第80話 ヘンカクノトキ-4-
湯気の立ちこめる店内に、箸と丼が触れる小さな音が響いた。
クラヴァルは器を押しやり、満面の笑みを浮かべて声を弾ませる。
「ごちそうさま!」
彼女の頬はほんのり赤く、銀の髪が肩にふわりと流れる。
その様子に、カウンター越しの帰還者が口角を上げた。
「新作の味、どうだい?」
問う声はどこか照れ隠しの響きを帯びていた。
クラヴァルは胸を張り、瞳を輝かせて即答する。
「私これ好きよ!」
箸を置く指先まで軽やかに弾み、少女の言葉はまるで宣言のように強い。帰還者は一瞬だけ目を細め、深い皺の間から笑みを覗かせた。
「そうかい」
その言葉は短く、しかし噛みしめるように重かった。クラヴァルはまだ湯気の立つ丼をちらと見やり、続ける。
「とっても元気が湧いてくるの!…でも…」
その言葉の末尾にわずかな影が差した。
帰還者の瞳が揺れる。長年を生き抜いた男の声音は、ほんの一拍だけ沈み込んだ。
「お前も…そうなのか…」
狭い店内に、ラーメン屋らしからぬ重苦しい沈黙が落ちた。ただスープの香りと、遠くで鳴るメタルのギターリフだけが、場を埋めていた。
♢
夜風が吹き抜ける石造りのバルコニー。
重厚なカーテンの隙間からは灯りが漏れ、眼下には街の灯火が宝石のように瞬いていた。
そこからの映像が、EWSを通じて全世界に配信されている。
映るのは二人の人物──アヴラスの領主と、椅子に悠然と腰掛けた国王だった。
国王が杯を手にしながら軽い口調で切り出す。
「クラヴァルちゃんはね、ほとんど魔術が使えないんだ」
領主は顎に手を添えて頷いた。
「魔素に愛されていない、でしたかな」
「そう。だから彼女の装備のあらゆるところに、補助の魔術陣が仕込まれている」
国王の言葉に、視聴者のコメント欄がざわつく。
《装備チート?》
《補助で戦ってるの?》
《つまり才能が無い?》
──流れる文字列は瞬く間に炎上気味だ。
領主は声を落ち着けて続けた。
「ただし一介の冒険者が使えば」
国王は唇の端を釣り上げる。
「吹っ飛ぶね。間違いなく。クラヴァルちゃんはとっても頑丈なんだ」
「……あの国宝の剣も、彼女だからこそ」
領主の言葉に、国王は大きく頷いた。
「飾っておくより、使ってもらった方が剣にとっても本望でしょ」
その瞬間、コメント欄はさらに炎上した。
《国宝を冒険者に!?》
《危険すぎ》
《でもカッコいい》
──混乱と喝采が同時に押し寄せる。
画面の奥、夜のバルコニーで交わされる密談は、視聴者たちをさらに熱狂の渦へと巻き込んでいった。
♢
カウンター越しに向かい合う帰還者とクラヴァルは、しばし沈黙を挟んでいた。
やがて帰還者が低く口を開く。
「遺伝というものだ…お前の母さんもそうだった」
クラヴァルの瞳が揺れる。
箸を置いた手は膝の上で固く握られていた。
「……」
帰還者は煙草の灰を落とす仕草のように、鍋の蓋を軽く叩いた。
「あの世界では致命的だ。ただ、そこまで危険な地域ではなかったからな」
吐き出された言葉は、油煙に紛れても重く響く。
「それにお前の父さんがな──命に換えてもユキを守ります、って言ってくれたからな」
クラヴァルの表情がわずかに歪む。
両親の名を出された瞬間、胸の奥に突き刺さるような痛みが広がった。
彼女は唇を噛み、ただ黙って聞いている。
帰還者は深く息を吐き、声を落とす。
「今さらこんな事言えたもんじゃないが……現実世界で暮らしてもいいんだぞ」
クラヴァルはしばし俯いたまま、やがて顔を上げた。その銀の瞳には揺らがぬ光が宿っている。
「ありがとう。でもね、私はクラヴァルなの。アヴラスの女神クラヴァル」
力強い宣言に、帰還者は目を細め、やがて短く頷く。
「そうか……ならば俺のとっておきを渡そう」
♢
領主が呟く。
「……あの半球は、なんなんでしょうね」
国王は肩をすくめ、苦笑した。
「まぁ、悪い予感しかしないよね」
そこへ従者が駆け寄り、膝をついて報告する。
「失礼します。クラヴァルが……あの中に入ったそうです」
「一人で?」国王の声音が鋭くなる。
従者はわずかに躊躇い、言葉を続けた。
「二人だそうで。どうやら知り合いの、ユウ、と呼んでいたそうです」
