第36話 揺らぐ
相互フレームがゆるやかに開いた。
宿のランプに照らされた部屋で、リゼはまっすぐユウを見つめていた。
その声は静かだが、張り詰めた刃のように鋭い。
「…あの娘、あなたを狙ってる」
ユウは息を止めた。
クラヴァルが名を呼んだ瞬間の光景が、二人の間に重く沈んでいる。
「…クラヴァルって言ったよね?誰?」
リゼの視線は逸れない。
ユウは机に肘をつき、目を伏せた。
「別大陸で有名な冒険者だよ。実力も人気もある…俺だって配信で知っただけだ」
そう言ってから、苦笑のように唇を歪める。
「人気配信者、ってやつ。俺からすれば遠い世界の人間で…でも」
言葉が喉で詰まり、沈黙が落ちた。
「俺のことなんて知るわけがないはずなんだ」
「でも、呼んだ」
リゼは即座に切り返す。
「あなたの名前を。…それだけで十分よ」
彼女の声音は落ち着いているのに、眼差しは鋭く、揺れながらも必死だった。
「…あの瞬間、あなたに触れてきた気配がしたの」
ユウは目を見開いた。
「触れた…?」
「戦場でしか感じないはずの“虚の手”が…あなたに届いてた。剣よりも早く、声であなたを奪おうとした」
リゼの肩が小さく震える。
思い返すたび、胸の奥に熱と冷たさが同時に広がっていく。
「もし…あなたが返事してたら、私…どうすればよかったの」
その言葉にユウは喉が詰まった。
「違う、そんなことあるわけ──」
「あるのよ」リゼが遮る。
「戦ってると分かる。あれはただの声じゃなかった。力を持った呼び声だった」
リゼは拳を握りしめる。
「…あなたを取られるんじゃないかって。胸が焼けるみたいで、怖くて」
声が震え、呼吸が荒くなっていく。
「ねえ、ユウ。もしあの娘があなたの前に現れて、『一緒に来て』って言ったら…あなた、どうするの?」
問いかけは低く、でも逃げ道を許さない鋭さを帯びていた。ユウは言葉を失い、ただ首を横に振るしかなかった。
リゼは視線を落とし、小さく呟いた。
「…私、弱いのかな」
その吐露は、嫉妬と恐怖と自己不信がないまぜになった響きだった。
「違う!」
ユウは声を張った。椅子から前のめりになり、机に拳を置く。
「リゼは弱くなんかない!」
胸の奥が熱くなり、言葉がほとばしる。
「巻き込んだのは俺なんだ。あんなふうに狙われたのは…俺が無力だから。リゼのせいじゃない」
「でも、私…守れなかった」
リゼは顔を上げない。
「守れてた!」
ユウは即座に返した。
「俺が何もできないから、不安にさせただけだ。弱いのは俺のほうだ」
リゼの瞳が揺れる。
「…どうして。どうしてそんなふうに自分を責めるの」
「だって、俺じゃなきゃ狙われる理由なんてない。だから俺がどうにかする」
ユウの声には必死さが滲んでいた。
リゼは首を振る。
「そっちにいるあなたが、どうにかできるはずないでしょう? …それでも、そんなふうに言うのは」
彼女は息を飲み、目を伏せた。
「まるで…私の…ゴニョゴニョ…みたいな顔して言うから、余計に…」
言葉を切ると、耳まで赤く染まっていた。
ユウは胸が跳ねた。
「…ごめんでも、それでも言いたいんだ」
♢
その頃、街の高台からジャスクの二人が遠目に見下ろしていた。
「あれが高名なクラヴァル嬢か。アタシ、勝てるかな」
ハナラが腕を組み、じっと目を細める。
「その問いに解はない。それが答え」
ロアは無表情に書板へ走り書きをしていた。
「ナズくん復活まだかなー」
「昨晩は三人でヌップリでしたから」
「またそれ? 真面目に考えなさいよ」
「真面目に、ですよ」
二人のやりとりは軽口に見えて、しかし視線は決して逸れていない。クラヴァルの行動を逐一解析するかのように、研ぎ澄まされた視線で追い続けていた。
♢
フレームの光が揺れる。
リゼは深く息を吐き、俯いたまま呟いた。
「…あなたを守りたいのに、怖い」
その一言がユウの胸を鋭く貫いた。
「リゼ……」
彼は何か返そうとした。けれど声になる前に、フレームがわずかに揺れた。ノイズがひときわ強く走り、光が静かに閉じていく。
最後に見えたのは、リゼが唇を噛んだ横顔だった。
残されたのは、不完全な会話の余韻。
胸に沈むのは、互いの揺らぎだけだった。




