食事用の物です。夜会にお召しいただくなどそのような無礼な真似をすれば、私たちが公爵様に叱られてしまいます」
「これが、食事用……」
モリーの表情はいたって大真面目である。嘘を吐いている様子は微塵も感じられない。
そして、ロージーもセルマもモリーの言葉に頷いている。
アナベルが、とても上等で素晴らしいと思ったドレスは、この家では普段使いであり夜会に纏うべき物ではない、となるのだ。
つくづく、マーヴェリット公爵家とはとんでもない存在だ……と思い知らされた瞬間だった。
半ば呆然としつつアナベルは場所を移し、モリー、セルマ、ロージーの手により夜会用のドレスを身に纏った。
そして、淡い青色のドレスは夜会用ではなく食事用だというのを身をもって実感した。
夜会用にと用意されていたのは、首周りに生地のない肩まで大きく開いた桜色のドレスだった。
腕の部分は透ける素材で作られており、裾に行くに従って色が淡くなりながら優美に広がっている。しかもそこに、美しく輝く小さな宝石を小花を模した飾りとなるよう、桃色と白の糸を用いて縫い取り散らしていた。
胸許は同じようにして作られた少し大きな花で飾られ、スカート部分は桜色と白の絹地が段々にして重ねられた、こちらも裾に向かってふわりと広がる形である。
滑らかで光沢のある生地はとても貴重な物のように思うが、それ以上に、間違いなく本物の宝石であろう物を惜しげなく各所に縫い取りしているというのがとんでもない。
これが夜会用なのね……と、想像のしようもなかったドレスに心の内でアナベルが乾いた笑いを零している内に、自分以上に裁縫の上手い三人の手により、ドレスの微調整は恙なく終わっていた。
次いで化粧も施し、髪もきちんと結い……髪飾りは大粒のダイヤとピンクダイヤが使用された品だった。
博物館に飾っておけばよいと思うような眩く輝く気品漂うそれは、モリーにより躊躇いなくアナベルの栗色の髪に飾られた。
月の欠片のお礼とはいえ、とんでもない人との偽装婚約を引き受けてしまったものだ。
鏡に映る、価格が想像できないほど高価な品で飾られた、自分とは思えない自分の姿に心底そう思うアナベルだった。
◆◆◆
「アナベル様はこちらにいらしていると聞いたのだが……入ってもよろしいか?」
すべての支度が終わり精神的に疲れたアナベルは、椅子に腰かけ一息ついていたが、ノックと共に聞こえたジャンの声に瞬きした。
「アナベル様。よろしいですか?」
入室許可を出してもいいか、とのモリーの問いにアナベルはもちろん頷いた。
するとすぐさまその意思がモリーからジャンに伝えられ、扉が開く。
「おおー、素晴らしい! やっぱり、美人さんは美しく飾るとより良いものだな。美しくも可愛らしい。まるで春の妖精のようだ! セインより先に見られて役得役得」
アナベルと目が合ったジャンはその瞳を輝かせ、興奮した面持ちにて褒め称えた。
「ありがとうございます……」
褒められているのだから礼は言わねば、と思い、小さく頭を下げる。
でも、褒めすぎのように思う。
それとも、病気のように女性に見境がない、という人ならば、これで普通なのだろうか。
「顔も整っていて、色白で手足が長く体型も言うことなし。それで性格も良い白黒上級魔法使いなど……セインの奴、本当に羨ましい……。これなら、あの侯爵令嬢も引き下がるしかないな」
満足げにうなずいているジャンに、アナベルははっとする。
そうだ。高価すぎる衣装に気後れしている場合ではない。
結婚したくないセインの弾除けとして、立派に役目を果たすためには、何事にも毅然としていなければならないのだ。
その気持ちを胸に居住まいを正していると、ジャンが申し訳なさそうに言った。
「実は、財務大臣殿の話がまだ終わらないのだ。それで、君が自分を待って時間を持て余しているのではないかとセインが案じていてね……」
「大丈夫です。モリーもロージーもセルマも良い話し相手になってくれてますから」
忙しい身であるのに、セインはアナベルのことまで考えてくれているのだ。その優しさに胸の高鳴りを覚えつつ、本心からの気持ちを伝えると、ジャンが安堵の笑みを浮かべた。
「そうかい。それならいいのだが……そろそろ夜会が始まる時刻だ。セインが言うには、自分は少し遅れるが君は先に会場に入って雰囲気に慣れておいてはどうだろうか、とのことだ」
「慣れる……」
アナベルは先になど行かず、セインの仕事が終わるまでここで待っているので一向に構わない。
だが、待っていると言えば、セインはアナベルが自分に気を遣っていると考えそうだ。
そうすると、余計にセインはアナベルのことを考えるだろうから、仕事の邪魔になるかもしれない。
ここは言うことを聞いて安心してもらうのが一番のように思う。
「主役が遅れて登場というのもおかしな話だが、顔を見せないと言われていたセインが出てくるだけでも皆満足するだろうから、挨拶の時間が多少遅くなっても構わない。ということで、私がエスコートするので一緒に行こうか」
朗らかに微笑むジャンに、アナベルは首を傾げた。
「ジャンは……セインの側にいなくていいのですか?」
「いいよ。財務大臣殿の話は半分以上がただの愚痴だから二人で聞く必要などない。セインもそう思っているから、私を君の所に寄越したのさ」
「そうですか……」
アナベルが相槌を打つと、ジャンが楽しげな声音で言った。
「私にエスコートを任せてくれるなら、セインの話をしてあげるよ。どうだい、婚約者としては気になるのではないかな?」
「なります。是非ともエスコートをお願します!」
アナベルは勢い良く立ち上がった。




