第七章 かがやく日と人
────泣き声のような音が、聴こえた。
眠っていたウルスラは、浅瀬にあった意識から目を覚ます。
窓から見える色は霞むような蒼だった。
夜のほどろ──朝の光の気配が近づいている。
うすら明るい窓から、再び泣き声がした。
──あの声は、もしかしたら。
ウルスラはそっと起き上がった。
小さなベッドの揺れが、傍らで眠るフレデリクを起こさないように注意しながら。
フレデリクは目を閉じたまま、穏やかな寝息を立てている。
昨晩は事故に遭った怪我人の緊急治療に当たり、彼は遅くまで働き通しだった。今日は久しぶりの休日なので、ゆっくり睡眠をとってほしい。
一方でウルスラは、今日も牧羊の仕事の手伝いだ。
人手が欲しいという老夫婦の牧羊場に住み込みで働くことになったウルスラは、朝から羊たちの世話をしている。
体力だけはあるので、初めてが多い牧場の仕事を覚えながら、徐々に貢献できるようになっていた。この三か月で信頼も得て、今は羊小屋の近くにある物置小屋を住居として使わせてもらっている。
この村の医師になった、フレデリクとともに。
ウルスラは音を立てずに牧羊仕事のワンピースに着替えて、羊毛のストールを肩に羽織ると小屋を出た。
────ェェーン────
少し冷えた空気に、か細い泣き声が響き渡る。
仔羊の鳴き声だった。迷子の子どものような弱々しい声。
羊小屋を見ると、木製の扉に隙間がある。仔羊が好奇心で抜け出るには充分な大きさだった。
──扉の補強をしておかないと。
しかしまずは仔羊を見つけなければ。
わん、とウルスラに挨拶するような短い声がした。
老夫婦の家の前にある犬小屋から牧羊犬が駆け寄って来る。
「トト、おはよう」
潜めた声でウルスラは挨拶して頭を撫でると、トトはさっと駆け出した。
なだらかな丘陵が拡がる、牧草地帯へ。
導かれるように、ウルスラはその後を追った。
まだ薄暗いので走らないように心掛けていた。右目がなくて、そのこと自体に慣れてきたつもりだったが、歩いたり物を持ったりといった日常的な動作を不意に失敗することがあった。そのたびにフレデリクを心配させてしまう。
歩き慣れた牧草地でも、転ばないように──ウルスラは一歩ずつ踏みしめるように歩いていた。
緩やかな坂を上ると、牧草地は微風に草葉を波打たせて柔らかい地平を描いていた。見渡していると、わんわん、とトトが呼びかけてくる。
音のする方に目を凝らすと──トトの白黒の毛並みと、すぐ傍らに白い塊が見えた。
────ェェーン──
仔羊にとってはあまりに広大な牧草地帯。冒険のように飛び込んだものの広さに呑まれて途方にくれたのか、仔羊は困った声で鳴いていた。
無邪気でか弱くていとおしい──ウルスラはほっとしながら歩み寄った。
「よしよし」
手を伸ばすと、仔羊が鼻を寄せてにおいを嗅ぐ。世話をしている者だとわかったのか、ひょろっとした足取りで寄ってきてくれた。
「朝からひとりで冒険したね。帰ろうか」
言葉が伝わったのか、仔羊はウルスラの横を抜けて、元来た道を引き返し始めた。その道のりをトトが牧羊犬らしく導いている。
「気を付けて」
もう届かない距離になっていたけれど、ウルスラは優しく声をかけていた。
──なんだか、以前よりも喋るようになった気がする。
デュミナス王国の騎士団長だった頃、銃声に負けじと声を張り上げていたが、誰かに話しかけるなんてほとんどなかった。そう考えると、自分があの頃とすっかり別人のような気持ちにすらなってくる。
でも、今は新しい方の自分が好きだった。
ウルスラが、フレデリクとともにリスファランド共和国の亡命を承認され、平民として受け入れられてから半年になる。
デュミナス王国コクトード州の本陣が第三国によって侵攻されたあの日。
瀕死のウルスラを救出し、侵攻国である共和国への亡命を決行したのはフレデリクだった。
あの日のことは、今もウルスラの記憶はあやふやだ。
本館で撃たれて、フレデリクに助けられて、だが途中経緯が思い出せない。おぼろげに「ころさないで」と言っていた気がするし、「殺さずにすんでよかった」と誰かが言っていたような──
月日の経過で、それすらも霞んでいる。
確かなことは自分がフレデリクに助けられて、ともに生き残れたということだ。
生き残るために、国を捨てた。
そのことに後悔はなかった。あの日から意識が戻った矢先、勝手な決断をしたことをフレデリクが詫びてきたが、何も謝ることなんてない。
──フレデリクとともにこうして生きていられてよかった──
