番外編 ラディスの願い
2025.2改稿
ラディス=ロイド王子は、視察として訪れたリヴァルタ渓谷での視察二日目を迎えた早朝、アルシュ侯爵家による予想外の動きへの対応に追われていた。
予めの予定では、アルシュ侯爵との顔合わせは昼頃となっていたはず。だがラディスたちが宿泊していた、渓谷橋を渡った先のロゼという町に、日が昇って間もない頃に一団が到着したのだ。それも会う約束をしていたアルシュ侯爵本人ではなく、令嬢シュベレノア=アルシュが来たという。
「トーラス=アルシュの病が重いという噂は、真実ではないと思っていたのだがな……」
身支度を調えながらラディスがそう呟くと、側に控えていた護衛官のエル=ディアスが頷く。
現当主であるトーラス=アルシュ侯爵は、王子が幼い頃から変わらず支持する派閥の長であるが、だからといって王家に次ぐほどの権力に固執するような愚かな人物ではなかった。どちらかというと、保守的であり貴族家間の諍いを避けるための方策を常に巡らせる人物だ。だからこそ、文に秀でているとされたラディスの評判を、侯爵は誰よりも肯定していた。
そんなアルシュ侯爵も、徐々に王都に赴くことが減り、いつしか病の噂がまことしやかに流れ始めた。それと同時に、侯爵家からは正式にシュベレノアを王子妃にと自ら推挙してきたのだった。
ラディスは最後にタイを結び終える頃には、護衛頭のハルムートも揃った。
「ハルムート、アルシュ侯爵家側の同行者の内訳は?」
「それが、アルシュ侯爵家の私兵およそ三十名、加えて執事と侍女が三名ほどです」
その報告にラディスは訝しむ。
「私兵? 三十名とは大がかりだが、ヴァン=ダイクは同行していないのか?」
初代王の弟が始祖であるアルシュ家には、騎士団を組織することが許されている。あくまでも形式上の権利なので、領軍の将に騎士を配するぐらいではあるが、他の貴族家にはそれすら許されてはいない。その将に就いていたのが、ヴァン=ダイクという者だ。
「殿下、執事に確認しましたところ、ヴァン=ダイクはアルシュ領を去ったとのことです」
「何? それはいつだ?」
「私もそれを問うたのですが、はぐらかされまして……」
ラディスの驚きに、ハルムートは渋い表情をしたまま頷く。
「直接問いただすしかないな。シュベレノアは?」
「既に教会の中でお待ちです」
「分かった……ハルムートはそのままアルシュ私兵の様子を調べてくれ。それからエルは予定通り私の側に。近衛たちは予定通りリヴァルタに向かわせ、受け入れの準備をさせるよう伝えろ」
指示を出して、早速ラディスは教会の中に用意された貴賓室を出た。
向かうは、同じく教会の奥に作られた祈りの間。ミサを行う広間は、負傷者のための救護室になっている今、唯一空いているのがそこになる。
高位の神官のための部屋でもあり、重厚な扉を隔てたそこは狭いながらも最も美しく整えられた部屋だった。
そこでラディスを待っていたのは、幼い頃から顔をよく見知っている令嬢、シュベレノア=アルシュだった。
入ってきたラディスに向かって、シュベレノアはドレスを掴んで膝を折り、頭を下げた。
「堅苦しい挨拶はいい、一年ぶりくらいかシュベレノア、顔を上げてくれ」
そう告げられて、シュベレノアはゆっくりと顔を上げた。
侯爵令嬢は、ラディスと同じ歳だ。政務に追われたラディスにとっての一年は、自身にとって肉体的にさほど変化を感じるものではなかったが、女性にとっての一年は全く別ものなのかもしれない。そう思ったのは、利発ではあるが頼りなげない印象もあったシュベレノアが、見違えるほどに大人の女性へと変貌していたからだった。
しっかりとラディスを見るアッシュグレイの眼差しは自信に満ち、伸ばされた美しいブラウンの髪は艶やかで、女性らしいドレスの豊かな胸元に波打つ。
だが一方で伸ばした背筋からつんと上がる顎と通った鼻筋、広く露わになっている額には、以前と変わらぬ負けん気が強そうな様子も見て取れた。
その胸元に、大きな黒い石がついたネックレスがある。
だがそれに目を細めたラディスの背後で、ふとため息のような息づかいがする。
「……エル?」
振り向いたラディスの声で、護衛官のエルがハッとして姿勢を正すのを確認し、気を取り直す。
「トーラス=アルシュ候は、息災か?」
ラディスの問いに、シュベレノアは憂いを浮かべる。そしてふっくらとした唇を震わせながら答える。
「この三ヶ月ほど、父は床から起き上がることもままなりません。わたくしが領の全ての業務を代行しております」
「それほどとは……医者の見立ては?」
「原因は分かっておりません。身体の衰えに、心の方が引きずられているようで、塞ぎ込んでしまっております。しばらく仕事から離れ、療養するようにと言われております」
ラディスはそれ以上追求することなく、シュベレノアに侯爵への見舞いの言葉を述べる。そしてすぐに本題に入る。
「其方が代行をしていることは分かった。だが今日の急な予定の変更の理由を教えてくれ」
するとシュベレノアは。
