第十六話 契約の相手
2025.2改稿
何者かの影を追って行ったハルさんがすぐ何者かを引きずるようにして戻ったのだけれども……。
「ガレー室長?」
ハルさんに腕を拘束されていたのは、先ほどロゼの町に帰ったと思った室長だった。
彼はすっかり青ざめた顔で、冷や汗をかきながらガクガクと震えている。自分を拘束するハルさんの体格と力、引きずり出されて面前に並ぶ私たち、そして相変わらず眼光鋭い殿下に見据えられているせいもあるだろう。
「誰に命じられて潜んでいた?」
ハルさんの追求に、ガレー室長は可哀想なくらいに「ひっ」と悲鳴を上げながら飛び上がる。
「待ってください、殿下。ガレー室長は、きっと私の誘いに応じてくれたのだと思います」
可哀想になってつい助け船を出す。生まれたての子鹿のごとく膝を震えて立つ姿からも分かるように、やっぱり彼は小心者なのだ。大きな事を自分の意思でしでかす人ではない。
こういう人間を、きっと私よりも多く見てきただろう殿下も、呆れた様子でハルさんに彼の拘束を緩めるよう告げると。
「ここに残った理由を聞こう、本当にコレットの提案に応じて戻ってきたのか? それとも何か含むところがあるのか。正直に話すのならば、相応の扱いで応じる」
殿下の言葉に、ガレー室長はあからさまに安堵した様子で膝をがっくりと床につく。
そして殿下に縋るようにして告げたのだった。
「そのコレット=レイビィにより報告がされているかもしれませんが、私は確かに不正会計を行い、浮いた金を横流ししました。ですがそれは命令されて行っていたにすぎないのです。どうか私の話を聞いてください、王子殿下」
その言葉に、私と殿下は顔を見合わせる。
私としては、昼間のうちに室長へは圧をかけておいたので、この流れは不自然ではないけれども、ガレー室長のことをよく知らない殿下にしてみれば、信用できないのは当然のことだろう。
殿下はハルさんと私の側に寄っていたダンちゃんに目配せして出入り口を守らせ、代わりにエルさんをガレー室長の側に付けさせた。レスターは柄に添えていた手を戻しつつも、私の側から離れるつもりはないらしい。
そして殿下はイオニアスさんに記録を取るよう指示をしてから、改めてガレー室長に向き合った。
「では聞かせてもらおうか。誰の指示で修復事業の資金から裏金を作り、それをどこへ流した?」
真っ先に核心をつく問いなのが殿下らしいなと思いつつ、緊張した面持ちのガレー室長の言葉を待つ。
ぎゅっと一度口を結んでから、彼は喋ろうとしたのだけれど……
殿下を正面にした室長の横顔が、少しずつ歪む。痩けた頬がピクリと震え、薄くなった彼の頭頂部に汗が滲んでいるのを見て、私は身を乗り出して、青ざめながら倒れそうになるガレー室長を支えながら叫ぶ。
「殿下、その質問は撤回してください! 早く!!」
殿下がすぐに察してくれたようで、すぐに訂正の言葉を発してくれる。
「ガレー、今の質問には答えなくていい」
そう素早く殿下が口にすると、ガレー室長はへなへなと腰を床に落とす。そして頬をつたう汗を、その厚手の袖で拭いながら、私の手をぴしゃりと振り払った。
「いい、お前に助けられたら、なおさら具合が悪くなりそうだ」
そんな室長らしいやせ我慢の台詞に軽く笑った私とは裏腹に、側にいたエルさんの手にはいつの間にどこから出したのか、細く鋭い刃を室長にわざと見えるように喉元に当てているし、見えないけれどもレスターがいるはずの後ろからは鍔なりがした。それはもう、一瞬で部屋の空気が凍ったのが分かる。
室長と折り合いが悪いのは伝えてあったのに、これくらいで大げさな。そう思って顔を上げると、殿下が頬を引きつらせて怖い顔をしているのがそもそもの元凶だと分かり、私は黙ってガレー室長から離れて元の椅子に座る。
ガレー室長は私がどういう立場か知らないんだから、仕方ありません。危ないものは仕舞わせてくださいってば。
殿下にはそう視線で訴えると、エルさんに視線を向けて刃を下げさせてくれた。
ようやくほっと息をついて、私は仕切り直す。
「殿下、室長はこの修復事業の仕事をするにあたって、約束の石で契約を交わしています。今は病で伏せっていらっしゃると噂の、現アルシュ侯爵とです」
「シュベレノアではなく?」
一連のやり取りに真っ青になっていたガレー室長も、殿下に問われて我に返り、しっかり頷いてみせた。
