最後まで謝れなかった人 4
相談室には、穏やかな静寂が流れていた。暖炉では小さな炎が、ぱちりと乾いた音を立てながら揺れている。赤く揺らぐ火の明かりが、木の机の縁や湯呑みの白に、やわらかな影を落としていた。煎茶の湯気は細く立ちのぼり、部屋の空気に静かに溶けていく。茶葉の青さを含んだ香りが、喉の奥にすっと残った。窓の向こうでは、四季庭の桜が風に舞い、その足元では雪が淡く積もっていた。
洋輔は静かに涙を拭う。その表情は、相談室へ来た時より少しだけ穏やかだった。けれど目の奥に沈んだ痛みだけは、まだ消えていない。
「……先生なのに」
かすれた声だった。
「私は最後まで、謝れませんでした」
言葉を吐き出した瞬間、洋輔の肩が小さく震える。
「子どもには、間違えたら謝りなさい…そう教えてきたのに」
自分で自分を責めるような声だった。怒りではない、悔しさでもない。もっと深く、もっと長く、胸の底に沈み続けた後悔だった。相談室には静かな沈黙が流れる。尊は洋輔を見つめたまま、何も急がせない。ただ、その痛みが言葉になるのを待っていた。やがて、穏やかな声で口を開いた。
「洋輔さん。一つだけ聞いてもいいかな」
「……はい」
洋輔は静かに頷く。その頷きは、もう逃げないと決めた人のものだった。尊は柔らかく微笑んだ。
「翔太くんへ本当に伝えたかった言葉は、何だったのかな」
相談室が、ぴたりと静まり返る。洋輔は目を閉じた。黒板、教室、夕日。一番後ろの席で、少し照れくさそうに笑う翔太。その姿が、胸の奥で鮮やかによみがえる。しばらく何も言えなかった。喉の奥が詰まり、息を吸うだけで痛い。それでも、ようやく絞り出すように答える。
「……ありがとう」
尊は静かに頷く。洋輔は、そこで初めて自分の言葉を確かめるように続けた。
「毎日、学校へ来てくれて。笑ってくれて、優しい子でいてくれて。ありがとう」
一筋の涙が頬を伝う。
「本当は何度でも、そう言いたかった」
声が震える。けれど、もう止めなかった。
「それから、ごめん。ごめん、翔太。もっと、お前を信じてるって、ちゃんと言えばよかった。頑張れじゃなくて、十分頑張ってる。そう、抱きしめるみたいに言えばよかった…」
最後の一言は、ほとんど嗚咽だった。洋輔は両手で顔を覆う。長い年月、胸の奥に押し込めてきたものが、堰を切ったようにあふれ出す。
「私は…先生だったのに……!一番大事な時に…!一番言わなきゃいけない言葉を…言えなかった……!」
声が途切れる。肩が震え、息が乱れる。
「卒業式の日だって、笑ってくれていたのに……!『ありがとうございました』って!あの子は、ちゃんと…ちゃんと、私に……!なのに私は…『頑張れ』しか…言えなかった……っ!」
最後は、ほとんど叫びだった。相談室には、暖炉の火だけが揺れている。その炎の音さえ、今は遠く感じられた。尊は静かにその言葉を受け止める。急いで慰めることも、無理に結論を与えることもしない。やがて、小さく微笑んだ。
「その言葉。きっと翔太くんは、嬉しいと思うよ」
洋輔は顔を上げる。涙で濡れた目が、かすかに揺れた。
「……そうでしょうか」
尊は、迷わず頷いた。
「うん。だって翔太くんは最後に、『ありがとうございました』そう言ったんだ。先生を恨んでいたら、そんな言葉は出てこないと思う」
洋輔は唇を噛む。その理屈ではなく、心で受け止めようとしている顔だった。長い沈黙。洋輔は静かに涙を拭う。けれど拭っても拭っても、次の涙が落ちてくる。その時だった。尊はふと、小さく笑う。
「不思議だな」
洋輔は顔を上げる。
「え?」
尊は少し困ったように頭を掻いた。
「何だろう。今、洋輔さんの話を聞いていたら、僕も誰かへ…謝らなきゃいけなかった気がした」
相談室の空気が、ほんの少しだけ変わる。洋輔は不思議そうに尊を見る。その言葉は、今の自分の痛みとは別の場所を静かに揺らした。
「思い出せないんだ」
尊は苦笑する。
「誰だったかな。何を謝りたかったんだろう。そんな気持ちだけが残ってる」
その声には、いつもの穏やかさがあった。けれどその奥に、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。松平は、その言葉を静かに聞いていた。クラシカルなメイド服の裾を整えながら、何も言わない。その横顔は穏やかなままだ。けれど、その指先だけが、ほんの僅かに震えていた。誰にも気付かれないほど、小さく。尊は首を傾げる。
「変だよね。理由も、相手も、思い出せないのに。謝らなきゃって…そんな気持ちだけある」
洋輔は、涙の残る顔で少しだけ笑った。
「人って、そんなものかもしれません。大切な人ほど、思い出より気持ちだけ残ることがあります」
尊は嬉しそうに笑う。
「そうなのかな」
「はい。教師をしていて何度も見ました。子どもたちは細かい言葉は忘れても、先生が笑ってくれたことだけは…ちゃんと覚えていました。だからきっと、気持ちは消えないんです」
その言葉に、洋輔は静かに目を伏せる。消えない、忘れられない。だからこそ、今も苦しい。けれど同時に、それは救いでもあった。相談室には、穏やかな静けさが戻る。暖炉の火はなおも静かに揺れ、煎茶の香りは少しずつ深くなっていく。湯呑みから立つ湯気は細く、白く、部屋のぬくもりにほどけていた。尊は窓の向こうの四季庭を見る。桜が舞う、雪が降る、若葉が揺れる。その景色を見つめながら、小さく呟いた。
「気持ちだけ、残るか」
その言葉を聞いた松平は、誰にも気付かれないほど静かに目を閉じる。胸の奥で、小さく呟いた。
(尊様。そのお気持ちだけで、十分なのでございます)
声にはならない…その想いは、静かに胸の奥へ沈んでいく。尊は振り返る。
「松ちゃん、どうしたの」
松平はすぐに微笑んだ。
「何でもございません。お茶のおかわりを、お持ちいたします」
「ありがとう、お願い」
松平は静かに一礼する。そして、新しい煎茶を淹れ始めた。湯が注がれる音は細く澄んでいて、茶葉の香りがふわりと立ちのぼる。それは暖炉の火の匂いと混ざり合い、やわらかく、あたたかく、胸の奥へしみ込んでいった。相談室には、今日も穏やかな時間が流れていた。香りだけが残った。




