101.悪 夢
「すみません。夕食もいただこうと思っていましたが、無理そうです……眠らせてください」
襲い来る眠気に耐え切れず、アナベルは頭からテーブルに突っ伏しそうになった。
「おっと!」
「ありがとう……ございます……」
セインが腕を差し出して支えてくれたおかげで事なきを得るも、アナベルの目蓋はもう開きそうにない。
「お疲れ様。ゆっくりお休み。夢は楽しいものを見るといい。あの男のことなど考えず、疲れを癒すことだけを考えるのだよ……」
子守歌のように優しい声に頬が緩む。
身体がふわりと宙に浮いた。セインが抱き上げてくれた胸元で、アナベルは安心して目蓋を閉じる。
しかし、アナベルに訪れる夢は楽しいものではなく……。
どこまでも暗く、残虐なものだった。
◆◆◆
「都合のいい暗殺武器だな。標的に触れるだけで、息の根を止められるなど……」
「まさか、王宮魔法使いの長官にも効果があるとは思わなかった。ベリル一の白魔法使いよりも、私の毒のほうが強いなど、愉快だ」
見覚えのない場所で、知らない男とブルーノが話をしている。
毒とは……まさか、前長官を死に追いやった毒呪のことだろうか。
不吉な内容に、アナベルは寒気を覚えて身震いした。
「警備は厳重と聞いていたから、難しい仕事になると思っていたが……存外、時間を食わずに済んだな」
男が目の前にある、縦に長い長方形の箱を慎重に持ち上げた。
アナベルが同じ部屋にいて、その姿を見ているのだが、二人はまったく気にせず会話を続けていた。
「レオ。それを持って帰るのか? 燃やしておけとのご命令ではなかったか?」
ブルーノは男をレオと呼び、怪訝そうに問うた。
二人には邪悪な気配が色濃く纏わりつき、なんだか血の匂いまで感じてアナベルは吐き気を覚える。
アナベルは、元々ブルーノの上昇志向が強く刺々しい気配を好まないが、いま目にしているブルーノの気配はそれどころではない。ここまで気味が悪く嫌悪を覚えるのは初めてだった。
なんだか、人間ではなく別の生き物に変じてしまったようにさえ感じる……。
「マーヴェリット公爵の傍には、凄腕の女魔法使いがついている。灰など残して、魔法で復元されては私たちがここに来た意味がない。それに、これはとても貴重な物だ。処分はお見せしてからのほうがいい」
「そう言うなら、好きにすればいいさ。これで私は役に立つと、あの方々に信じていただける」
ブルーノが腕を組み、満足そうに笑ったその時。彼の足に、誰かの手が触れた。
前長官と同じく、どす黒くなっている手だった。
「そ、それは……公爵様の物だ……慮外者が、汚い手で触るな。置いて、立ち去れ……」
初老の男性は、虫の息でありながらも必死の形相でブルーノたちを睨み付けていた。
アナベルは慌ててその男性を助けようとするも、触れることはかなわない。どれほど呪文を唱えたところで、魔法もまったく発動しなかった。
「素直に我が主の招きに応えてこれを育てていれば、稀代の育種家として全世界に名を馳せ、こんなところで死ぬこともなかっただろうに。頑なに、マーヴェリット公爵の傍を離れなかった己が悪いのだぞ……愚かな奴」
箱を持つレオが、初老の男性を嘲りながら見下ろした。
「しつこいな。さっさと死ねよ」
ブルーノが掴まれている足を動かし、男性の手を振り払う。
『ブルーノ。なんてことを!』
アナベルはブルーノを非難するも、彼に声は届かない。
「ぐっ……あ、ぅ……」
男性が身を丸め、胸を掻きむしるようにしてあえぐ。
口から泡を吹く苦し気なその姿に、前長官の最期が重なる。
だが、どんなに助けたくても、アナベルはその光景を見ているだけの存在だった……。
「ブルーノ。おまえ、本当に便利な武器と同化できたものだな。屈強な警備兵どもであっても、おまえが殺意を抱いて触れるだけで皆死んだ。しかも、武器にはおまえの気配や姿を視認されにくくする特殊効果もあるなど……もともと運動能力も高いようだし…………暗殺家業にうってつけの人間となったな」
ブルーノに機嫌よく語りかけ、レオが颯爽と部屋から出て行く。
毒呪が発動する上に、気配隠しと人の目に姿が映らなくなる暗殺武器とは……。
まさか、ブルーノは特別な魔法道具でも手に入れたのだろうか。
もしそうであれば最悪だ。
顔を顰めたアナベルは、レオが歩を進めるたびに、自身の見ている景色が変わっていくことに気がついた。
レオの見ている景色をアナベルも共有し、廊下に数多くの人間が倒れている姿を目の当たりにした。