「実は、リヴァルタ渓谷橋工事の中止を求める、脅迫状が送られて来ました」
「中止を求める──? 差出人は?」
「こちらをご覧ください」
シュベレノアから差し出された書状を、ラディスは受け取って開くと、そこには確かに工事の中止を求める文言が書かれている。だがそれだけではない。この忠告を聞かずに王家主導で強引に推し進めるのならば、武器を持って蜂起するとあった。その回答期限が、今日とある。差出人は『アルシュ解放軍、シーバスの翼』とある。
「シュベレノア、リヴァルタ渓谷に村人が残り、そこにならず者が集まっていることは調査で聞いている。だがこの件をなぜ先に報告しなかった?」
「これを見たのは、わたくしも昨日のことでしたの……お恥ずかしいことですが、屋敷の者がその痴れ者たちに加担していたのです」
ラディスの鋭い視線を受けても、シュベレノアは怯むことなく告げると、胸の前で祈るように手を組み、信じて欲しいと瞳を揺らしながら付け加えた。
「その判断は、後でもできる。今は対策が先だ……エル、近衛隊に至急の連絡を……エル?」
振り返った先の護衛官が、ぼうっとしていることにラディスは違和感を覚える。
常に周囲への警戒を怠らないことが彼の利点であるはずが、いつも通りにボサボサのまま顔にかかる髪の奥の瞳には、覇気がない。そばかすの散る頬は緩み、ラディスすら冗談かと思うほどに口がぽかんと空いている。
同時に、ラディスは周囲の様子に神経を巡らす。
シュベレノアの背後に控える年老いた執事と、侍女の様子もエルと同じように、呆然としている。そして三人の視線の先は、当然でもあるがシュベレノアにある。
ラディスは内心舌打ちしながら、護衛官のエルの肩に手を伸ばして強く掴む。
「エル、準備を急がせてくれ、至急リヴァルタ橋に出発する。到着次第、レスターを呼んでくれ。近衛を配置して警備を強化させる」
「は……はい、承知しました」
慌てて踵を返すエルを見送るラディスの眉間には、深い皺が刻まれていた。
ラディスはどうしてか分からないが、そこに控える令嬢が微笑む様が、背を向けたままにも拘わらず、ありありと頭に浮かぶのだった。
それからラディス王子視察団は、予定よりも早くロゼ寺院を出発するよう指示が出された。だが結局は、予定通りの時刻を回る。なぜなら、団の統制が上手くいかないとの報告を受ける。
主に足を引っ張ったのは、アルシュ侯爵家の私兵たちだった。どうにも訓練不足なのか、足並みが揃わず、細い街道を進むにあたって事故が起きかねない。仕方なくラディスの指示で近衛が間に入る形となった。
騎士を叙任したヴァン=ダイクが居た以前ならば、そのような無様な事にはならなかったろうとラディスは馬車の中でため息を零す。
「頭が痛い問題ばかりだな、今日の予定だけでもここで詰めておくか」
ラディスは手短にハルムートとエルとともに注意事項を確認する。
まずは到着したらすぐにエルはコレットの元に向かい、レスターと交替する。解放軍とやらの件はまだ分からないことばかりなので、まずは伏せたままシュベレノアとの接触を回避すべく移動を禁じる。
ハルムートは私兵たちから情報を聞き出すことを命じると。
「殿下をお一人にするのは……」
「大丈夫だ、アルシュ領への反乱についてシュベレノアから聞き出すのには丁度良いだろう。それに、エルに加えてお前までおかしくなったら、目も当てられん」
ラディスがそう言うと、エルは申し訳なさそうに肩をすくめる。
「なんだか、ぼうっとしてしまって……」
「殿下にもしものことがあれば、取り返しがつきません」
「二人揃って正気を失ったら、誰が戻す? 私が少しでもおかしかったら、容赦なく殴ってくれ」
心配そうなハルムートに向かって、ラディスはニヤリと笑う。
「……分かりました、確かに正気を失っていてもエルの実力では殿下に拳を当てることは無理でしょう。もし殿下が正気を失うようでしたら、私がさせていただきます」
「ああ、頼む。何がきっかけかは探りながらになるだろう、くれぐれも注意してくれ」
そうして短い打ち合わせを済ませると、ラディスは手紙を認める。
手短な文章に、憤慨するコレットの顔を思い浮かべて、小さく笑った。
本人に自覚はないようだが、些細な事にこそ彼女は常にコロコロと豊かな表情を見せる。からかえば、口を尖らせてすぐに反論するし、借金が無くなった今も金を目にすると頬を緩めて上気させる。逆に困難には平気な顔をして、とんでもない事を隠し切る強さを持つ。それが分かっているからこそ、ラディスは彼女を怒らせてその顔を見ていたいし、そういう顔を普通に見せられる日常を与えたいと願っている。
手紙を折りたたんで封をしてエルに持たせると、ラディスは停められた馬車を降りる。
先触れを出していたため、工事責任者たちがラディスを待ち構えていた。その中央で、侯爵令嬢シュベレノア=アルシュが当然のごとくエスコートを要求する。
ラディスは黙って令嬢に手を差し伸べ、リヴァルタ渓谷橋の視察二日目に臨むのだった。




