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秘めたきずあと背中に沈む  作者: 熊谷茂太


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第六章 きみがための血と死⑧

 ルーカスの手引きでリスファランド共和国への入国を果たしたフレデリクは、ウルスラとともに亡命を申請することとなった。

 承認判断を待つ収容所ではウルスラの治療に専念していた。

 開いてしまった身体の傷口と、撃たれた右目を、フレデリクは共和国の医療関係者と設備を借りつつ処置した。命は助かったが、右目は損壊し失われてしまった。

 数日は別々に収監されていたが、ウルスラが意識を取り戻したことやその状態、予後については定期的に報告をもらうことができた。


 収容所での日々は長くなかった。

 フレデリクはルーカスとともに連れられ、リスファランド共和国の軍事関係者と面談をすることになった。

 ──亡命が受け入れられるかを決める聴取であることは明白だった。

 通された部屋に立っていたのは、ルーカスの上司と名乗る男だった。名乗る、とは言っても名前を告げることはない。諜報機関の者だと推測できた。


「フレデリク・ベイリーと申します」


 一礼し、自身の経歴を話す。ドルムトレク王国の元・宮廷医師で、軍医になって十五年。デュミナス王国の捕虜となって以降も野戦病院で奉仕すべく医療に従事してきたことまで。


「なるほど。戦場に不似合いな上品さだと思ったら、宮廷に務めていたのか」


 丁寧な口調と振る舞いに、ルーカスの上司は鷹揚に頷きながらも探る眼は鋭いままだった。


「あれこれ尋ねる手間が省けた。実に簡潔でわかりやすく貴君について知ることができた」

「恐縮です」

「──で、貴君はドルムトレクのスパイの類なのか?」


 ルーカスの上司は単刀直入に問う。奇襲じみた質問に、彼と対面するフレデリクの背後に立っていたルーカスの方がぎょっと表情を動かしてしまう。


「いいえ。とんでもないことでございます」


 フレデリクは微塵の動揺もなく答えた。


「私は軍に属していたとはいえただの医師に過ぎません。国の大儀や任務を負う存在でないことは約束できます」

「そうはいっても、君は偶然にもルーカスの素性を見抜き彼の諜報活動に協力してくれたというじゃないか。実に手際よい立ち回りだったという」

「それは買いかぶりにすぎません。彼も負傷した直後でした。協力の申し出をした私を優位に感じてしまったのかと」

「上手いこと俺の部下を立ててくれるね」


 どこか悠然とした気配すらただよう上司とフレデリクのやりとりに、ルーカスだけが固唾(かたず)を飲んでいた。


 ──優位に感じてしまった、だと。

 あの有無を言わさぬやりとりに、まさか協力者としての対等関係があったとでもいうのか。

 やはりこの男はとんだ食わせ物だ。しかしそれに一切の違和感を聞くものに与えない。当事者であるルーカスですら「彼が言うのなら、そういう状況だったのかもしれない」と自分の記憶を上書きしてしまいそうになる。


 温厚な眼差しでフレデリクを探る上司の目だけが頼りだった。

 上司は、ふむ、と顎に手をやる。


「スパイの疑いはない、ということを証明させるのも酷な話か」

「お疑いが晴れるまで、監視をつけていただくことや行動制限も受け入れます」

「それは当然として──疑念は少しでも薄めておきたい。貴君は我が国に貢献するつもりだと言う話だったな。我が国に情報を提供する準備があると聞いた」


 にわかに上司の目が鋭く光る。フレデリクは粛然と首肯して見せた。


「仰る通りです。私が提供できる情報はドルムトレク王国とデュミナス王国の軍人・騎士幹部の情報です。医師として、主要幹部の個人情報を具に提供いたします」


 ──ドルムトレクの軍医だった頃から、戦地の兵士の治療だけでなく幹部の診察も担っていたフレデリクは通常知り得ない情報を多く持っていた。病状や使用している薬、精神状態まで。

 さらに彼は捕虜の医師としてデュミナス王国の騎士幹部の医療事情も把握していた。

 捕虜として知り得ない範囲にまで及んでいるのは、実は陰で薬物汚染に関わっていたからだ。そこまでは明かさずとも、フレデリクがあっさりと語って見せた騎士幹部に関する証言は、共和国がデュミナス王国侵攻で幾度も遭遇した薬物使用者と思しき兵士や騎士幹部の状態と一致する。

 つまりは、彼の情報はかなり精度が高いということだ。


 自分がどんな情報を持っているのかを概要だけ告げたフレデリクは、黙って聴き取っていたルーカスの上司に反応を促した。


「必要があれば、各国幹部の医療事情をもとに彼らの戦力を削ぐご提案も可能です」


 出し惜しみなく提供されようとしている上等な話に、ルーカスの上司は手を振った。


「いや。結構だ。貴君の情報の真偽を別途確かめる必要もあるのでね」

「承知しました。差し出がましいことを申しました」


 フレデリクは慎ましく頭を下げた。

 その姿に、ふっとルーカスの上司は小さく笑った。


「貴君の情報が真実だとしたら──実に容赦がないな。戦場では敵の頭を叩くことが必勝条件だが、有効活用すればたちまち共和国が二つの王国を丸ごと潰せるんじゃないか」

「貴国であれば、可能と存じます」

「目的は何だ」


 ふと、上司の声が冷たくなる。笑みのまま、フレデリクを見据える目が研がれた刃物のような光を帯びていた。

 うますぎる話には乗せられるまい。偽れば容赦ないという警告が言外の気配にあった。

 それを真っ直ぐに見据え、フレデリクは静かに(よど)みなく答えた。


「亡命した方とともに生きることです」


 その声は、品よく取り澄ましていたこれまでの口調とは一転していた。

 穏やかさに滲む感情的なものが、温度となる。


「私が連れたデュミナス王国の方は、私を生かし医師として徴用してくださいました。戦場で失われる命を少しでも救うために。ですが両王国はいつまでも戦争を止めようとしない。私はこれ以上、彼女を戦場に居させたくありません。あの方は戦争で失われていい存在ではないからです」


 ──まさか──


 フレデリクの背後でその言葉を聞いたルーカスが全身を強張らせる。

 この男が、捕虜の医師という立場ながら自分を利用し、共和国の侵攻を促し、デュミナス王国の陣地を陥落させたのは。


 あの騎士団長の女性の命を守るためだったというのか。


 惜しげもなく両国の軍人や幹部の情報を提供し、さらにその有効活用まで助言しようとしているのは、間違いなくデュミナスとドルムトレクを滅ぼしたいからだ。

 あの女性を戦場から救い出すために、二つの王国は滅びる必要があると。

 そうフレデリクは判断したのだ。


 最後まで見えなかったフレデリクの望み。

 それは、ウルスラという騎士団長を戦場から生還させること。

 彼女の命のために、戦争する二つの国そのものを破壊するつもりだったのか──



『この人の前で、私が人を殺すところを見せずに済んでよかった──』



 本陣で抱いたフレデリクに対する戦慄の正体を、ルーカスはやっと理解する。

 ひとりの女性のために捧げているフレデリクの感情は。

 彼女以外すべての人間の死すら(いと)わない、計り知れない深遠な狂気によるものだったのだ。


 ルーカスは再び戦慄(おのの)く。

 彼にほぼ操られたも同然で、その流れのまま自国に迎え入れたことが、とんでもない過ちだったのではとすら思う。

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