序章:最弱の肉体と泥にまみれた15年
初作品です。
冷たい雨の降る深夜のオフィス。
等間隔に並んだパソコンのモニターから放たれる青白い光だけが、人気のないフロアの闇を照らしている。
「……くそっ、またここでフリーズしやがる。原因のログはどこだ……」
安物のオフィスチェアに沈み込み、充血した目で画面を睨みつけているのは、二十代も半ばを過ぎたしがないゲームデバッガーだった。
彼の担当しているプロジェクトは、誰もが匙を投げるような惨状を呈していた。
発売日はとっくに過ぎているというのに、上層部の思いつきによる無茶な仕様変更と、度重なる設計ミス。そのしわ寄せはすべて、末端で這いつくばるデバッグチームにのしかかっていた。
同期たちは次々と体調を崩し、あるいは心を病んで会社を去っていった。残されたのは、断る勇気を持てず、ただ『自分がここを直さなければリリースできない』という呪いのような責任感に縛り付けられた彼一人だけ。
連日連夜、睡眠時間すら削り取られ、インスタントコーヒーと栄養ドリンクだけで命を繋ぐ日々。過労死ラインなどとっくに振り切っていた。
「よし……これで、メインフレームのエラーは……」
キーボードを叩く指が、不意に止まる。
心臓が、まるで冷たい鉄の爪で鷲掴みにされたかのように、激しく収縮した。
「……ぁっ……」
声にならない呻きが漏れる。強烈な激痛が胸の中心から広がり、左腕の感覚が急速に麻痺していく。
椅子から転げ落ちそうになりながら、彼は必死に胸を掻きむしった。息ができない。肺が酸素を拒絶している。
視界の端が急速に暗くなり、モニターの光が砂嵐のようなノイズにまみれていく。
薄れゆく意識の底で、彼は自嘲気味に思った。
(ああ……現実ってやつは、本当にクソみたいなバランス調整だな……)
それが、平和な現代日本で生きた彼——ノアの、前世における最後の記憶だった。
心臓が完全に停止し、暗闇に沈んだ彼が次に目を開けたとき——彼は見知らぬ異世界で、身寄りのない赤ん坊として薄汚れた布に包まれていたのだ。
「……はっ!」
ノアは跳ね起きるようにして、硬い木枠のベッドから身を起こした。
全身が冷や汗でずぶ濡れになっている。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、息を吸い込むたびに肺がヒューヒューと頼りない音を立てた。
「また……あの夢か……」
ノアは震える両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。
隙間だらけの板壁から冷たい夜風が吹き込み、石炭の粉塵と煤煙の匂いを運んでくる。
ここは聖導王国の王都から南へ半日の距離にある、衛星補給都市『ベルクハイム』。
王都のインフラを支えるためだけに作られた、石炭採掘と石材切り出しの街だ。ノアが寝泊まりしているのは、採掘場で事故死した労働者の遺児たちを押し込めるための、街の最底辺にある公立孤児院だった。
十五歳になった今でも、前世で心臓発作を起こしたあの強烈な苦痛と絶望感は、時折こうして鮮明な悪夢となって彼を苛み続けていた。
ノアは薄っぺらい毛布を剥ぎ取り、自分の身体をじっと見つめた。
十五歳の少年としては、あまりにも発育が悪すぎる身体。浮き出たあばら骨に、枯れ枝のように細い腕。
異世界に転生すれば都合よく強靭な肉体と規格外の能力が手に入る——前世で読んだ小説のような甘い幻想は、この泥水のような十五年間でとうの昔に砕け散っていた。
(……俺のこの身体は、明らかな欠陥品だ。腕力どころか、まともに動くスタミナすら用意されていない)
思い出すのは、孤児院での過酷な労働の日々だ。
八歳の秋。冬営のための薪拾いで、ノアは子供用の小さな手斧を振るった。だが、刃が木の幹に弾かれた衝撃を殺しきれず、手首をひどく痛めて斧を取り落とした。たった数回振るっただけで腕の感覚が麻痺し、息が上がって膝から崩れ落ちたのだ。
十二歳の夏。井戸から水を汲む当番の日。
同年代の子供たちが持ち上げる水汲みの大桶を、ノアはどう足掻いても持ち上げることができなかった。取っ手を握る指の皮が擦り剥け、無理に引きずろうとして桶を倒し、貴重な水を地面にぶちまけてしまったノアを、孤児院の院長は怒鳴りつけて荒っぽく突き飛ばした。
泥濘に倒れ込み、地面に胸をしこたま打ち付けたノアは、激痛で肺の空気をすべて吐き出され、咳き込みながらしばらく指一本動かせなくなった。ただそれだけの衝撃で、目の前が真っ暗になって呼吸が戻らなかったのだ。
どれほど必死に身体を動かそうと、どれだけ歯を食いしばって耐えようと、筋肉はつかず、体力も増えない。
