第5話 画面越しの囁き
陽が高く昇りはじめた頃、リゼは廃村の広場に立っていた。
白く滲む日差しの下、破れた幟がかすかに揺れて鳴る。その音は、まるで何かの囁きのようだった。
崩れた屋根や割れた窓枠、剥がれかけた看板。かつて人がいた気配だけが残された場所に、彼女はひとり、足音を響かせて歩いていた。
瓦礫の間に咲いた小さな花を避けるように、リゼはそっと足を運んだ。
木々に囲まれた廃村。地図上には名前も残っていない、朽ちた家屋と草に埋もれた道が、かつての営みをかすかに伝えてくる。
今日の依頼は、周辺の魔物の調査。
だがそれよりも、この場所に踏み込んだ瞬間から感じていた妙な違和感が、リゼの意識を強く引いていた。
「……誰もいない、はずなんだけどな」
独り言が、ひどく場違いに響いた。
一歩踏み出しかけたとき——
「うしろ——ッ!」
聞こえた気がした。
誰かの声。
確かに、自分に向かって叫ばれた気がした。反射的に体が動いた。振り返るより早く右に跳ねる。
直後、魔物の爪が彼女のいた空間を切り裂いた。
砂埃が舞い、リゼは地面に転がりながら体勢を立て直す。それは異様な姿の魔物。皮膚はただれ、片目が潰れている。
腐臭すら感じるような気配に、背筋が強張った。
両手には短剣。低く構え、じりじりと間合いを図る。
魔物は吠えながら距離を詰めるが、リゼの視線は冷静だった。呼吸を整え、跳びかかってきた瞬間に地を蹴る。
閃いた刃が、魔物の首筋を正確に捉えた。
呻く間もなく、それは崩れるように倒れ伏した。
しばらくその場に立ち尽くし、肩で息をしながら茂みに目を向ける。
何もいない。けれど、消えない感覚があった。
「いま、……誰か、呼んだ?」
誰に向けたわけでもない声が、静かに広場に溶けていく。まるで応答を待つように、リゼは背後を振り返った。
そこには何もいなかった。
♢
日が変わっても、奇妙な感覚はまた現れた。
リゼは遺跡の奥に続く洞窟を、ゆっくりと進んでいた。
足元を照らすランタンの炎がかすかに揺れるたび、壁に伸びる影が脈打つように動いた。
空気は湿っていて重たく、足音がぴちゃりと水たまりを踏むたび、音が反響する。
それ以外は何も聞こえない。静かすぎるほどだった。
彼女は何度か後ろを振り返った。
人の気配はない。なのに、背中にまとわりつくような視線の感覚が拭えなかった。
天井の低い通路を身をかがめて進んでいたとき、ふと立ち止まる。
岩肌をつたう水滴が、肩口に落ちる。ぴちゃりという音に続いて、背後の影が微かに揺れた気がした。
——ひとつ、多い?
ランタンの明かりの範囲に収まるはずの影が、壁に二重に映っていたように見えた。
見間違いかもしれない。でも、皮膚の下を這うような冷たいざわめきは、それだけで十分に“本物”だった。
洞窟の出口が見えてきたとき、リゼは足を止め、そっと振り返った。暗がりに沈む通路を見つめながら、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……誰か……見てる?」
耳に届いた自分の声に、ほんのわずかに目を見開く。言うつもりなどなかったのに、自然とこぼれていた。
けれど、その答えはどこからも返ってこなかった。
♢
薬草採取の依頼を選んだ日、リゼは草原を歩いていた。
高く澄んだ空の下、陽光を反射する草原がどこまでも続いている。帽子が風に煽られ、手で押さえながら、彼女はゆっくりと丘を越えていく。
その足取りは、まるで誰かの気配を探しているようだった。
ふと立ち止まり、空を見上げる。
風が吹き抜け、草の波がざわめいた。
「……誰かの“視線”が……」
ぽつりと漏れたその声に、自分で驚いたように瞬きをする。
すぐに、もうひとつ言葉がこぼれた。
「違う、“声”かな」
自分の声が、自分に問いかけているようだった。
理由はわからない。でも、確かに何かが届いていた気がした。
それが“視線”なのか、“声”なのか——答えは曖昧なまま、でも、感覚はあった。
そして、ほんの少し呼吸を整えてから、リゼは草原の風に向かって言った。
「……ねぇ、あなた、誰?」
それは誰に届くでもない、問いだった。
けれど、胸の奥に残っていた違和感と温もりが、言葉となって滲み出た瞬間だった。
♢
夜になり、宿へ戻ったリゼは、ひとり湯屋に向かった。
扉を開けると、湯気とともにほのかな香草の匂いが立ち上る。
衣服を脱ぎ、湯に身を沈めた瞬間、張り詰めていた肩の力がふっとほどけていくのがわかった。
湯の熱がじわじわと肌を包み、呼吸がゆっくりと深くなる。閉じた瞼の裏に浮かぶのは、今日の草原で交わした言葉だった。
——誰かの“視線”が。
——違う、“声”かな……
——ねぇ、あなた、誰?
言葉にしたときには、自分でも驚いていた。
けれど今は、その感覚が不思議なほど、身体に馴染んでいる。
あのとき——
廃村で反射的に跳ねた瞬間。
洞窟の奥で、無意識に漏らした言葉。
そして草原で、風に届いた問いかけ。
全部が、偶然だったとは思えなかった。
リゼは湯に背を預けるようにして、天井を仰いだ。誰もいない湯屋。静寂のなか、湯面がわずかに揺れている。
「気のせい、なんかじゃないよね」
ぽつりと呟いた声が、湯気に溶けて消えていく。
微かに笑ったような表情のまま、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
その胸の奥には、名前のない温もりが、確かに息づいていた。




