第79話 交差-4-
空間に走った亀裂は、瞬く間に広がり、ついに砕け散った。
眩い閃光と轟音が異空間を震わせ、裂け目から三つの影が躍り出る。
先陣を切ったのは、小柄な影――ロアだった。
彼女の細い体が放った拳は、常人の目にはただの一撃に過ぎなかったかもしれない。
だがその瞬間、異空間の壁が呻くように軋み、ガラスのようにひび割れる。
次の鼓動の刹那には、破片が飛び散り、壁は粉砕されていた。
砕けた境界を抜け、二人の仲間が続いた。
ナズは大剣を携え、踏み込む一歩ごとに地を抉る勢いで空気を震わせる。
ハナラは身を翻しながら軽やかに、舞うように異空間へ躍り込んだ。
リゼは目を見開いた。
「ジャスク……!」
胸に広がったのは安堵と緊張の入り混じった感情だった。
三人の視線が同時に一点に注がれる。
そこには、胸を貫かれ血に濡れたクラヴァルがいた。
彼女を抱きかかえるユウの腕は震え、必死の呼びかけが喉を裂いている。
ナズは唇を噛みしめ、ハナラは握る手に力を込める。ロアだけは一歩も止まらない。
拳を下ろすと同時に駆け出し、クラヴァルの傍らに辿りつく。
救うために。
仲間の命を、決してここで散らせはしないと告げるかのように。
異空間の空気は張り詰め、戦場の匂いを帯びていく。
♢
ロアは倒れ伏すクラヴァルの傍らに膝をつくと、無言のまま両手を彼女の胸元へかざした。
そこから放たれる光は、まるで春の陽だまりのように柔らかく、同時に鋭い意志を秘めていた。
「治癒」
低く絞るような声とともに、光がクラヴァルの全身を包み込む。
それは一般的な治癒魔術とはまったく異なる力だ。リゼが必死に繰り返した魔術では血は止まらず、生命の流れを繋ぎとめることも叶わなかった。
だがロアの放つ特技は、深い裂傷の奥から温かな力を注ぎ込み、散りかけた魂を肉体に引き戻していく。
ユウは目を見開いた。
クラヴァルの荒い呼吸がわずかに整い、絶え絶えだった心音がかすかに持ち直したのが、腕越しに伝わってくる。
「…まだ、生きてる…」
安堵の声が漏れた。
だがロアの顔は険しかった。
彼女は光を途切れさせまいと集中を切らさず、全身から汗を滲ませている。
特技といえども万能ではない。
裂けた肉は繋がったが、損なわれた臓器や流れ出た血を完全に補うことはできない。
命を落とす瀬戸際から、ようやく「生きているのがやっと」という地点に押し戻したに過ぎなかった。
「……これ以上は」
ロアはかすかに首を振った。戦闘に割く余力は一切残されていない。この場で彼女にできるのは、クラヴァルの命を繋ぎ止めることだけ。
「ロア……」リゼは光に包まれる仲間を見つめ、唇を噛んだ。
ユウもクラヴァルの手を握りしめたまま、ただその温もりが消えないよう祈るしかなかった。
♢
クラヴァルの命が細い糸でつながれたのを確認すると同時に、ナズが一歩前に出た。
剣を肩に担ぎ、血走った眼差しで目の前の存在を睨み据える。
「テメエが親玉だってことだよなぁ?」
その声音に、異空間の空気がざわりと揺れた。
対するTPは薄ら笑いを浮かべ、淡々と返す。
「そう捉えていただいて、仔細ないよ」
ナズの姿が掻き消えた。
気付いたときには、すでにTPの眼前。
「速いね」
嘲るような言葉と同時に、剣が閃く。
TPは軽く身を傾けて躱すが、振り戻しと同時に放たれた肘鉄が頬を捉えた。
鈍い音が響く。
能面のような顔がわずかに揺らいだ。
「当てるとは。本当に人間か?」
「出し惜しみは無しだ!」
ナズの声が空間を震わせる。
「最大化──全開!」
ナズの能力が最大化され、彼の肉体と刃が限界値へ跳ね上がる。
「ん?」
TPの視線が逸れる。
ハナラが魔術を放とうとしたのだ。
だが光は形を結ぶ前に掻き消えた。
「私が用意した空間だよ?」
TPの声音は冷ややかに響く。
「魔術の発動? させないよ」
その直後、ナズが振り下ろした大きさを最大化させた巨大な剣をTPは片手で受け止めた。
軋む音と共に刃が止まる。
