第34話 ハイギアードコリジョン
朝の陽が石畳を照らし、街路の影を長く伸ばしていた。
リゼは腰に剣を下げ、軽やかに歩を進めている。
数日残っていた脚の痛みは、ほとんどなくなっていた。踏み出すたびに確かめるように地面を蹴ると、その反動が心地よい。
耳の奥で、馴染み始めた声が響いた。
──ユウだ。
もちろん周囲からは見えない。
今は「配信モード」のため、映像に映るのはリゼの姿だけ。けれどリゼにとって、その声は誰よりも近く、確かな存在だった。
「今日は、何の依頼?」
軽口を叩くような調子。リゼはわずかに肩を揺らし、吐息を笑みに変える。
「森の外れ。……ちょっとした獣退治よ」
「危なくないの?」
「平気。もう走れるし、剣も振れる」
「これってさ……」
「なに?」
足を止めずに返す。
すると画面越しに、ユウが口ごもるのが伝わってきた。
「……俺も、一緒に歩いてる気がする」
唐突な言葉に、リゼは思わず頬を赤らめた。
傍から見れば独り言のように映るはずだ。だが彼女にとっては違う。
歩調が自然と緩み、視線は石畳の影を追う。まるでそこに、彼の足跡が並んでいるかのように。
「……じゃあ、置いてかれないようにしなさい」
わざとつんとした声を返す。
だが胸の奥は、不思議なほど温かかった。
ユウがくすぐったそうに笑う気配を送ってきた。
その音が耳に残り、リゼの口元も自然と緩む。
街の門が近づいてくる。
門兵に軽く会釈しながら、リゼは背筋を伸ばした。
──彼が隣にいるわけじゃない。
でも、いるように感じてしまう。
その錯覚を否定するのは、もはや難しかった。
♢
石畳が続く街道を、リゼは軽快に歩いていた。
画面越しに見つめていたユウは、思わず声を弾ませる。
「リゼ、やっぱり調子よさそうだな」
彼女は視線を横に流すようにして、微笑んだ。
「言ったでしょ。もう走れるって」
そのやりとりが心地よい。
だが次の瞬間、ユウの耳に違和感が走った。
──地鳴り。
ほんの僅かだが、確かに振動が伝わってきた。
画面の端がわずかに揺れ、リゼの足も止まる。
「……今の、聞こえた?」
問いかけた瞬間。地面が裂けた。
石畳が跳ね上がり、土煙とともに何かが飛び出す。
棘のように尖った腕──いや、鋼鉄の杭のような異形の肢が、一直線にリゼの胸を狙って迫ってきた。
「リゼッ!」
ユウは絶叫した。
指先が反射的にスマホを握り込み、画面に手を伸ばす。けれど掴めるはずがない。
現実に届く術を持たないことを、痛いほどわかっているのに。
視界がスローモーションのように伸びる。
リゼの瞳が驚愕に見開かれ、身体が半歩だけ遅れる。鋭い一撃が彼女を貫こうとした──。
光が割り込んだ。
刹那、眩い斬線が横合いから走り抜ける。
音をも切り裂くような閃光。
異形の肢は空中で断たれ、血煙と黒い霧を撒き散らしながら弾け飛んだ。
リゼは反射的に剣を抜き、後退する。
荒い息をつきながらも視線を前へ──そこに立つ影を見た。
黒煙を切り裂き、砂塵を押しのけて姿を現したのは──一人の少女だった。まだ十代半ばほどに見える。銀の髪は乱れ、頬には薄い泥がついている。
けれど瞳だけは異様な熱を帯び、まっすぐにこちらを射抜いていた。その手には、まだ淡い光を残す細剣。
地に伏した脅威の残骸からの血煙が、石畳づたいにじわりと広がっていく。
「……速い」
リゼが小さく呟いた。
彼女の視界に入った少女は、敵意もなく、勝ち誇ることもなく──ただ一つの対象に向かっていた。
「ユウ!」