まるで自分一人だけ、粗悪な素材で作られた壊れかけの操り人形の中に閉じ込められているかのような感覚だった。
ただでさえ口減らしが日常茶飯事の貧民街において、薪割りも水汲みもできない虚弱な子供など、本来であればとっくに野垂れ死んでいるか、路地裏に捨てられていてもおかしくはなかった。
ノアが今日までどうにか生き延びてこられたのは、前世の大人の知識による立ち回りと、ある一人の少年のおかげだった。
ノアは腕力で役に立てない代わりに、頭を使った。
現場の荒くれ者たちが読み書きも計算もできないことに目をつけ、石炭の出荷伝票の整理や、運送親方たちの運賃の帳尻合わせを代行したのだ。
孤児院の院長が国からの支給金をごまかしていることに気づいたときも、横領が役人に露見しないための裏帳簿の計算を請け負った。
「こいつを追い出せば、面倒な計算をすべて自分でやらなければならなくなる」
そのささやかな利便性を提供することで、ノアは大人たちの暴力から逃れ、最低限の黒パンとスープを得る権利を勝ち取っていた。
だが、それだけでは同年代の子供たちからの小突き合いや、荒んだベルクハイムの環境を生き抜くことはできなかっただろう。
「……レオン」
ノアは薄暗い部屋の片隅にある、今は誰も使っていない空のベッドを見つめ、静かにその名を呟いた。
レオンは、ノアよりも三つ年上の孤児だった。
体格が良く、貧民街の子供たちの中でも一目置かれるガキ大将のような存在。彼はなぜか、ひ弱でいつも本ばかり読んでいるノアを気に入り、「俺の弟分だ」と言って何かと世話を焼いてくれた。
ノアが水桶を落としそうになれば、レオンが横からひょいと持ち上げてくれた。
ノアが他の子供に絡まれれば、レオンが前に出て追い払ってくれた。
その代わり、ノアは市場の大人を言いくるめて廃棄寸前のパンを安く譲り受ける方法や、効率のいい小銭稼ぎの抜け道を教え、二人は文字通り腕力と頭脳を補い合うようにして、この埃まみれの街を生き抜いてきた。
だが——そのレオンは、もうこの世にいない。
三年前。十五歳になったレオンは、大聖堂の儀式で【重装歩兵】という、平凡だが耐久力に優れた前衛スキルを授かった。
有用なスキルを得たことで、底辺から抜け出し、立派な騎士団の従士になれる。レオンもノアも、そう信じて疑わなかった。
しかし、レオンが配属されたのは栄えある騎士団などではなく、ベルクハイムの外郭採掘場を防衛する「最前線警備隊」だった。
平民や孤児がいくら前衛スキルを持っていようと、この国では貴族の盾として「使い捨ての駒」にされるのが関の山だったのだ。
配属からわずか半年後。
大規模な魔物の群れが採掘場を襲撃した際、現場監督であった王都の貴族は、自身の安全を確保するため、レオンたち平民の歩兵部隊に「その場に留まり、防衛線を死守せよ」と命じて逃亡した。
退却を許されず、魔物の大群の前に置き去りにされたレオンは、逃げ惑う他の労働者たちを庇い、大盾を構えたまま群れに生きたまま食い殺された。
数日後、孤児院に送られてきたのは、血に染まった彼の大盾の破片と、銀貨たった三枚の「見舞金」だけ。
それが、十五年を懸命に生き抜いた一人の少年の命の、国が定めた対価だった。
『ノア。俺、立派な騎士になって、お前をこんな孤児院から迎えに来てやるからな。それまで死ぬなよ』
出立の日、自慢げに笑って頭を撫でてくれたレオンの手の感触を、ノアは今でも覚えている。
(俺の努力や根性が足りないからじゃない。……この世界そのものが、狂っているんだ)
ノアは薄っぺらい毛布を強く握りしめた。
生まれもった初期値だけで階級が固定され、特権を持つ者が弱者を平然と踏み躙り、都合のいい盾にして見殺しにする。前世の過酷な労働環境より遥かにタチの悪い、欠陥だらけの仕様だ。
だからこそ、ノアは決めていた。
自分は絶対に、レオンのように「強者の都合のいい生贄」として使い捨てられるような死に方だけはしない。
この世界にルールを司るシステムがあるのなら、自分のこの最弱の肉体を以て、その理不尽な仕組みの隙間に指をねじ込み、足掻いてやるのだと。
「……いよいよ、今日だな」
今日。
ノアが十五歳を迎え、神から『恩恵』を授かる儀式の日。
儀式を受けるまで、人間のステータスは誰にも不可視だ。もし今日、神から何らかのスキルを授かることができれば、この理不尽な世界で足掻くための取っ掛かりを掴めるかもしれない。
窓の外から、けたたましい鐘の音が鳴り響き始めた。
ベルクハイム中の十五歳を一か所に集め、王都の大聖堂へ護送するための荷馬車が到着した合図だ。
ノアは擦り切れた麻のシャツを羽織り、冷え切った床を踏みしめて、薄暗い部屋を後にした。




