第1章 パート2:鉄格子の長屋とFクラス
馬車に揺られること半刻。車輪の軋む音が止まり、外側から閂の外される鈍い金属音が響いた。
「降りろ。着いたぞ」
幌馬車の後部扉が開かれ、冷たい風と共に湿った土埃が荷台へ吹き込んできた。
急かされるように荷台から泥土の上へ飛び降りた子供たちは、目の前にそびえる光景を前に足を止めた。
広大な敷地の最果てに建っていたのは、朽ちかけた木造三階建ての細長い長屋だった。
外壁の漆喰は広範囲に剥がれ落ち、下地の黒ずんだ木骨が剥き出しになっている。どの窓にも不釣り合いな太さの鉄格子が嵌め込まれ、建物の外周を有刺鉄線の柵が幾重にも取り囲んでいた。
敷地の奥、白亜の巨壁に守られた豪奢な学舎や演習場へと続く通路は、黒錆の浮いた重厚な鉄格子門によって完全に遮断されている。
「……ここが、魔導学園なのか?」
誰かの震える呟きを、冷え切った男の声が切り捨てた。
「そうだ。今日からここが貴様らの寝所であり、働く現場だ」
灰色の外套を着た男——ヴァルター監察官が、名簿の束を革手袋で叩きながら歩み出てきた。
下級貴族特有の締まりのない顔つきに、平民を道具と同等に見下す平坦な眼球。
「貴様らは『Fクラス』。軍の正規枠にも職能ギルドにも拾われなかった余剰人員だ。だが、神の慈悲によって身体を動かす程度の初期値は与えられている。【雑草抜き】だろうが【泥運び】だろうが、この学園を動かすための燃費のいい消耗部品として、飯代の分はきっちり働いてもらう」
子供たちの間から、息を殺すような沈黙が広がる。
反論など許されない。身分と恩恵の数値こそがこの国の法だ。
ヴァルターの視線が名簿の末尾を滑り、列の端に立つノアの上で止まった。眉根が不快そうに歪む。
「……名前は、ノアだな」
「そうだ」
「全項目補正ゼロ、保有スキル【観測者】。……魔導士としての適性もなければ、力仕事の足しにもならん規格外の欠陥品だ。なぜ上に引き取りを命じられたのか理解に苦しむが、規則は規則だ。精々、現場の邪魔にならんようゴミ拾いでもしていろ」
周囲の子供たちから、嘲りの混ざった視線が一斉に突き刺さる。
自分たちも底辺に落とされた身でありながら、さらに下の「絶対的な無能」を見出したことで生じる、浅ましい安堵。
「部屋割りだ。一階から順に四人一組で入れ。荷物はその場に置け」
ヴァルターの短い指示で、子供たちが長屋の入口へと雪崩れ込んだ。
腐った木材と湿ったカビの臭いが鼻腔を突く。薄暗い廊下を歩き、指定された一階の部屋の板戸を押し開けると、粗末な二段ベッドが二つ並んでいた。
すでに先客がいた。
「あ?」
入口の物音に反応し、下段のベッドから身を起こしたのは、筋骨の逞しい大柄な少年だった。同じ新入生のガルドだ。手足を覆う作業着の袖をまくり上げ、鋭い目つきでノアの細い身体を睨み据える。
「おいおい、冗談だろ。なんでこんなガリが同じ部屋に来るんだよ」
ガルドが床に唾を吐いた。神殿の判定で【荷運びの足】を引き当て、新入生の連中をすでに腕力で従え始めている男だ。
「ここでの配給は部屋ごとの作業効率で決まるって話だぞ。こんな骨と皮だけの役立たずと同室になられたら、俺たちの飯まで減らされる」
ガルドが太い腕を伸ばし、ノアの胸元を小突こうと踏み出してきた。
その時だった。
「無駄な体力を使うな」
上段のベッドから、気だるげな声が落ちてきた。
ガルドが眉を吊り上げ、上段を睨みつける。
「あ? 誰だてめえ」
毛布を跳ね除け、身を起こしたのは、日に焼けた肌に無数の切り傷が刻まれた少年だった。擦り切れた作業着は泥に染まりきっている。
「ダリルだ。この部屋で二年やってる。……外で監察官が見張ってるぞ。揉め事を起こせば部屋ごと全員、今夜の飯を抜かれる」
二年。その言葉と、男の身体に刻まれた傷の深さに、ガルドの喉がわずかに鳴った。今日運ばれてきた新入りではない。この吹き溜まりで生き延びてきた古株の放つ空気に気圧され、ガルドは舌打ちして伸ばしかけた腕を引っ込めた。
「あっそ。勝手にしろ、出来損ないが」
ノアは何も言わず、一歩下がって板戸の枠に手をかけた。
「……部屋なら、他を探す」
背後で乱暴に板戸が閉ざされた。
怒りも屈辱もない。むしろ、他人の視線がない単独の空間を確保できるなら、その方が都合が良かった。
ノアは薄暗い廊下の突き当たり、軋む階段の真下に目を留めた。
壊れたモップや埃まみれの雑巾が押し込まれている、わずか二畳ほどの「元・清掃具入れ」だ。
外にいたヴァルターへ「あの物置を使う」と告げると、監察官は侮蔑を隠そうともせず吐き捨てた。
「勝手にしろ。そこで野垂れ死んでも、誰も拾いに来んがな」
板戸を引き、内側から壊れたモップの柄を横木に差し込んで閂を落とす。
外の喧騒が遮断され、完全な暗闇が落ちてきた。
床板の隙間から吹き上げる隙間風が冷たい。ノアは壁に背中を預け、冷え切った両手を擦り合わせた。
(ここなら、誰の目にも触れない)
ノアは上着の合わせ目を緩め、自身の胸元に掌を当てた。
大聖堂で水晶に触れて以降、思考の端で微弱な雑音が絶え間なく明滅している。
神官は「遠くが見えるだけの外れ値」と断じた。だが、指先を通り抜けていったあの整然とした冷たい気配は、そんな曖昧な視覚拡張とは明らかに異質だった。
(……試すなら、今だ)
三年前、十五を迎えて【重装歩兵】を授かった孤児院の兄貴分——レオンが言っていた。
『体の中にある魔力を意識して、胸の奥にできた型へ流し込むんだ。そうすりゃ、勝手に身体がカチッと噛み合う』
だが、ノアには魔力がない。数値はゼロだ。
レオンの言葉通りに胸の奥へ意識を集中させても、注ぎ込むべき燃料が体内に存在しない以上、回路は何の反応も示さなかった。
(だが、大聖堂で水晶に触れた瞬間、確かに回路へ何かが触れた感触があった)
あの時、指先から全身へ駆け抜けた悪寒と、心臓を直接爪で引っ掻かれたような強烈な消耗感。
正規の燃料である魔力がないのなら、あの時、水晶は何をトリガーにして反応したのか。
(……魔力じゃない。肉体の『生命力』そのものを喰って動いたのか?)
