第3話 誰かに見られている
朝の光が、薄く開いた木の窓から差し込んでいた。
干しかけの洗濯物がカーテン代わりに揺れ、部屋には布と乾いた石鹸の匂いが漂っている。
リゼは眠気を抱えたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。木枠の隙間から差し込む陽が、天井の節をじわじわと照らし、細い埃が浮かんでいる。
ふとまばたきをひとつ。まだ夢の残り香が瞼の裏にまとわりついていた。
──変な朝だな。
身体は軽いはずなのに、ほんの少し重だるさが残っている。夢を見ていた気もするけど、細部はもう曖昧だ。
目覚めきらない頭の奥で、ひっかかる何かをそっと追い出すように、リゼはゆっくりと身体を起こした。
廊下の向こうで、カヤと宿の女将が朝の雑談を交わしている。台所からは湯の沸く音。カヤのくぐもった笑い声に、どこかほっとする。
──あの人の声は、なんであんなに朝に馴染むんだろ。
耳を澄ませたまま、リゼは上着の袖に腕を通し、装備のベルトを締めた。
小さく背伸びをひとつ。背筋がぱきんと鳴った。
──さて、と。
冒険者としての一日が、また始まる。
♢
ギルドは、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。ざらついた石床には泥が混ざり、椅子と机の脚があちこちで引きずられている。
剣を背負った者、商人と話す者、仲間と地図を広げる者。その全員が“今日を生きるため”に集まっている。
掲示板前に立ったリゼは、羊皮紙の束に目を走らせた。
近隣の巡回、荷物の護衛、討伐、調査。どれもそれなりの報酬と危険がある。
「このあたり、遺跡探索の再調査が多いね」
声をかけてきたのはカヤだった。肩越しに依頼内容を覗き込んでくる。
「魔物の痕跡だけ確認してほしいってさ。報酬は少なめだけど、時間かからなさそう」
「……じゃあ、これで」
リゼが指さしたのは、街の北東にある古い遺跡跡。カヤは小さくうなずき、羊皮紙を引き抜いた。
「終わったら集合ね! 帰りにパン屋寄ろうよ。あそこの干し葡萄のやつ、また出てたよ」
「……うん、いいね」
誰かと予定を口にすることに、リゼはまだ少し慣れなかった。
◇
石畳の奥、風の抜けない空間。
北東の遺跡は、外観こそ崩れていたが、内部はまだ深く残っていた。
松明に火を灯し、リゼは足元を慎重に確かめながら進む。壁には古びた文様が刻まれ、所々に石器の破片が転がっている。
空気は乾いているはずなのに、肌がじっとりと汗ばむ。しんとした静けさの中、水の滴る音がどこか遠くで響いていた。
ふと立ち止まり、周囲を見回す。
何もいない。音もない。だが、空気が張りつくような圧を持っていた。
「……罠は、なさそう」
声に出してみた。けれど自分の声すら、壁に吸い込まれて返ってこない。一歩、また一歩と進んだところで、リゼの足が止まる。
(……やめておこう)
明確な根拠はない。
だがこの違和感は、何度か命を拾ったときに似ていた。勘ではなく、肌が覚えている何か。リゼはゆっくりと後ずさり、松明の灯りを頼りに、来た道を引き返した。
◇
依頼の報告を済ませたあと、街の石畳をリゼはひとり歩いていた。
カヤはパン屋の前で店主と話し込んでいた。なにやら新作のパンを薦められているようだった。
パン屋の角で別れたあと、水路沿いの小道を歩く。家々の軒先には洗濯物や薬草が吊るされ、草花の鉢植えがところどころに並んでいた。
「帰ったらまず洗濯しなきゃ」
そんな独り言に、近所の主婦が反応した。
「あらリゼちゃん、おかえり。ひとり?」
「はい、ただいまです」
挨拶だけは自然に出るようになった。けれど、それ以上の言葉が続かない。街の人々と“地続き”に生きているという実感は、まだどこか遠い。
水面に日差しが砕け、きらきらと輝いている。
風が髪をなで、パンの甘い香りと街の土埃が混じりあう。
光の形が、どこか懐かしいものに見えたのは──ただの気のせいだろうか。
♢
宿に戻った頃には、カヤはすでに部屋に戻っていた。ベッドに腰かけ、布張りの本を静かに読んでいる。
「おかえり」
「ただいま」
リゼは洗面器の水で手と顔を洗い、濡れたタオルで首元を拭う。
孤児院にいた頃と比べて、少し発育したかも……と密かに思うが、カヤを横目で見て、すぐに打ち消す。
簡単に身支度を整えると、自分のベッドに身体を倒した。天井を見つめ、静かに息を吐く。
──さっきの遺跡。あの空気。
──あの、背中にまとわりつくような違和感。
「……なんだったんだろ」
声は部屋の空気に吸い込まれた。
窓の外では、夜の風がそっと部屋を撫でていく。
──誰かが、見ていたような気がした。
その言葉が喉まで来て、けれど口にはしなかった。
今日のことは、明日の自分に委ねよう。
そう決めて、リゼはそっと目を閉じた。




