第28話 異世界配信サービス-4-
放課後の自室。
机の上には開きっぱなしの教科書とノート、散らかったシャープペンや消しゴムが点々としている。
ほんの少し前まで宿題に向かっていたはずなのに、視線はとっくにスマホに釘付けだった。
ここ最近、帰宅して机に座るときの流れは決まっている。鞄を放り投げ、ノートを開き──そして、スマホを両手に包み込む。
ページをめくるよりも、キーを叩くよりも、まず「彼女に声をかけること」のほうが自然になっていた。
初めて名前を呼んだときのぎこちなさは、もうほとんど残っていない。ユウの舌は自然に動き、喉は声を出す準備をしている。
何度も繰り返すうちに、心臓の高鳴りさえ“いつものこと”として受け止められるようになっていた。
スマホを握る指先に、汗がじわりとにじむ。
それももう驚きではなかった。
声をかける前から、ユウの身体は彼女に会う緊張と期待でいっぱいになる──それがいつものことだから。
呼吸を整え、名前を呼ぶ。
「リゼ」
瞬間、空気がわずかに揺れた。
机の端に積んであったプリントの束がカサリと音を立て、画面に淡い光が広がる。
やがて眼の前の空間にフレームが開く。
四角い輪郭が浮かび、見慣れた光景が現れる。
♢
石造りの宿の一室。
ベッドの上で姿勢を正して座るリゼ。
巻かれていた包帯はほとんど取れていて、肩や腕が自由に動いているのが見て取れる。
ユウは小さく息を呑み、そして口元を緩めた。
「…繋がった」
リゼも気づいたように笑みを返す。
「前より…長く続く気がする」
「今日は依頼に出たの?」
ユウが問いかけると、フレームの向こうでリゼが首を横に振った。
「いいえ。体を慣らす程度。…でも、もう大丈夫」
彼女の声は落ち着いていて、かすかに疲労を含んでいるようにも聞こえた。
ユウはその表情をじっと見つめ、息を吐いた。
最近はこうして他愛のない会話を交わすことが多い。
それはほんの数分のこともあれば、途切れ途切れの一言だけで終わることもあった。
けれど今日のリゼは姿勢も整っていて、言葉もはっきりしている。
「もう大丈夫」と口にするその響きが、ユウの胸にじわりと沁み込んだ。
(本当に……強いな)
彼女はあの日、大きな傷を負った。
倒れ込む姿を見たときの光景が、まだ脳裏に焼き付いている。
そのリゼが、こうしてまっすぐに座っている。
それだけで奇跡のように思えた。
ユウは机の端に置いた自分の手を見下ろす。
少し汗ばんだ掌をぎゅっと握り込み、口を開いた。
「大丈夫って言えるの、すごいな」
「なにが?」
リゼが小首をかしげる。
その動きが画面越しでも鮮明に伝わり、ユウは一瞬だけ目を逸らした。
言葉を探し、数秒の沈黙が落ちる。
唇がわずかに震え、ようやく搾り出すように声が出た。
「…悔しいんだ」
言葉が空気に乗ると同時に、ユウの胸が強く脈打った。自分の声がこんなにも弱々しく響くことに、本人がいちばん驚いていた。
リゼの視線が鋭く細められる。
「悔しい?」
「何もできない自分が、悔しくて。あのとき、君を守れなかった。……ただ見てるだけで」
声が途切れ途切れになる。
息が詰まり、机の上のノートに視線を落とすが、インクの文字が霞んで見えた。
「俺は……本当に、無力なんだ」
握った拳が震えている。
画面の向こうでリゼがじっと見ているのを感じる。返事を待つ間、秒針の音さえ耳に届いてきそうだった。
その告白に、リゼはすぐには答えなかった。
ただ沈黙の中でユウを見つめていた。
瞳の奥には責める色はなく、淡々と真実を見据える光だけが宿っている。
やがて、彼女は低く口を開いた。
♢
「…じゃあ」
その一言でユウの呼吸が詰まる。
鼓動が一拍ごとに耳に響き、手のひらに汗がにじむ。
「覚えてる? 私、あの“手”に握られて……もう潰されるって思った」
リゼの声はわずかに震えていた。
言葉と同時に彼女の肩が小さく揺れ、当時の記憶が彼女自身を苛んでいるのが伝わってくる。
ユウは唇を噛み、画面の縁を見つめた。
「それでも必死で叫んだの。──“助けてユウ、助けて!”って」
その声が耳の奥で反響し、胸の奥に重く突き刺さる。自分の名を呼んだ必死の声。
その瞬間を思い出し、ユウは胸を焼かれるように熱くした。
そして、リゼは静かに言い切った。
「で、キミは何ができたの?」
ユウの胸が鋭く抉られる。
喉が詰まり、返す言葉が見つからない。
唇が開いても声は出ず、沈黙だけが重く流れた。
視界に浮かぶのは、あの日の光景。
巨大な手に握られ、無力に垂れ下がるリゼ。
伸ばそうとした自分の手は届かず、ただ見ているしかなかった。
──俺は、何もできなかった。
指先が震え、机の端を掴んだ。
ペンが小さく跳ね、落ちかけて止まる。
その些細な物音すら、自分の無力さを告げているようで胸に刺さる。
ユウはゆっくりと顔を上げた。
声が震えてもいい、掠れてもいい。
彼は唇を強く結び、視線をリゼに向けた。
「……それでも、もう諦めない」
その言葉とともに、胸の奥の熱が形を持って外にあふれ出す。
呼吸は乱れているのに、声だけは途切れなかった。
ユウは真っ直ぐにリゼを見据える。
「今度は絶対に──俺が助ける! どんなことがあっても! 必ず!」
声が響き、部屋の空気が一瞬だけ張り詰める。
窓の外で遠く犬が吠えたような音さえ、決意の余韻を後押しするようだった。
リゼは目を細め、ふっと鼻で笑った。
「……呑気なものね」
けれど、その声音にはかすかな揺らぎが混じっていた。ユウの言葉が彼女の心を確かに揺さぶったのだと、ユウ自身も感じ取った。
「嘘じゃない!」
ユウは、言い切ったあとも視線を逸らさなかった。胸の奥で脈打つ熱が理性を押し流し、ただ「守る」という意思だけが残っていた。
その瞬間──。
フレームの縁にノイズが走った。
青白い光が脈打ち、まるで呼吸をしているかのように明滅する。
机の上に置かれたペンが小刻みに震え、消しゴムがゆっくりと転がり始めた。
耳の奥で低いうなりが響き、窓ガラスがかすかに軋んだ。蛍光灯の明かりが一瞬だけ瞬き、部屋の空気が薄くなるような感覚が全身を包み込む。
ユウは一歩前へ踏み出した。
胸の奥の熱が喉を押し上げ、衝動が体を突き動かす。
「……リゼ」
伸ばした手がフレームに触れる。
冷たいガラスの感触があるはずだった。
だが、指先は抵抗もなく沈み込み──水面を押し分けるように揺れた。
瞬間、掌に伝わったのは確かな柔らかさ。
華奢で、温かく、震えている。
間違いなく、人の肩の感触だった。
ユウの心臓が跳ねる。
視線を上げれば、リゼもまた驚愕に瞳を大きく見開いていた。
「「……え?」」