「じゃあなんで俺の特技は発動できてるんだろうなあ!?」
ナズの剣が火花を散らし、TPの周囲が陥没する。
その懐に、リゼが滑り込む。
「瞬!」
加速した刃がTPの胴を確かに捉えた。
だが切っ先は硬質な壁に阻まれたように止まり、肉を裂く感触は伝わらない。
「ふむ、及第点だ」
TPの嘲笑がこぼれる。
リゼは後方へ跳ね退き、剣を構え直した。
「絶対、何か仕掛けがある!」
♢
火花と衝撃音が連続する。
ナズの連撃は確かに速さと重さを兼ね備えていた。
剣先は空気を切り裂き、フルスペックによって加速された一撃ごとは常人の目には残像しか映らない。
だが──TPはほとんど動いていなかった。
身体をわずかに傾けるか、片手を伸ばす程度で、すべての刃を弾き返していく。
その仕草は遊戯にさえ見え、戦闘という言葉からはほど遠い。
「クソが…!」
ナズの額に汗が浮かぶ。全力の踏み込みが、まるで子供の戯れのように受け流される屈辱。
「まだ続けるのかい?」
TPの口元が笑みに歪む。
そこへハナラが切り込む。
魔術が使えないと悟った彼女は双剣を繰り出し、
鋭い足運びで死角を突き、幾度も切っ先を迫らせる。
だがTPは片手で刃を受け止め、もう一方の手で軽く押し返す。ハナラの体が後方へ弾かれ、床に着地した瞬間、吐息が荒れた。
「効かない……」
唇から漏れた言葉は、絶望を帯びていた。
リゼもまた、何度も瞬で加速しながら切り込む。
確かに剣は命中している。
だが刃は表面を滑り、切れ味を奪われているかのように肉へ届かない。
「やっぱり……普通じゃない……」
リゼは息を詰め、後方に跳んで距離を取った。
ナズ、ハナラ、リゼ。
三者が同時に攻めても、TPの姿は揺るがない。
むしろ彼の視線は余裕そのものだった。
「いいねいいねいいね!君たちよくやってるよ!」
次の瞬間には淡々とした声が響く。
「だが届かない、それ以上でも以下でもない」
「それが私からの採点だよ」
三人の胸に、戦力の隔絶が重くのしかかる。
力を尽くしてなお届かない現実が、鋭い刃以上に彼らを追い詰めていった。
♢
刃が届かず、魔術も掻き消される。
ロアはクラヴァルの胸に手をかざし続け、命の灯を繋ぎ止めるのに全てを注いでいた。
ナズもハナラも、リゼも必死に攻め立てているが、敵の顔に浮かぶのは余裕の笑みだけ。
「あれ?バレちゃった?」
TPがおどけて呟いた瞬間、空間に新たな亀裂が走った。
バキン──。
先ほどジャスクが突入した裂け目とは異なる、さらに大きなヒビが広がっていく。
光が漏れ、轟音が響く。
異空間そのものが悲鳴を上げるかのように震えた。
「何だ?」
ナズが剣を構え直す。
リゼは一歩下がり、視線を光に向けた。
やがてその裂け目から、ひとりの影が姿を現す。
それは日常的な台所道具――お玉と鍋の蓋を手にした、割烹着を着た男だった。
「…星嶺さん!」
ユウが帰還者の名を叫ぶ
TPは顔を崩して満面の笑顔で声をかける。
「おやおや、久しぶりだね。元気してた?」
帰還者はクラヴァルを一目見ると鬼の形相でTPを睨みつける。
返ってきた声は怒気に震えていた。
「てめえ!……人の孫を、よくも……!」
その一言で、場の空気が一変する。
ユウもリゼも息を呑み、ジャスクの面々も目を見開いた。
帰還者の眼差しは鋭く、まっすぐにTPを射抜いている。
「…そこのお姉ちゃんや」
帰還者は鋭い声でハナラに呼びかける。
「俺がこいつを釘付けにする。動きが止まったら──できるよな?」
「アイツせいで魔術を構築できないの」
「俺がいるから大丈夫だ。ここの魔素を自由にする」
ハナラは一瞬だけ目を細め、皮肉げに笑った。
「いいのね? お墓くらいは作ってあげるわ」
「楽しみだ」
帰還者の声は短く、それでいて決意に満ちていた。お玉を構え、鍋蓋を盾のように掲げる。
紫色の光が器具を包む。
お玉は禍々しい黒剣に姿を変え、鍋蓋は白銀のガントレットに変貌した。
割烹着の下から彫り込まれた魔術陣が光を放つ。
「さあ、ケリをつけようじゃねえか」




