第33話 ローギアードスウィート
ユウは深く息を吸い、スマホを手に取る。
画面に映るのは、見慣れたアプリのアイコン。指先が触れただけで心臓が強く跳ねるのを感じる。
「……リゼ」
小さく名前を呼ぶ。
その瞬間、画面の縁に淡い光がにじんだ。
ゆるやかな揺らぎが空間に広がり、やがて眼前の空気が静かにめくれ上がる。
フレームが開く。
現れたのは、石造りの壁とランプの柔らかな光に照らされた部屋。ベッドに腰掛ける少女の姿が、はっきりと映し出される。
「……ユウ」
リゼが、こちらを見て微笑んだ。
その表情に、不意に胸の奥が熱くなる。
かつては一瞬で途切れていた接続。それが今では安定して続いている。ユウは無意識に、机に広げた教科書をそっと閉じた。
視線の先には、画面ではなく確かに“彼女”がいる。
互いに言葉を交わさなくても、顔を見合わせるだけで、胸のざわめきが静かに溶けていくのを感じた。
宿の窓から入り込む夕暮れの光が、部屋の床を斜めに染めていた。
ベッドに腰を下ろしたリゼは、胸元で結んでいた包帯を外して指で確かめる。もうほとんど跡が残っていない。深く息を吸って、ゆっくり吐く。
「……もう、走れるの」
少し得意げにそう告げると、フレーム越しのユウが目を見開いた。
「ほんとに? ……よかった」
声が弾んでいた。
画面の向こうで彼は机に肘をついて前のめりになっている。まるで、自分のこと以上に安心しているみたいに。胸の奥に、不思議な揺らぎが生まれる。
その眼差しを受け止めていると、体の奥にまだ残っていた痛みが、ほんの少し遠のいていく気がした。
「今日は……よく眠れそう」
口にしてみると、ユウの顔がさらに緩む。
「それなら安心だな」
小さく呟いた彼の拳が机の端で握られているのに気づき、リゼは視線を落とした。
どうしてそんなに真剣になるのか──問いかけようとして、喉に言葉がつかえる。
しばし、互いに沈黙した。
ただ視線が絡んだまま離れない。
彼の眼差しは、戦いの場で見たどんな剣よりも鋭く、そしてどうしようもなく優しい。
「……リゼって、こうやって話してると……強い人なのに、普通の女の子なんだな」
ユウがふと零した言葉に、心臓が跳ねた。
「……そんなこと言われたのはじめて」
思わず返した声が小さくなる。
戦いの中でしか自分を測られなかったこれまで。
けれど、この少年だけは、違うところを見ている。熱が頬に上る。逸らそうとしても視線は絡みついたまま。
距離を隔てているはずなのに、妙に近い。
息の仕方まで意識してしまうほど、静かな圧が二人の間に漂っていた。
フレームは静かに、二人を閉じ込めていた。
互いの部屋と宿を繋ぐ窓──けれど、その境界があることすら忘れてしまうほど、視線が重なり続けている。
リゼは、少し迷ったあとで息を整えた。目を逸らさずに、けれど声だけがわずかに揺れていた。
「ユウは……こちらに来られたら、私に……何を教えてくれるの?」
問いかけは、ほんの少し照れを含んでいた。
からかいでもなく、真剣すぎるわけでもなく──ただ確かめるように。
ユウの胸が、熱を帯びる。
喉が渇くような感覚。
けれど、言葉ははっきりと出た。
「全部。……ぜんぶ見せたい」
「……でも、まずは……並んで歩くのから、かな」
返事を聞いたリゼは、わずかに目を見開き、それから頬を染めて下を向いた。唇が震え、言葉にならない。ユウはその仕草に胸を打たれる。
同時に、以前の「肩の温もり」の記憶が蘇ってくる。無意識に、手がフレームへ伸びかけた。
その先にある温もりに触れたくて。
しかし指先が縁に触れる直前、ユウは動きを止めた。呼吸が詰まり、拳を握って引っ込める。
リゼもまた、その一瞬を見逃してはいなかった。
目を上げたとき、彼女の瞳は淡く潤んでいて──
けれど、何も言わずに小さく微笑んだ。
境界を越える勇気は、まだお互いになかった。
それでも、二人のあいだには確かに未来を望む予感が漂っていた。
静かな視線のやりとり。
互いに言葉を探さず、ただ相手の息づかいを感じ合う時間が流れていた。
けれど、その外側──フレームの縁が、ごくわずかに揺れた。誰かの指先が撫でたように、ノイズがかすかに走る。
ユウもリゼも気づかない。
彼らの瞳は、互いしか映していなかったからだ。
ノイズは一瞬で収まり、また静けさが戻る。
だが画面の隅には、ほんの刹那、別の影が映り込んでいた。淡く、灰色のシルエット。
それは人の形をしているようにも見えたが、即座に溶けるように消えていく。
──見ていた。
二人は知らない。
ユウはフレームの奥にいるリゼへ、小さな声で言った。
「……おやすみ、また明日」
リゼは頷き、短く返す。
「ええ。……おやすみなさい」
画面が閉じる。
けれど“閉じた先”には、まだ誰かの視線が残っていた。