「は、はい。私の主は、トーラス=アルシュ様でございます」
殿下としては、父と娘が結託していると考えていたに違いない。王都を発つ前に見せられた侯爵からの手紙には、ただひたすらに殿下と令嬢の婚姻を願う文が綴られていたのだから。逆に反目しあっているのなら、今後の対応を考え直さねばならなくなるだろう。
「アルシュ家ではなく、トーラス=アルシュ個人との契約と受け取っていいのか?」
「その通りです」
「シュベレノアは、その契約に立ち会っているか?」
「契約がなされた事はご存知ですが、契約の場には立ち会っておりません」
殿下は少し考えて、言葉を選ぶ。
「リヴァルタ橋修復事業での会計士としての契約、それ以外の事項があるかどうか、シュベレノアは聞かされていないのか?」
「その通りです」
「その秘匿されている契約内容は、トーラスの判断か……」
ほんの少しだけれど、場の空気が軽くなる。
少なくとも、目の前のガレー室長は、シュベレノア様に契約で縛られていないという事だけは確認出来たわけで。
「では会計士ガレー、話とやらを聞こうか」
殿下が自由に発言することを許すと、エルさんがガレー室長のために椅子を用意してあげて、ようやく室長も腰を落ち着けることができたようだ。
そうして室長が話し始める。
「私が侯爵家に招かれた時には既に、当主様は床に伏せておられ、領地の経営はほとんど家令とシュベレノア様に任されておりました。重要な署名捺印以外で、当主様に出来ることはもうほとんどなく……」
「シュベレノアが勝手をしていた?」
「はい、そうだと思います。私が招かれた時には既に、アルシュ家の資産は底をついていたのではないかと」
もしかして、アルシュ侯爵はガレー室長に指示を出して裏金を作らせたのは、シュベレノア様に見つからないために?
「シュベレノアが領地経営を失敗し、負債を抱えた程度のことならば、あえて彼女から隠して金を作る必要はないな。シュベレノア=アルシュが、何を考えているかだが……」
「殿下、確か先代侯爵様が亡くなられた時に、密葬だったにも拘わらず多額の費用を計上していたって、ヴィンセント様が言っていましたよ。アルシュ家の負債は今日昨日の話じゃありません、もっと根が深いのではないでしょうか」
私が口を挟むと、なぜかガレー室長に睨まれ舌打ちされた。
「殿下、どうしてこの場にこの余計な小娘を置いているのですか、大事な話をしたいのです。少しの間、席を外させたらよろしいので……ぎゃ⁉」
再びエルさんに刃物を突きつけられ、ガレー室長は尻尾を踏まれた猫のような声を上げた。
「先ほどから余計なことをしているのはどっちなのか、まだ分からないみたいだね?」
エルさんがひたひたと鋭く光るものを、怯えて言い訳もできないでいる室長の頬に当てるではないか。
「ちょっと止めてください、エルさん。まるでこっちが人攫いの悪者みたいじゃないですか」
「人攫いって、君を庇ってあげたのに酷いな」
「いいんです、室長はいつもこんなものですから慣れっこですって……ほら殿下も。話が進まないじゃないですか!」
振り向くと殿下が冷気を垂れ流している。
時間がないのは、本当なのに。こんな場に、シュベレノア様の手の者が乗り込んできたら、作戦会議どころじゃない。
殿下も自覚はあったみたいで、私は殿下の部下として同席させると宣言して話を促した。
「殿下、私には令嬢が何を考えているのかなど見当もつきません。ですが、どうかお願いします、アルシュ侯爵様をお救いください。私が見た時ですら、病気とはいえ部屋から一歩も出られない状況だったのです。交わされる書類のサインだけが、侯爵様との繋がりだったのにそれも……偽造されたものだとしたら、今現在どうされているのか心配でならないのです」
「偽造?」
目配せをしてくる殿下へ、私は頷く。
「はい、ある日を境に、筆跡が変わった疑いがありまして……」
「それは確かなのか?」
殿下はすぐに事の重大さを理解する。
自ら発見したわけではないせいか、ガレー室長が言葉を詰まらせるので、そんな彼に変わって私が説明することに。
「巧妙に似せてありますけれど、恐らく別人ですよ。とても上手に特徴をとらえていますから、熟練した詐欺師か……でなければ見慣れている身内でしょうね」
自信満々な私の言葉に、殿下が眉を寄せるので、補足をしておく。