その思いは、今も変わらない。
空の蒼が、ゆるゆると白く、淡く青み、さらに遠くの地平線まで見えるようになっていた。
少しずつ変わる朝の空。光の気配を感じて、じっと日の差す方を見ていると、わんわん、とトトの声がして振り返ると。
小屋の方からフレデリクの姿が見えた。
「フレデリク」
トトと仔羊とすれ違いながらこちらに駆け寄ってくるので、ウルスラも歩いて近付いた。
「もしかして、わたしが起こしてしまった?」
「いいえ。朝は早い方なので」
軽く呼吸を乱しながら、フレデリクは答えた。
「あなたの姿がなかったので驚いてしまいました。何かありましたか?」
「大丈夫。さっきの仔羊が小屋から抜け出して、迷子になっていたんだよ」
そうでしたか、とフレデリクは微笑む。くしゃりと目じりに皺をつくる笑顔はウルスラをじわりと温かくさせる。この人の笑うところが好きで、鉄格子の向こうからもじっと見つめていたことを思い出した。
無意識に、目元に手を伸ばしていた。
「どうしましたか?」
「──ううん。なんでもない」
いや、ではなく、ううん、と言う。騎士らしく厳めしくしていた口調もかなり抜けてきた。
「ただ、この目元の柔らかいところが好きだと思って」
気も抜けて、思っていたことをふと声にしてしまう。
はっとしたときには、フレデリクが不意を突かれたような驚いた顔で自分を見ていた。
「すまない、あ、ごめんなさい、なんでもない。今のは、なしで……」
「──ふ、」
なんだか恥ずかしいことを口にした、と顔を赤くしていくウルスラに、フレデリクは笑いを零した。
「なしにしてしまうのですか?」
「う、うん。なし」
「それは残念です」
しみじみとそう言って、フレデリクは朝の風に梳かれて流れるウルスラの髪を両手で撫でた。そのまま頬を包み込む。
「朝の空気は、身体を冷やしますよ」
「うん。帰ろう」
フレデリクの手をとって、小屋へと向かう。
歩くとき、フレデリクはいつも右側に寄り添う。ウルスラの右目を補うように。
いつか義眼を調達します、とフレデリクは言ってくれたが、飾りでなく視神経を繋いで眼として使えるものは高級品だし、なくても大丈夫とウルスラは答えている。
でも、フレデリクが時折自分の右目に視線を寄せていることに気付いていた。
あるときウルスラの頬を撫でながら、沈痛な声で呟いたことがある。
『後悔しています。あのとき、あなたを撃った者をもっと早く排除していれば──』
仄見えたのは、冷酷な気配だった。しかしそれは覗き込もうとすると次のまばたきで気配を消し──穏やかな表情に隠れてしまう。
そうしていつもの優しいフレデリクになる。
そんな彼の、自分自身の目が失われたような痛ましく哀しそうな眼差しに触れるたび、どうしようと思う。
──ルーカスに相談してみようか、と考えた。
フレデリクとの亡命を手助けしてくれたという共和国の軍事関係者だ。時折、亡命者の素行調査だと訪れて来る。気さくで年も近いし、フレデリクともよく話している。
でも、ウルスラとの会話にはぎこちなくなるときがあった。彼と二人で会話していると、ルーカスは辺りを警戒し、フレデリクの様子を確かめている節があるのだ。
フレデリクは特に何も言わず、眺めているだけなのに。
二人は仲が良いのか悪いのか、よくわからないけれど──
「どうかしましたか?」
考え事をしているのが表情にでていたのか、フレデリクが尋ねてきた。
「半分、あなたのことを考えていた」
「半分、ですか?」
「うん。この先、相談したいことがあって」
ぽつりと口にした言葉に、ウルスラははっとする。
この先──
これからを、わたしは考えている。
そのことに気付いたのだ。
今日か、明日、命を落としてもおかしくない戦場から、自分は生き延びることができたのだと──何気ない自分の言葉で自覚する。
相談とはなんだろう、といった表情で自分を覗き見るフレデリクの手を、ウルスラはぎゅっと握りしめる。
このきもちを、すぐに言葉にすることが難しくて。
──眩しい気配を感じ、ウルスラは顔を上げた。
視界の先、牧草地の稜線、果てにある地平線から朝の陽が現れた。
ふたりは思わず足を止めていた。陽が昇ったその瞬間をともに見つめる。
昨日まであり、明日もきっとある朝を、フレデリクと迎えることができる。その喜びにただ満たされていくのを感じながら。
傍らには、愛する者が同じ光を浴びている。
隔たりにあった鉄格子はもうない。
ウルスラは微笑んだ。