皆、肌はどす黒く、苦悶の表情を浮かべて亡くなっている。おそらく警備を担当していたであろう人間たちのあまりに残酷な姿に、アナベルは息が止まるかと思った。
「出世して、お嬢様と貴族最高位の地位を得るためなら、何でもするさ」
レオの後に続くブルーノが、力強く言った。
「次は、マーヴェリット公爵とあの女魔法使いをうまく仕留めてくれ」
「やってやるさ。何が宰相だ。あんな豚が偉そうに……何が魔法使いだ。田舎育ちの地味女が公爵夫人など、誰がそんなふざけたことを許すものか!」
ブルーノがセインとアナベルを罵りながら、怒りと憎悪を滾らせた。
セインを中傷するのがどうにも許せない。むっとしてブルーノを睨むと、彼の全身からアナベルの解呪出来なかった毒呪の気配が噴き出していた。
「その気持ちを忘れないことだ」
冷酷な目をしたレオは、口角を少しあげてブルーノに笑いかける。そのまま、大勢の亡骸の間を悠々と歩いて屋敷から出た。
レオの傍に次々と人間が駆け寄ってくる。
レオがその人間たちに頷いて見せると、あらかじめ決めてあったのだろう。彼らは特に言葉を求めることなく動き始め、瞬く間に屋敷は炎に包まれた。
『逃げて! 生きている人、逃げて!』
炎を消す術のないアナベルが生存者を求めて必死で叫ぶと、視界が変わった。
男が箱を手にした部屋に、再び戻っていた。
『おじいさん。おじいさん! お願い、起きて。火が来るから逃げて!』
自分の声は相手に聞こえない。助けとなる魔法も使えないとわかっていても、アナベルは倒れ伏す初老の男性に向かって懸命に呼びかけた。
「……うっ……」
男性の目が、微かに開く。その目は、確かにこちらを見た。
『おじいさん……魔法をかけてあげられなくて、ごめんなさい』
どうして自分はこんな光景を見ているのか。理解できない。
それでもアナベルは、目の前の老人を救えないことが申し訳なくて、頭を下げていた。
「最期に、薔薇の精霊に会えるなど、なんと嬉しいことか……」
『薔薇の精霊?』
辛そうに息を吐きながらも、こちらを見た男性は本当に嬉しそうに笑っていた。
「薔薇の精霊が寄り添う人間は、素晴らしい薔薇を育てることができる……私はそれを信じて生きて来た……今、この時……寄り添ってくれて、ありがとう。これで、あの漆黒は私の最高傑作だと……胸を張って言える……」
『おじいさん……』
感謝の眼差しを向けられて、薔薇の精霊ではないアナベルは胸が痛む。
正直に言わなければと思うも……それをすればこの老人をがっかりさせてしまう。そう思うと、どうしても言えそうになかった。
「公爵様に、この先も薔薇を咲かせて、喜んでいただきたかった……大した才もない、ただ、薔薇を育てることが好きなだけの私を……信頼して、好きなだけ研究させてくださった前公様、公爵様……もう、お役に立てそうにありません……」
『おじいさん!』
この世に最期に残す言葉をつぶやいているとしか思えない男性に、アナベルは目頭が熱くなり、涙が止まらなかった。
「薔薇の精霊よ、お願いだ……公爵様以外の者が、あの薔薇を王太后様に献上されないように……どうか、枯らしておくれ。あの薔薇を守れなかった私の、最後の願いだ……あれは、公爵様のためだけにお育てした物なのだ……守れず、申し訳ございません……」
『おじいさん! 薔薇を枯らすと約束はできない。でも、セインは……公爵様のことは絶対にお守りします。あなたを襲った卑怯者たちが喜ぶようなことにはしない。それだけはお約束します!』
何とか届いてほしいと、アナベルは全身全霊で声を振り絞った。
「公爵様を守ってくれるなら……それが、なによりだよ。ありがとう精霊さん」
声は届いたようで、男性はその瞳から一筋涙を零すと、安堵の笑みを浮かべた。
『おじいさん……』
「弱き者にお優しいあの方は……本来ならば、歩まなくてもいい茨の道を歩む……気苦労の絶えぬお人なのだ。……どうか、幸せに生きられるように、守って………」
助ける術のないアナベルの見ている前で、男性は息を引き取った。
この場にまで炎の手が迫り、屋敷全体も燃え落ちてゆく……。
ブルーノの邪悪な笑い声が、男性の死を嘆くアナベルの耳にいつまでも木霊した。
◆◆◆
「おじいさん!」
「アナベル。アナベル!」
「……っ!」
自分の名を呼ぶセインの声が聞こえて、アナベルは目を開けた。
同時に自身を真上から見下ろしている黄金の瞳と目が合う。どき、として身体が震えた。