「商会などでも署名偽造は稀にあります。相続争いの末に不正書類を作ったり、または帳簿をきちんと管理していなかった小さな店などが、もぐりの会計士に作らせたあげくサインもさせちゃうとか。馬鹿馬鹿しい理由がほとんどですけれど、中には大きな不正が隠れていることもあるので、私たち役所の会計士をしていた者は筆跡については敏感なんです」
「ほう、そうなのか」
感心した風な言葉なのに、私と室長を見比べて目を細めるものだから、室長は脂汗を滲ませている。
「ということで、殿下は一度、領都のギレンに向かった方がいいと思うんですよね。室長の様子から、約束の石による契約は切れていないのでご侯爵様の命はご無事でしょうけれども……病気を理由とするならば代理人を立てればいいのです。正式に手続きを踏み侯爵様が認めさえすれば、代行者として令嬢の名前で決済できるものをしない、できない理由があると言っているようなものです」
「分かっている、ギレンには私が出向く必要があることは……だが」
殿下がここを離れるのを渋る理由。向けられた目が、何を考えているのかくらい私にだって分かる。
でも分かるからこそ、それは嫌だという私の気持ちも殿下に汲んでもらいたい。足を引っ張りたくて、ここまでついて来たのではない。
「ねえ殿下。どんなに秋波を向けられても、シュベレノア様に操られることはないって信じていますよ、私。だからシュベレノア様を連れてギレンに行っていてくださると、こっちの現場は助かるなあ……なんて」
うふふと笑うと、殿下は少しだけ天を仰ぐ。どうやら負けを認めたようだった。
「分かった、一旦ギレンの領主館の方を調べる。その代わり、絶対に無茶はするな。明日には後発の視察団が到着する。そこの設計士が調査して、再度の崩落の危険がないか判明するまでは工事は中断させる」
殿下はそう告げると、護衛官たちの配置について話し合いを始める。
ガレー室長も、側で脅してきたエルさんが離れると気が抜けたようで、大きなため息をついている。そんな彼に、まだ残っていた疑問をぶつける。
「室長、どうして殿下に助けを請うことにしたんですか? 殿下が室長の一番苦手とする堅物のくそ真面目な質なのは、分かりそうなのに」
そんな言い方に驚いたのだろう、ぎょっとした顔をしてから殿下を見るガレー室長。
でも殿下には聞こえなかったようだと判断したのか、ひそひそ声でこう言った。
「本当は、こんなこと計画に入れていなかった。恐らく、殿下はシュベレノア様には魅了されるだろうと思っていたからな。だが噂に賭けることにした……どうやら真実だったようで助かった」
「う、噂ですか?」
クラウスやリヴァルタのような辺境の町にまで、殿下が恋人を囲っていると噂が出回っているのかと驚き、室長の次の反応に身構えるものの、どうやら私の大きな勘違いだったようで。
「そりゃあ、口では言えないご趣味なら、あのような魅力的な女性には興味が無くても仕方が……」
「え、そっち?!」
驚いて大きな声が出てしまった私の口を、ガレー室長が手で押さえる。
「しぃっ! 不敬罪で首が飛ぶぞ」
「もごっ……そうじゃなくって」
さすが王都から遠くないとはいえ、山に囲まれて街道が不通になっている辺境。噂が周回遅れとは驚くのも仕方ないでしょう。
笑いながら説明しようとしたところで、背後から冷気が。
ちらりと見たら、琥珀色の目を光らせる悪魔がいる。
なんて地獄耳。
余計な誤解は解いておかねば、今後の作戦に仇を成すかもしれない。
「ち、違いますよガレー室長、それこそ誤解です。殿下はそういう人に言えないような趣味はありません、そもそもそれは悪意があって流されたデマです」
「なんだ、そうだったのか? だがお前の言う事じゃ……」
私にケチをつけることにかけては、相変わらず天下一品な室長。
まあいいや、説明した方が面倒くさいし。そうして諦めて話題を逸らす。
「ガレー室長こそ美人が好きなくせに、シュベレノア様には辛辣ですよね。何かあったんですか?」
だがそれが彼にとって、地雷だったようで。
それまでいつもの調子を取り戻したかのごとく居丈高だった表情をすっと無くしたかと思うと、薄い唇を引き結び、肩を震わせたのだ。
「ガレー室長?」
「あの方は……初めてギレンで館に招かれたあの日、私を見てこう言ったのだ“なんと醜く汚らわしいのか”と」
それは、絞り出すような声だった。
 




