第71話 さがしもの-3-
異世界の森にひっそり建つ小屋。
雨風を避けるためだけに組まれた木壁は、いまは三人の秘密を抱きとめる檻のようだった。
ランタンの火が細く揺れ、木の節目が赤く染まる。
寄り添う三人の吐息が、狭い空間の静けさを乱していた。
ユウは胸に顔をのせているクラヴァルを見下ろしながら、喉を鳴らすように口を開いた。
「俺の世界ではというか…俺のいる国では、重婚できないんだよな」
全裸のクラヴァルは胸に顔を押しつけたまま、ふっと笑みを漏らした。
「ユウ…そこまで考えてくれてるのね。嬉しい♡」
甘い吐息が肌に触れ、背筋をくすぐった。
「まだ私は認めてないけど?」
リゼの声がかぶさった。
真剣な瞳のまま、彼女もまた布一枚もまとわず隣にいた。その頬は赤く染まっていたが、瞳の奥にあるのは揺らぎのない意志だった。
「でも――いずれはそうなるのよね」
ユウは思わず息を呑む。胸の奥が熱くなり、恐れと安堵が入り混じる。
「リゼ…ありがとう」
ほんのひととき、小屋の空気が柔らかくなった。
だが、クラヴァルがわざとらしい声を上げて崩す。
「ちょっと、私もいるんですけどー?」
わざと頬を膨らませるようにして、すぐに続けた。
「私のいる国はそのへん問題ないわよ。でも王様がなんていうかよね〜」
リゼは即座に応じる。
「私は…ユウがいるならどこでもいい。現実世界でも、アヴラスでも、ここでも」
ユウはその一言に胸を打たれた。
「リゼ……ありがとう」
けれどクラヴァルは再び声を挟む。
「でもそうなると、家名が変わるのよね」
ユウは瞬きをして首をかしげた。
「そういえば、クラヴァルの家名…聞いたことなかったな」
ランタンの光が銀髪を照らし、光の筋が彼女の肩を滑った。クラヴァルはその髪を指先で弄びながら、わずかに口を歪める。
「言いたくないけど、教えるわ。家名は――」
♢
ちょうどその頃。
現実世界の片隅、暖簾が仕舞われたラーメン屋の前に、制服姿の若い自衛隊員二人が立っていた。
湿った風が吹き、看板の電球がわずかに瞬く。
「星嶺さん、でよろしいでしょうか」
低い声が、店先に立つ男に向けられた。
「たしかに私は星嶺ですが…どちらかな?」
帰還者は買い物袋を降ろし、ゆっくりと振り返る。顔には疲労の影が刻まれていたが、視線は鋭く冴えていた。
「防衛省異世界特別対策チームの者です」
「ああ…。店を開けるから中へどうぞ」
暖簾を押し返し、隊員たちは小さく頭を下げて店内に入る。開店前の店内は静まり返り、油の匂いと木のカウンターの冷たさがやけに鮮明だった。
「よく本名までたどり着きましたな」
帰還者は買い物袋をカウンターに置き、腰を下ろす。どっしりとしたその姿は、ただの料理人には見えない迫力を帯びていた。
「一連の事象に対し、様々なオプションをシミュレート。情報収集の結果です」
若い隊員は真っ直ぐに答えるが、緊張が声を硬くしていた。
「一連の事象、とは?」
「ご説明させていただきます」
ファイルが差し出され、帰還者は目を走らせる。
紙をめくるたびに眉が動き、指先が止まった。
「…あのボウズ。そんなことになっていたのか」
声は低く、しかし揺らぎがあった。
隊員は頷き、間を置いてから言葉を続けた。
「我々がお伺いさせていただいたのは、彼についてです」
「…核弾頭を搭載したミサイルを奪取し、アンロック、発射は可能ですか?」
店の空気が一瞬で凍りつく。
蛍光灯の光が白々しく、紙の白さをさらに際立たせた。
帰還者は静かに両手を組み、目を閉じた。
「あのボウズには無理だ。身体がもたん」
若い隊員の視線が揺れる。
「では、星嶺さんは可能でしょうか」
沈黙が流れる。やがて帰還者はゆっくりと息を吐いた。
「…可能だ。安心してくれ。やりはせんよ」
「両者の違いが判断できませんが」
「簡単なこと」
帰還者は口角を上げ、おもむろにシャツの袖を捲り上げる。刻まれた文様が、皮膚の下から淡く光を返した。
「魔素に対するあらゆる術式を、体中に彫り込んでいるだけだ」
視線を落とすと、そこに浮かぶ線と環はただの刺青ではなく、生きるための術式の刻印だった。
痛みと引き換えに力を得た証。
「おかげで温泉にもいけなくなっちまったがな」
自嘲気味の笑いがこぼれる。
だが隊員たちは返す言葉を失っていた。
彼の肉体が兵器そのものだと、直感で理解していた。
♢
小屋の中。
クラヴァルは視線を宙に泳がせ、ひと呼吸おいてから口を開いた。
ランタンの炎がわずかに揺れ、その影が壁を大きく伸びていく。
「言いたくないけど…教えるわ。家名は――」
声が途切れた瞬間、時間さえ止まったように思えた。木壁のきしむ音すら聞こえない。
リゼは無意識に息を止め、ユウも喉が張り付いたように動けなかった。
ただ、次に続くはずの言葉を待つ。
クラヴァルの横顔は笑っているようで、どこか寂しげにも見える。長い銀髪が肩から滑り落ち、光を帯びてゆらめいた。
彼女の唇がゆっくりと開かれる。
「私の家名は――星嶺」
その響きが小屋に落ちた瞬間、ランタンの炎がはぜる。
ユウの胸に衝撃が走り、心臓が一拍遅れて大きく跳ねた。耳の奥で血流の音がごうごうと鳴り、呼吸が浅くなる。
リゼも目を見開き、声を発しようとして、けれど喉が震えるだけだった。
「ホシミネ」――その名の重みが意味するものを探し、思考が空転する。
沈黙は、ただ重苦しく膨れあがっていった。
小屋の狭さがやけに意識される。ランタンの炎がゆらめき、壁に映る影が大きく膨らんでいく。
三人の吐息だけが、やけに鮮明に小屋を満たしていた。