一瞬の沈黙。だが次の瞬間、配信を見ていた視聴者のコメント欄が爆発するように炎上した。
《ユウって誰!?》
《本名出たぞ》
《クラヴァルと一緒に入った?》
《やっぱ実在するのか!?》
怒涛のコメントが流星のように画面を覆い、EWSはかつてない混乱と熱狂に包まれていった
♢
「長年、魔素の理論と研究を重ねた」
静かな声に、クラヴァルは背筋を伸ばした。
冗談めいた響きはなく、重みだけが乗っている。
「簡単に言うとな、詠唱や陣の構築は魔素に“働いてください”ってお願いするんだよ」
クラヴァルは眉を寄せた。
「じゃあなんで私は使えないの?」
「魔素がお願いを聞いてくれないからだ」
一瞬、視線が揺れた。
「……やっぱり愛されてないのね」
「違う」
帰還者の声は強く遮る。
「愛されすぎて体内に取り込まれているんだよ」
「…え?」
クラヴァルは息を呑んだ。
返す言葉が見つからず、ただ彼を見つめる。
「人よりもお前は頑丈だろう?それが理由だ」
短い沈黙。湯気が二人の間を漂い、やがて帰還者は深く息をついた。
「それでもお前の命が危ないとき」
その声音は、かつて戦場で仲間を導いた指揮官のように厳しく、それでいて温かかった。
「手を出しなさい」
掌を前に突き出す帰還者。
そこには何かを託そうとする、確かな意志があった。
クラヴァルは迷いを含んだまま、その手を見つめていた。やがて意を決したようにその掌に自分の手を重ねた。
次の瞬間、空気が震えた。
クラヴァルの全身から紫の光が迸り、輪郭を包むように揺らめく。
「っ……!」
思わず目を細めるほどの光。だが痛みはなく、むしろ温もりが身体の芯にまで流れ込んでくる。
やがて発光はゆるやかに収まり、店内の静けさが戻った。クラヴァルの肌はほのかに赤みを帯び、呼吸は以前よりも安定していた。
帰還者は深く息を吐き、目を細める。
「保険のようなものだ」
「ホケン?」
クラヴァルは首を傾げ、不思議そうに繰り返した。
帰還者は苦笑しながら、鍋をかき回す音に紛れるように答えを飲み込んだ。
♢
重苦しい異空間に、かすかな声が漏れた。
「……ん……」
治癒の光を浴びていたクラヴァルの瞼が、わずかに震えて開く。青ざめた顔にかすかな紅が戻り、ユウが息を呑んで叫んだ。
「クラヴァル!」
その瞬間、彼女の身体がほのかに紫色の光に包まれた。
ロアが驚愕の声をあげる。
「これは……一体、なに?」
クラヴァルの胸の奥から脈打つように光が広がり、裂けた傷口がみるみる塞がっていく。
血の痕が消え、砕けた肉体が編み直される速度は、常識を越えていた。
「再生よりも早い…!」
ロアの声は震え、目を奪われていた。
ユウはクラヴァルの身体を支えながら、必死に制した。
「動いちゃダメだ! まだ傷が……!」
ロアも警告する。
「血を失いすぎている。通常ならもう……」
クラヴァルは薄く笑い、静かに首を振った。
「血? 大丈夫よ」
「魔素を流しているから……足りるわ」
淡い紫光をまとったその姿は、もはや再生を超えた蘇生そのものだった。
♢
「お前の命が危険な時に発動する術だ」
低く、重い声だった。
クラヴァルは真剣な眼差しで耳を傾ける。
「魔素を生命エネルギーに変換する」
「足りないものを、すべて魔素で補う」
その言葉に、クラヴァルの瞳が大きく揺れる。
「そんなことが……できるだなんて」
感嘆と恐怖が入り混じった声。
帰還者は首を振り、言葉を続ける。
「ただし、この術が発動したら最後だ」
「お前は魔素のない世界では、生きられなくなる」
店内の爆音のジャーマンメタルさえ、今だけは遠く聞こえる。
♢
砕けた床の上で横たわっていたクラヴァルの体が、ぱちん、ぱちんと紫の火花を散らす。
その光はやがて彼女の全身を包み、揺れるオーラとなって広がった。立ち昇る魔素の奔流は、治癒でも再生でもない。
ただ「生きる」ことそのものを、強引に引き寄せる力だった。
ユウは目を見開き、声を震わせる。
「……クラヴァル!」
クラヴァルはゆっくりと身を起こした。
胸にまだ赤黒い痕を残しながらも、その瞳は強い光を宿している。
「ありがとう」
口元が微かに震えている。
紫のオーラを纏った彼女の姿は、まるで新たに蘇った戦女神のようだった。
「……おじいちゃん!」