危険すぎる仮説だった。一歩間違えれば、ただスキルを試そうとしただけで心臓が止まる。
だが、全項目補正ゼロの自分に、安全な選択肢など残されていない。
このまま使い捨ての労働力として数ヶ月ですり潰されるか、命を削って未知の回路をこじ開けるか。選べる手札など、最初から手元にはなかった。
ノアは奥歯を噛み締め、呼吸を止め、胸の奥の回路へ己の『命の残量』を直接擦り付けるように意識を沈め込んだ。
瞬間——。
頭蓋の芯を、灼熱の太針で貫かれたような激痛が走った。
「っ……!」
喉から空気が抜け、肺胞が痙攣する。
毛細血管が焼き切れるような熱感と共に、鼻の奥から生温かい液体が溢れ出し、唇を伝って顎から床へボタボタと滴り落ちた。血の味。
網膜の裏側が激しく明滅し、視界が白濁する。
だが、ノアは目を逸らさなかった。
血走った瞳を見開き、暗闇の空間を凝視し続ける。
視界を覆っていた闇が、無数の乱数とノイズによってズタズタに引き裂かれた。
意味を成さない文字列の奔流。処理しきれない情報量が脳を圧迫し、激しい眩暈が襲いかかる。
(……情報が多すぎる。絞れ。手前の、最小のオブジェクトだけに集中しろ)
奥歯から血の泡を噛み潰しながら、焦点を目の前の板壁へと狭めた。
視界の歪みが一瞬だけ収まり、暗闇の中に淡いグリッド線が走る。
板壁の木目に沿って、掠れた緑色の文字列が浮かび上がった。
【オブジェクト:間仕切り板(杉材)】
【耐久値:12 / 40】
【損耗率:68%】
(……読める)
文字通りの意味で、世界が構造として記述されていた。
前世で何千回と睨み続けた、オブジェクトの内部パラメーター。
神官たちが使い道を理解できなかったのも当然だ。これは剣技や魔術のような世界の内側の力ではない。世界の構築データを直接読み取るための、規格外の権能。
その時、網膜の端を走るログが突如として赤黒く濁った。
頭蓋の奥で、警報に似た耳障りな高周波が鳴り響く。
『Warning:未定義の過負荷を検知』
『Error:局所領域における演算破綻』
『Warning:暗渠バイパスの流入帯域が逼迫』
(……なんだ、このログは)
激痛で軋む首を動かし、視線を板壁の向こう側へと向けた。
学園の広大な敷地を抜け、さらにその先——北西の断崖の頂にそびえる、孤高の石塔。
【観測者】の視界を通したその場所は、周囲の空間そのものが赤黒いノイズに侵食され、まるでガラスが歪むように不気味な軋みを上げていた。
限界だった。
頭の芯が破裂しそうな圧迫感に耐えかね、ノアは回路の接続を即座に遮断した。
視界から文字列が消え去り、元の冷たい暗闇が戻る。
膝が折れ、泥だらけの床板へ前のめりに倒れ込んだ。
咳き込むたびに口から血がこぼれ、心臓が肋骨の内側を乱暴に叩き続ける。
ノアは荒い息のまま手首の内側を指で押さえた。
指先に伝わる拍動は浅く、ピッチだけが無闇に跳ね上がっている。一度の起動で、生命力が確実に数ポイント削り取られていた。
無制限に使える力ではない。一歩間違えれば、ただそれだけで自分の肉体を焼き切って死に至る。
だが、冷え切った床に額を押し当てながら、ノアの意識は冴え渡っていた。
あの北の塔を取り巻いていた、空間すら歪める赤黒い警告ログ。
(あそこに、何がある)
拭った袖に付着した血の匂いを嗅ぎながら、ノアは暗闇の奥、北の方角をじっと見据えていた。




