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第32話 残響の囁き

豪華な宿の一室は、まるで舞台裏の楽屋だった。


鏡台の上には香水の瓶がいくつも並び、色彩豊かな衣装が整然とハンガーにかかっている。


化粧道具は丁寧に揃えられ、誰が見ても「女神クラヴァル」の顔をつくるための道具だとわかる。


その中央で、当の本人は椅子に深く腰掛けていた。


化粧を落とした素肌は白く、艶やかな光沢を失った髪はただの重たい銀糸に見える。笑顔も、華やかさも、そこにはない。


鏡越しに映る自分を見て、クラヴァルは口角を下げた。


視線は硬質な氷のようで、さきほどまで群衆を熱狂させた“女神”とはまるで別人だった。


部屋の外では街の喧噪がまだ鳴り響いている。


祝祭のように賑やかなアヴラスの音が、厚いカーテン越しにぼんやり届いてくる。だが、この部屋だけは静まり返っていた。


喧噪と静寂。華やかさと虚無。その対比が、彼女の孤独をより際立たせる。


「……やっと、鬱陶しいのが消えた」


吐き捨てるような声が、静寂を切り裂いた。


笑顔の裏でずっと感じていた視線。舞台の光を浴びているときですら消えなかった“何か”。


彼女はそれを「鬱陶しい」と呼んだ。

だが、吐き捨てた直後。

胸の奥に、じわりと別の感情が芽吹く。


──本当に、消えたのだろうか?

──それとも、まだ自分を見ている?


冷たい仮面の下に、微かな熱が灯る。

クラヴァルは鏡台に置かれた水晶のペンダントを指先で転がした。


部屋の空気がわずかに軋んだ。

指先から零れ落ちる魔素が水面の波紋のように広がり、光粒となって宙に舞う。


ランプの明かりに混ざって淡く瞬きながら、見えない糸を編むように広がっていく。


やがて、その光粒は震えながらひとつの形を結んだ。耳の奥に、甘やかな響きが忍び込んでくる。


「……ユウ」


クラヴァルの呼吸が一瞬止まる。

その名を舌で転がすように繰り返す。


「ユウ……ユウ……甘い響き」


指先で宙に浮かぶ文字をなぞる。


見えないはずなのに、まるで実体があるかのように柔らかく、温かく感じられる。撫でれば撫でるほど胸の奥に熱が籠もり、喉が渇く。


続いて、別の残響が滲み出した。


「……リゼ」


女の名前。

クラヴァルの眉がひくりと動く。


「リゼ……女……」


吐息が荒くなる。舌打ちを噛み殺しながら、何度も繰り返す。


「ムカつく……。ユウの隣にいるのは、あなた?」


光粒を掴むようにして、彼女はベッドに倒れ込んだ。絹のシーツに頬を押し付け、空気を抱きしめる。そこにいるはずのない誰かを求めるように。


──小さい頃。母から聞いたことがあった。


“別の世界から来た人”の話を。昔、そういう人物がいたと。けれど会うことはできなかった。彼は「帰ってしまったから」。


クラヴァルはシーツに顔を埋め、震える声で笑う。


「似てる……。あの話に。……まさか、ユウ」


抱きしめる腕に力が入る。見えないはずの存在を、まるで目の前にいるかのように想像して。


彼女の胸は早鐘を打ち、呼吸は熱に浮かされていく。


「……ずるい」


ベッドに横たわったまま、クラヴァルは吐息混じりに呟いた。


「ずるい、ずるい……!」


白銀の髪が枕に広がり、指先はシーツをきつく握りしめる。彼女の瞳は虚空を見つめ、そこに誰かの姿を描いていた。


「リゼ……あなた、もう抱きしめてもらったんでしょう?」


唇から漏れる声は甘やかで、まるで恋人に囁くようだった。だが次の瞬間、彼女は鏡台に立ち上がり、鏡を覗き込んだ。鏡の中の自分に向かって囁く。


「ユウ……ねぇ、私の名前を呼んで」


もちろん返事はない。

沈黙に耐えかねた彼女は、声を低く変え、自分で答えを作り出した。


「クラヴァル……」


──ユウの声を真似て。


その瞬間、クラヴァルの表情は蕩けた。

頬を染め、鏡に額を押し付け、笑みを浮かべる。


「聞こえた……。聞こえたよ。ユウが私を呼んだ……」


だが次の瞬間、現実が冷たく刺す。


「でも……呼んでるのは本当はリゼなんでしょう?」


彼女は鏡に爪を立てた。

きぃ、と嫌な音が響き、ガラスに白い筋が刻まれる。


「ずるい……あなたばっかり……!」


堪えきれず、後ろに倒れ込む。

床に頭を何度も打ち付け、歯を食いしばる。


「ユウ……欲しい、欲しいよ……!」


爪を腕に立てると、白い肌に赤い線が浮かぶ。

痛みはほとんど感じない。ただ熱が増すだけ。

枕を噛みしめながら、甘い声で呟き続ける。


「セツゾクが欲しい……。ねぇ、ちょうだい……」


股に這わせた指先を強く動かすたびに震えを呼ぶ。それは快楽ですらなく、渇望の暴走。


「ユウ…あっあっあっ…ッー!」


“接続”──本来はただの観測の線。


だがクラヴァルにとっては、最も切実で、最も淫らな欲望になっていた。


「ハァハァ…ユウ……あたしだけを見て……」


涙で濡れた頬に、熱が広がる。

笑みと嗚咽が交互に重なり、狂気のリズムが部屋を満たす。


──その先にあるのは破滅か、至福か。


クラヴァルの胸中には、もはや選択の余地はなかった。



夜風が窓を揺らした。


アヴラスの街は、昼の喧騒を終えて穏やかな灯りに包まれている。酒場から笑い声が漏れ、石畳を歩く人々は安堵の空気を漂わせていた。


その平和を背に、クラヴァルは窓辺に立っていた。白銀の髪が月光を受け、夜風に揺れる。


頬にはまだ涙の跡が残っていたが、唇は冷たい笑みを刻んでいた。


「ユウ……ねぇ、待ってて」


その声は甘く、囁くたびに夜気が震える。


「あなたの視線、温度、全部……あたしがもらうの。リゼなんかに渡さない」


指先から魔素が滲み、夜空に漂う。

虚空に刻まれたのはひとつの名。


──リゼ。


その文字を見下ろすように、クラヴァルはにやりと笑った。


「その接続、譲ってもらう」


窓の外で、子供たちの笑い声が響いた。


けれど彼女の部屋だけは、異質な空気に満ちていた。狂気を孕んだ声が、街のざわめきに紛れて消えていく。


「……ユウ。全部壊してでも、奪ってあげる」


吐息混じりの囁きは、夜の帳に沈み、誰の耳にも届かない。ただひとつ、彼女の胸に残る熱だけが、静かに燃え続けていた。


──女神の仮面を捨てた狩人が、獲物を見定めた瞬間だった。

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