名を呼んだ声は、画面を揺らすほどに真っ直ぐだった。
その瞬間、ユウは息を止めた。
「……え……?」
リゼの耳にも届いた。
彼女の眉がぴくりと動き、剣を握る手に力が籠る。彼女は返事を待たず、まるでフレームの内側を覗き込むようにさらに踏み出した。
頬は紅潮し、瞳は潤んでいる。
戦闘直後の緊張ではない。
押し殺してきた感情が堰を切ったようにあふれ出していた。
「ユウ、見えてるんでしょ? 私……クラヴァル! やっと──会えた!」
叫びは剣撃よりも鋭く、リゼの心臓を突いた。
「……誰?」
リゼの低い声が、冷ややかに空気を裂いた。
その一言に、ユウの喉が詰まる。
画面越しに絞り出すように応えた。
「クラヴァル……?」
ユウが小さく名を呼んだ声は、かすかに震えていた。画面のこちら側でその名を拾ったリゼの表情が、瞬時に硬くなる。
「……ユウ?」
低く呼びかけるその声音は、剣先よりも鋭かった。
ユウは唇を噛む。
否定も肯定もできず、ただ視線を泳がせる。
フレーム越しに、リゼの瞳が彼を縫いとめていた。
「あなた……ユウの知り合いなの?」
リゼの問いは淡々としていた。怒鳴り声でもない。それだけに、胸を締め付けるような冷たさがあった。ユウは声を失い、喉の奥が痛む。
答えられない沈黙が続く。
クラヴァルはそんな二人の空気をものともせず、一歩前へ踏み出した。
「そうだよ!ユウと私……ずっとずっとずっとずっと会いたかったの!」
その顔は必死で、頬に泥がついていることすら気づかない。ユウは胸の奥をかき乱される。
“会いたかった”──その響きに心臓が跳ねたのは、無視できない事実だった。
だが、同時にリゼの手が剣の柄を強く握るのが見えた。震える肩、揺れる瞳。彼女の中に渦巻く感情が、ユウにまで突き刺さる。
「……ユウ」
再び、名を呼ばれる。さっきよりも低く、冷えた声で。その一言に、ユウの全身が固まった。
クラヴァルの熱い視線と、リゼの冷ややかな問い。二つの矢が同時に心臓に突き立ち、ユウは動けなくなる。
答える言葉が、どこにも見つからなかった。
♢
リゼの配信は静かだった。
日中の彼女の姿。コメント欄は空白のまま。
そこに残っているのは、自分ひとりの視線だけ。
ユウは嫌な予感をおぼえ、震える指でチャンネルを切り替えた。
……次の瞬間。同じ場面がスマホに映し出される。ただしカメラのアングルが違う。
砂塵の中、脅威の残滓を背に立つクラヴァル。
その金の盾が目立つ配信は、まるで祭りの会場のようにコメントが滝のように流れていた。
《なに今ユウって呼んだ!?》
《誰だそいつ!?》
《意味わからん》
《なんのこと?空気やべえw》
文字の奔流に、ユウの呼吸が止まる。あり得ない。自分は、ただの一般人で、どこにも名前なんて知られていないはずなのに。
クラヴァルは頬を紅潮させ、真正面を見据えて笑う。カメラの奥から、ユウだけに届くように。
「ユウ! 聞こえてるんでしょ? 私、クラヴァル。会いたい!」
……世界が、逆さまにひっくり返ったように感じた。誰も知らないはずの自分の名前が、今、群衆の熱狂に飲み込まれていく。
画面の隅で、コメント数が秒ごとに跳ね上がる。
炎のように荒れ狂う文字列。ユウの心臓は、叩き割られるように激しく鳴っていた。
次の瞬間、アプリが負荷に耐えきれず、強制クールダウンに落ちる。
画面が真っ黒になっても、瞼の裏にはあの光景が焼きついたままだった。
「……どうして……俺の名前を」
呟いた声は自室の壁に吸い込まれ、誰にも届かなかった。




