第35話 こんにちわバズ
朝の電車は、いつもと同じ満員だった。
吊り革につかまる大人たちの肩が触れ合い、車掌のアナウンスがかき消されるほどのざわめき。
けれど今日は、広告よりも速く、別の情報が空気を埋め尽くしていた。
耳を澄ませば、あちこちから「ユウ」という単語が小さく漏れ聞こえる。知らない誰かの会話が、すでに自分の名前を勝手に使い始めている。
ユウのスマホは、ポケットに入れていても震え続けていた。
通学中にちらりと覗いたSNSのタイムラインは、画面の半分以上が同じワードで埋め尽くされていた。
──《ユウ》
《クラヴァルが生配信で“ユウ”を連呼!》
《トレンド1位爆速w》
《誰だよ一般人の名前w》
画面をスクロールするたび、切り抜き動画が次々に貼られていく。
クラヴァルの熱のこもった叫び、そしてその直後に返ってきたリゼの冷ややかな「……誰?」。
二つの断片が繰り返され、コメント欄は炎上を通り越して祭り状態だった。
編集された動画の中にはBGMが付けられ、字幕が煽り文句に差し替えられたものもある。
笑い声のSEすら足され、現実が悪趣味なバラエティ番組の一場面にされていた。
握りしめた手のひらに、汗がじわりと広がる。
通学電車の騒音よりも、その声が耳にこびりついて離れない。どれだけスマホを閉じても、頭の奥で「ユウ!」と響き続けていた。
吊り革に掴まる指が震えているのを、誰にも悟られたくなくて必死に力を込める。目を閉じても光景は消えず、吐き出す息だけが熱を帯びていた。
♢
学校に着いた瞬間、ざわめきはもう廊下を支配していた。
すれ違う生徒の会話、開け放たれた教室から漏れる笑い声。そのどこかに必ず「ユウ」という言葉が混じっている。
スマホを手にした同級生たちがにやにやと画面を見せ合い、廊下の壁に背を預けて囁く。ユウが通るたび、声のボリュームがわずかに下がるのがわかった。
「なあ、“ユウ”って……お前?」
「いやいや、偶然だろ。同姓同名なんていくらでもいるし」
「でもさ、声のトーン、リアルだったよな?」
机に鞄を置いたユウは、視線を逸らした。喉が乾いて言葉が出てこない。そんな背中を、春川が半笑いで叩く。
「おい、トレンド1位。やべぇぞ……笑えって」
笑えなかった。口の中が砂漠のように乾いて、呼吸さえままならない。
目の前の教科書の文字は全部バラバラに見え、黒板の文字すら意味を結ばなかった。春川の表情が真剣に変わる。
「……お前、顔真っ青だぞ」
♢
昼休み。
机に突っ伏したままのユウのスマホは、止まらず震え続けていた。
通知。通知。通知。際限なく流れ込む「ユウ」という文字列。一度でも画面を開けば、また別の推測や冗談が波のように押し寄せる。
《ユウ=クラヴァルのペット説w》
《犬か猫か論争開始》
《ユウ=古代語で“勇者”の意味!伏線か!?》
《NPCに中の人いたw》
《宣伝アカでしょ。運営の茶番乙》
《リゼの裏アカ男説爆笑》
《ユウ=開発者の隠し子》
《いや実在しない。全部AI》
タイムラインは、真実から遠いほどに勢いを増していった。誰も知らないからこそ、外野は自由に描き換える。笑い半分、考察半分。
ユウの顔写真を拾ってきたかのような合成画像まで流れていて、見覚えのない自分の姿が「証拠」として拡散されていた。
否定の声は一瞬で埋もれ、からかいと推測だけが雪崩のように積み上がる。
その全てが「ユウ」という名前を勝手に肥大させていく。
──名前ひとつで、物語が勝手に書き換えられていく。
指先が震え、スマホを伏せても振動は止まらない。耳の奥で、まだクラヴァルの「ユウ!」が何度も反響していた。
心臓は痛みを伴って脈打ち、机の上に置いた腕が自分のものではないように冷たかった。
教室の隅。数人がスマホを囲み、楽しげに笑っていた。
「ほら見ろ!“ユウ”って叫んでる!やべぇ修羅場w」
「次は《リゼ派 vs クラヴァル派》の殴り合いだな」
「実況スレの勢いやべぇ。越えちゃいけないライン超えてんぞ」
ネタ扱い、実況扱い。
まるで祭りの屋台みたいに勝手に盛り上がっていく。笑い声は耳をすり抜け、心臓だけを圧迫する。
当人だけが、そこに混ざれなかった。
昼食の匂いも、窓の外の青空も、全部が自分だけ異質に見えた。
春川がもう一度肩を叩いた。
「いいから、飯行こうぜ。……お前、ほんと限界きてる」
ユウは無言で頷いた。足元が揺らぐのを必死で隠す。胃は空っぽなのに、喉の奥が鉄の塊みたいに重かった。
♢
放課後。
夕暮れに染まった廊下を歩き、ロッカーを開けた瞬間、一枚の紙切れが落ちた。
《ユウ=接続者?》
震える手で握りつぶす。けれどスマホはまだ震え続けている。通知が途切れることはなかった。
《ユウ=勇者の再来w》
《ユウ=裏アカで愚痴ってるやつ》
《ユウ=公式の仕込み》
どれも的外れ。
なのに否定する言葉を口にした瞬間、その物語に取り込まれてしまう。
自分が発した言葉がまたスクショされ、切り抜かれ、別の解釈を生む未来が容易に想像できた。
ユウは背を壁に預け、目を閉じた。
廊下のざわめきが遠のき、代わりに耳の奥でクラヴァルの声が蘇る。
──名前を呼ばれた。
ただそれだけで、現実と画面の境界が揺らぎ始めている。
誰にも説明できない重さが、胸の奥で波のように繰り返されていた。
そしてユウは気づく。もう「無関係な一般人」として暮らすことはできないのだと。
世界は、勝手に彼を物語の中心へと引きずり込んでいく。




